1.悩める魔女「犯罪だよ!」

「あー、今日もダメダメだった。もうほんとどうしていいのかわからない。まずいまずいもーほんと」

 だめかも、とつぶやいたマリィは、地下鉄のホームから登ってきた階段の最後の一段にかけた足に力を込め、気分もろとも地下に沈んでいきそうな身体を地上に引き上げた。そのとたん、湿り気と埃と排気ガスが絶妙に交じり合った空気に全身が包まれる。

 魔術と錬金術と科学の都ナッジは、いつだってガスと霧に覆われていた。故郷ならば緑と花の香りに満ちているはずの春の夜の空気も、ここではすこし淀んでいる。

 だが、進学を機にナッジに出てきて早や五年近く。こちらの空気にもすっかり慣れた。

 そんな嗅ぎなれた空気の中に、いつもと違う匂いが一筋混じっているのに気づき、マリィは首をかしげた。

 さわやかで、少し甘い、香草のような香り。

 知らない匂いではない。でも、いつ、どこでかいだのだったか。ずいぶん前のことで、ナッジではなかった気がする。

 とてもなつかしくて、とても慕わしい香りだった。

 その香りに誘われるようにふらふらと、家へ戻るのとは別の方向へ進んでいく。

 街路に立ち並ぶ灯りが、ぼんやりと進む先を照らし出す。夕飯時を過ぎた時間帯のせいかすれ違う人は少なくて、寝る前の時間をゆったり過ごしているのだろう、どこかの家からレコードだろうか、音楽が漏れ聞こえてくる。

 たどり着いたのは噴水のある広場で、そこには異国風のちいさなテントが張られていた。占い小屋のようだ。

 この広場には休日に散歩で立ち寄ったことがあるが、占い小屋が出ているのを見たのは初めてだ。

 香りは、どうやらその小屋の中からあふれているらしい。と、その香りをいつかいだのか、唐突に記憶が甦る。

 ナッジとは違って、いつだって明るい光に満ちていた木の匂いのする家。遊びにいけば、やさしくほほえんで迎えてくれた祖母。そんな彼女をときおり訪ねてきていた不思議なお客たち。そんなお客のひとりが、この香りを身にまとっていた。

 祖母が亡くなって、両親はあの家を売り払ってしまったから、あそこでのことを思い出すのはずいぶんと久しぶりだ。

 幼かったので記憶は曖昧だが、祖母の客はいつだってマリィに甘くって、お菓子をくれたり頭をなでてくれたりしたものだった。

 もう十五年以上前の話だ。

 もうマリィは二十二歳で、お菓子どころか苦いエールだってたしなめるし、失敗続きの上に恋人もいない身の上で頭をなでてくれる人だっていない。

 一瞬忘れていた自分の現状を思い出して、がっくりとうなだれる。

 悪いのは自分だとわかっているけれど、どうすればいいのかがわからない。路頭に迷うとはこのことだ。

「ん? 待てよ?」

 地面に落としていた視線を上げれば、目の前には占い小屋。

 占いとは、迷える者に超常の力からの指針を伝えてくれるもの。魔女ではあるが占いの才能に恵まれなかったマリィにはその感覚がわからないが、魔女仲間の中には占いの得意な子もいたし、彼女たちの助言はたいそう役に立つものばかりだった。

 今の自分にはぴったりではないか。

 ここに至ったのも何かの縁。知人ではない人に占いを頼むのは初めてだが、「占い師」を名乗る人物はその道のプロフェッショナルに違いない。

 よし、いってみよう。

 そうと決めると行動が早いマリィは、テントの入り口の垂れ布をばさりとひるがえした。

「んもーいらっしゃいいらっしゃい待ちくたびれちゃったさあさあ座って」

 声をかけようと口を開く前に、目の前に来ていた人物にテンション高く手をとられ、そのままテント中央にあるテーブルの前に座らされた。

 赤い布のかけられたテーブルの上には台座に置かれたいかにもな水晶玉。マリィを引っ張った人物は全身黒い装束で、頭からヴェールまでかぶっているせいで、笑っている口元しか見えない。わかるのは、マリィよりは年上のようだがまだ若い女性で、かなりの美人らしい、ということくらいだ。

