_26_トランス・ヒューマン_


「最近、なんか静かだね」


 魔王とカルシィの二人だけの娯楽室に、二人がゲームの駒を動かす音だけが響く。


「……調子づく一方だったセリオンの動きが急に止んだ。いよいよ事態が次の段階へと動く時なのだろう」


「嵐の前の静けさ? 君はどうするか決めたのかい?」


「……アトルバーンという男の考えが読めない以上、迂闊には動けない。……今もギルドの頂点に立ち、ヘイヴンへも顔が利くという老獪。本当に連合と教皇庁の欺瞞と腐敗を正すのが目的だと言うのなら、こんな回りくどい手を使わずとももっと直接的で効果的な手段など幾らでもあるだろうに」


「遊んでいるのだろう?」


 そう言いながらカルシィは目的の分からぬ変な駒の動かし方をしてみせる。

 クシストロスの方はそれを相手にはせず、堅実な一手を指して守りを固める。


「あるいは、他に真