 彼女が自分とテーブルを挟んで向かいの椅子に座ったのを確認してから、マリィは口を開いた。

「あ」

「んーわかってるわかってる。恋のお悩みでしょう? だいじょうぶもう安心して私がずばっと解決して見せるから」

 の、と切り出す前に、またしてもマシンガントークでさえぎられる。

「そうねぇまずは――」

「違う違う!」

 そのまま進んでしまいそうになった話をあわてて中断する。

「私が悩んでいるのは、職場の人間関係だから!」

 なんで恋愛相談などと勘違いされたのだ。

「えー、そこからぁ?」

 何がご不満なのか、占い師の唇がとんがる。

「まあいいわ。順を追って話してちょうだいな」

 テンションが下がったらしく、先ほどより落ち着いた声音になった彼女に促され、マリィはことの始まりから話し始めた。

「あの、最近、学院時代の恩師に声をかけてもらって、あるプロジェクトに参加してるの」

「学院」は、魔術師や錬金術師、科学者が中心となって組織する「協会」が運営しており、主に大学と同等の教育機関という位置づけだ。マリィの実家はナッジ郊外のちいさな村にあるが、学院に入学することになった十八歳のときからナッジでひとり暮らしをしている。

 この前の夏に学院は卒業して、今は派遣魔女として細々ながらも身を立てているマリィにゼミの指導教員であり、魔術の大家でもある恩師ベルテから連絡があったのは、冬の終わりのことだった。

「科学と魔術と錬金術、それから魔法を組み合わせたまったく新しい技術の開発で、すごく有意義だし、楽しいんだけど――」

「人間関係に問題が生じている、と?」

 占い師の合いの手に、マリィはこくりとうなずいた。

 プロジェクトに参加しているのは、ベルテとベルテの研究室の学生や助手たち、プロジェクトのパトロンである企業から出向してきている科学者と魔術師が数名、加えてマリィのようにベルテから声をかけられて参加している外部の人間が数名だ。

 特に中心となっているのは魔術師としてベルテ、科学者として企業出向のアリシア、そして魔女であるマリィと、外部に工房を持ちながら今年度から学院の講師にも任命されている錬金術師のシリウスだ。

 魔法使いや魔女の絶対数が少ないせいで若輩者のマリィが重要なポジションにつくことになってしまっているが、マリィ以外の三人はそうそうたるメンバーだ。

 だが、好好爺然とした見た目ながらいまだ魔術の第一線で論文を発表し続けているベルテは学院時代にお世話になったやさしい恩師だし、付き合い方もよくわかっている。すでに大きな賞をいくつも取り、生きているうちにもっとも偉大な科学の賞をもらうだろうと噂されるアリシアも、見た目や話し方、たぶん性格もちいさい頃からマリィをかわいがってくれた実家の近所に住むおばちゃんそっくりで緊張しないですむ。

 問題は、シリウスだ。

「同僚に、ふたつ年上の男性がいるんだけどね、その人すっごいの」

 あの若さでナッジの中心街に自分の工房を持ち、いくつもの不可能だと言われた錬金合成を成功させ、今回のようなプロジェクトにいくつも参加して、学院の講師も勤めている。派遣の仕事で食いつないでいるしがない貧乏魔女のマリィとは大違いだ。

「で、今回、私はその人といっしょに作業することが多いんだけど――」

 プロジェクトの内容は部外秘なので占い師に伝えることはできないが、今回マリィたちが挑んでいるのは肉体を持った人造精霊の合成だ。ホムンクルスと人造精霊のハイブリッドとも言える。

 人造精霊の合成自体は、数年前すでに他のプロジェクトチームが成功しているが、その合成方法で生み出された精霊はこの世界に定着できず、長くても五分程度で消滅してしまう。今回のプロジェクトでは、合成精霊に肉体を与えることによって存在の脆弱さを補えるか、というところが焦点だ。

 人造精霊の合成は主にベルテが行い、その組成値の調整にアリシアが新しく開発した測定器を引っさげて協力し、人造精霊の入れ物となる意識を持たないホムンクルスの合成はシリウスが、出来上がった人造精霊をホムンクルスに移植して定着させる役割をマリィが担うことになっている。

 人造とはいえ生まれたばかりの赤子である精霊をあやし、なだめ、ここが君の居場所だよ、と語りかけられるのは魔女であるマリィだけだからだ。

 この身体には入りたくない、と精霊がぐずったならば、じゃあどういう身体がいいの、と聞き出して、それをシリウスに伝えて、調整してもらって――という作業を人工精霊が消えてしまうまでの数分間で行い、定着させる。

 それが目標だが、今のところ人工精霊にホムンクルスの身体に入ってもらうところにすら至っていない。

 それもこれもすべて、マリィが原因だった。

「私、その人を前にすると緊張しちゃって、うまくしゃべれなくって」

 どもるし、詰まるし、円滑なコミュニケーションどころではない。

 マリィがしどろもどろになっている間に人工精霊は「ばいばーい」と軽い調子で消えてしまう。

 ならば先に人工精霊が存在できる時間を延ばそうとベルテとアリシアが取り組んでいる間に、マリィとシリウスは器であるホムンクルスの調整の打ち合わせをするのだが、やはりうまく話せない。

 せっかく恩師が声をかけてくれたプロジェクトだったのに、マリィは足を引っ張ってばかりだ。このままではプロジェクト自体が失敗して、恩師にも、共同研究者たちにも迷惑をかけてしまう。

 比較的楽天的な性格のマリィでも、さすがにここ数日は落ち込んでいた。

「その人、嫌な人なの?」

 占い師に訊ねられ、マリィはぶるぶると力強く頭を振った。

「ううん、シリウスさん、すっごくいい人!」

 そうなのだ。シリウスは優秀なだけではなく、人間的にもできた人物だった。

「物腰やわらかだし、紳士的だし、こんな私にも敬語だし、失敗しても責めないし、いっつもやさしいし、あと、なんかいい匂いする!」

 力強く言い放つと、占い師は何がおもしろいのか「ふふっ」と笑った。

「そんなやさしくて、穏やかそうな人なのに、緊張するの?」

「だって、こう、いっつもまっすぐこっちを見て話してくれるから、なんていうか落ち着かなくて、そわそわしちゃって、ついでに心臓がどきどきしはじめて、そしたら息苦しくなって――そんな風になったらうまくしゃべれないよ……」

 むしろそんな状態でまともにしゃべれるものか。もういっそシリウスが悪いのだと逆ギレできれば楽になれる気もするが、そんなことをするのも申し訳ないくらいいい人なのだ。

 彼に困った笑顔をさせるのが心苦しくてたまらない。

「ふぅん? ところでその彼、かっこいい?」

 突然、占い師が訊ねてきた。どうしてそんなこと、と首をかしげつつも、マリィはうなずく。

「うん。研究室の女の子がきゃあきゃあ言ってるし、美形だと思うよ。さすがに精霊とか妖精並みとはいかないけど」

 銀色の髪に藍色の瞳、涼やかに整った顔立ち。人間の中では、マリィが見た中で一、二を争う美形だ。人外である精霊や妖精の儚げな美貌を見慣れた目には少し地味に見えるが、逆に落ち着く。

「……魔女って、やたらと目が肥えてるのが問題ね。そこは素直に赤面しておきなさいよ」

「え、なんか言った?」

「別に何でもないわ」

 占い師が何かぼそりと口早につぶやいた気がしたのだが、適当にごまかされてしまった。

「ね、ところで――」

 絶対何か言ったはずなのに、とむくれていたマリィに、占い師はとんでもない爆弾を投下した。

「彼に触られたらドキドキする?」

 あまりにびっくりして、息を吸い込んだ喉が「ひゅっ」と鳴った。

「さ!」

 いきなり何てことを言い出すのだ、占い師。

「さ、触るなんて、そ、そそそそんなこと、紳士的なシリウスさんはしないよ!」

 ベルテの研究室で初回の顔合わせをしてからこれまで、シリウスは徹頭徹尾礼儀正しい距離を保っていた。そんなセクハラまがいなことするわけがない。

 動揺のあまり顔を真っ赤にして言い返したマリィに、占い師は「まあまあ」と笑う。

「そんな色っぽい話じゃなくて。もしプロジェクトが成功したら『おつかれさまパーティー』とかあるかもしれないし、そうしたらダンスとかもあるかもしれないじゃない。それこそ紳士的な彼はダンスに誘ってくれるかもしれないでしょ?」

 まずこのプロジェクトが無事に成功するかに暗雲が立ち込めているのだが、失敗に終わったとしても「おつかれさまパーティー」は確かにあるかもしれない。ベルテはそういうお祭り騒ぎがけっこう好きなのだ。

 そうなった場合、占い師の言うとおり、シリウスはダンスに誘ってくれる気がする。そして彼の前ではいつだってしどろもどろなマリィはうまいこと断れない気がする。

 整った顔立ちに穏やかな笑みを浮かべて、優雅な仕草でこちらの手をとって、もう一方の手を腰に――。

「わあああああああ」

 そこまで想像したマリィは顔を覆ってテーブルに突っ伏した。勢いあまって、ごん、と額を打ち付ける。

「…………死ぬ」

 あのほっそりしているのに少し骨ばった長い指に触れられるとか、そんな事態になったら恥ずかしさのあまり、たぶん自分は死ぬ。どきどきしすぎた心臓が破裂してあたり一面血の海だ。何この想像。笑えない。

 くすくすくす、と楽しげな笑い声に視線を上げると、占い師は口元を押さえて笑っていた。

「何がおかしいの」

 恨みがましく言ってやると、彼女は「だって、ねえ」と肩をすくめる。

「あのね、あなたが彼に緊張するのは、あなたが彼に恋しているからよ」

 聞きなれない単語に眉をひそめる。

「恋?」

「そう、恋」

 むしろ恋以外の何ものでもないわそれ、と力強くうなずかれ、マリィはまたたきをしてから考え込む。

 恋って何だったっけ。

 実はマリィ、本格的な恋はまだしたことがない。ぼんやりとした、ほぼ憧れが主成分の初恋は経験済みだが、それもハイスクールの頃だ。正直恋よりも勉強に夢中なガリ勉タイプだった。だって勉強はおもしろい。ページをめくればめくった分新しい知識が増えるのだ。

 恋。恋。確か、物の本(少女小説)によれば、「好きっ、貴方のことが大好きっ」と頬を染めて言いたくなる不治の病だ。

 シリウスのことがきらいか好きかと聞かれれば好きだ。すごくいい人だと思うし、笑っている顔にはついつい見惚れてしまうし、やさしくしてもらえるとふわふわしてしまうし――。

 いやいや待て。落ち着け自分。もう少し冷静に状況を見極めよう。確か恋の初期症状は対象を目の前にしたときの動悸・息切れ、挙動不審、それから対象とだけうまくしゃべれなかったり――。

 そこまで考えて、マリィは再び奇声を上げた。

「うあああああああ」

 ごんごん、と頭をテーブルに打ち付ける。顔が熱い。絶対首筋まで真っ赤になってる。

「んーん、いい反応」

「いや。やめて。何も言わないで」

 心を無にしてしばらく沈黙していたかったのに、占い師は黙ってくれなかった。

「で、恋愛相談っていうことで、最初の話に戻っていいかしら」

「い、いや、待って。いやいや。万が一? 私がシリウスさんに恋をしているのだとしても、だよ?」

 百万歩ゆずってそうなのだとしても、だ。

「私の目下の悩みはシリウスさんとお付き合いしたいとか両思いになりたいとかじゃなくって、どうしたらあの人の前で挙動不審にならずに仕事がちゃんとできるかってことで」

「チッ」

「ええ舌打ち!」

 あんまりな反応にマリィはまだ熱の引かない顔のまま、がばりと身体を起こして占い師を睨んだ。

「もっとやさしい対応を要求する!」

「ごめんごめん。往生際が悪いものだから、ちょっと面倒くさくなっちゃって」

 面倒くさいって客に向かってアナタ。

「だって、あなたが彼に緊張するのはあなたが彼に恋をしているからでしょう」

「うわああああ繰り返すなああああ」

「ちょっとお黙りなさいな」

 ぴしゃり、と叱りつけられ、理不尽を感じたものの占い師が全身から発している迫力に気圧されてマリィは口をつぐんだ。

「どきどきしたり挙動不審になったりしてしまうのは、好きな人がそばにいるという状況に慣れていないからなの」

 つまり、と彼女は断固とした口調で続けた。

「いっそお付き合いまでこぎつけて、彼が隣にいるのが当たり前になれば、どきどきもおさまるわ!」

「な、なるほどー?」

 あまりに自信満々な態度と勢いに、思わずうなずいてしまった。

「だから、あなたが私に相談すべきは恋愛相談よ!」

「なるほど!」

 目から鱗である。

 生来素直なマリィはあっさり丸め込まれた。

「ふぅ、これでやっと最初に戻れたわ」

 占い師である彼女は、最初からマリィの悩みの本質を見抜いていたのかもしれない。ずいぶんな遠回りにつき合わせてしまった。

「お手数をおかけしました」

「いいのよ。大切なのはここからなんだから」

 占い師は唯一見えている口元に慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「それでね、まずはあなたと彼の距離をもっと近づけなくちゃいけないと思うの」

「距離を」

 マリィは大真面目な顔でうなずいた。

 確かに今現在、マリィとシリウスの仲はただの同僚だ。「恋人」にステップアップするためにはいくらかの手順が必要だろう。

「ところで彼、ひとり暮らし?」

 占い師の唐突な発言に慣れ始めたマリィは、彼女の意図を考えもせずうなずいた。

「うん。シリウスさんはこの国の出身じゃないから。自分の工房の二階で寝起きしてるんだって」

 もちろんこれはマリィ自身が聞き出した情報ではない。きゃっきゃとシリウスに話しかけては情報を引き出している女子学生たちの話を小耳に挟んだのだ。

 魔術と錬金術と科学の都ナッジは知識の最先端だ。シリウスだけではなく、多くの魔術師、錬金術師、科学者、もしくはその卵たちが世界中からこの街にやって来る。

「そう。好都合ね」

 占い師の笑みが深まる。

「あなた、彼の家に火をつけてらっしゃい」

「ん?」

 聞き間違いかな、と首をかしげたマリィに、占い師は笑顔で言い放つ。

「それで焼け出されて行き場をなくした彼を自宅に招待なさい」

「犯罪だよ!」

 さすがにこれは丸め込まれてはいけないやつだ。カッと目を見開いてマリィは力いっぱい突っ込んだ。

「ダメかしら?」

「むしろどうしていいと思ったの!」

「でも行き場をなくした彼にやさしく手を差しのべるあなた、ぐっと縮まるふたりの距離……って王道じゃない?」

 いや確かにマリィだってそういうシチュエーションを物の本(少女小説)で見たことがないとは言わない。

 だがしかし。しかし、である。物語の中の火事はおおむね不幸な事故だし、たまに敵役による陰謀だったりもするが、間違っても主人公に想いを寄せる相手役による犯行ではない。

 そう、犯行。明らかに犯罪。

「……それだったら、自分の家に火をつけたほうがましだよ」

「それだ!」

「どれだ!」

 打てば響くような占い師の言葉に突っ込み返して、マリィは深いため息をつきつつ肩を落とした。

「しないよ? 自分の家だろうと放火だし、思えば、うち、アパルトマンだったよね!」

 シリウスのように自分の工房を持てるほどの売れっ子ではないマリィが住んでいるのは、共同住宅だ。

 住人もいい人が多く、住み心地のいい我が家なのだ。恋の成就のためとはいえ、燃やすわけにはいかない。

「でもねぇ、恋におけるいちばんの有効打は、物理的に距離を縮めることなのよ」

「物理的に距離を」

「そう、物理的に」

 うむ、うむ、とお互いに無意味にうなずきあってみる。

「放火以外にひとつ屋根の下ラブを発動させる方法、あるかしら……?」

 大真面目にそんなことを言い出した占い師に、マリィはおずおず申し出る。

「いきなりそれはハードルが高すぎるので、職場とかで気軽にできるやつをご教授いただきたいんだけど」

「えー、お手軽ダイエット講座じゃないんだから」

 ぶー、と占い師がむくれた。

「それに、そんなのじゃ、あなた、彼を落とすのに千年くらいかかっちゃうじゃない」

「そんなに」

 それはシリウスが高嶺の花だということか、それともマリィの魅力が雀の涙だということか。

 どっちにしろ、それならいっそあきらめろと言ってくれた方が気楽なのだが。

 仕方ないわねぇ、と言いつつ、占い師は初めて水晶玉に手を伸ばした。いかにもそれらしく手を翳し、しばらく黙りこむ。

「あら」

 意外、と言いたげな声を上げた彼女の唇の端が愉快そうにつりあがる。

「あらあら。これはこれは」

「え。何。何が見えたの、ねえ」

 彼女が楽しそうだと不安になるのは何でだろう。

「うふふ、よかった。犯罪に走らなくても良さそうだわ」

 ご満悦、というのがふさわしい口ぶりの占い師は、マリィに向き直ると口調を厳かなものに改めた。

「あなたは、たった三つのことを覚えて帰ればいいわ」

「う、え、はい!」

 急に託宣を与える巫女のような神々しさをたたえた彼女に、マリィは背筋をただす。

「ひとつ。彼に『僕も手伝うよ』と言われたら、遠慮せずに『ありがとう』って答えて手伝ってもらうこと」

「う、うん」

「ふたつ。彼に散歩に誘われたら、断らないこと」

「そんなことないと思うけど……」

 そもそも彼はそんな個人的なことを仕事の同僚に求めたりしない。首をかしげていると、じろりと睨みつけられた。占い師の目元はヴェールに隠されているので、正確には睨まれた気配を感じたわけだが。

「返事は?」

「はっ」

 鬼軍曹に睨まれた新兵のごとき返事をすると、いちおう満足したのか占い師は話を続けた。

「みっつ。彼に『怖い?』『いや?』って聞かれたら、その時の気持ちを素直に言うこと」

「うん?」

 やっぱりよくわからないことを言われたが、うなずかないと怖いのでマリィはとりあえずうなずいておいた。

「復唱なさい」

 まるで新兵教育のような指令にも、しぶしぶ従う。

「えーっと、シリウスさんが手伝ってくれるって言ったら断らないで、いっしょに散歩に行って、質問には素直に答える!」

「おおざっぱだけど、まあ、それでいいわ」

 なぜか疲れたようにうなずき、占い師はほほえむ。

「私にできる助言は、このくらいよ。あとはあなた次第」

「うん」

 占いは、未来への指針を示すもの。

 助言であって予言ではない。

 彼女の言うとおり、ここから先はマリィ次第。

「聞いてもらってすっきりしたし、明日から、もうちょっとがんばれそう」

 少なくとも、地下鉄から降りたときの重苦しい憂鬱はなくなっている。

「ありがとう」

「お役に立てたなら良かったわ」

 立ち上がった占い師が、テントの入り口の垂れ幕をめくり上げる。どうやら見送りをしてくれるらしい。

「あ、お代。いくら?」

 自分も席を立って彼女の隣まで行ったところで、占いの代金を支払っていなかったことに気づく。ずいぶんながながと話し込んでしまったし、彼女の言い値に色をつけて払うつもりで問いかけた。

「ああ、そうね。じゃあ、これを一本ちょうだい」

 彼女が指差したのは、マリィのゆるく編んである髪の毛だった。

 魔女の髪の毛には魔力が宿る。そのため、マリィも幼い頃から髪は長く伸ばしてきたし、丁寧に手入れもしてきた。

 きらきら黄金色に輝く髪はマリィの自慢ではあるのだがー―。

「こんなものでいいの?」

「いいのよ。魔女の髪は希少だもの」

 髪を売ろうと思ったことはないので相場は知らないが、そんなものなのだろうか。妖精や精霊には大好評だが、人間にねだられることは滅多にない。

「ふぅん。じゃあ、どうぞ」

 ぶちぶちっと無造作に二、三本を根元から引き抜くと、占い師に差し出す。

「やっぱりおおざっぱねぇ」

 苦笑しながら受け取ると、彼女は笑った。

「がんばってね、マリィ」

「うん。とりあえず、大切なのは物理的に距離を詰めることなんだよね!」

「そうよ。物理的にぐぐぐいっと」

 笑い合うと、手を振って別れる。数年来の友人のような気安さのある、でもずっと年上の人に見守られているような安心感もある、不思議な占い師だった。

 テントを出て外気に触れたことで、先ほどまでテントに満ちていた香りを改めて意識した。

 さわやかで、少し甘い、香草のような、なつかしくて慕わしい香り。

 あれはたぶん、彼女の香りだった。

「ん? そういえば、私、名乗ったっけ?」

 今度こそ家に向かって角を曲がったところで、最後に占い師が自分の名前を呼んだことを思い出す。

 名前は聞かれなかった、と思うのだが――。

「ま、いっか」

 マリィはおおざっぱ――よく言えば細かいことは気にしないおおらかな魔女だった。

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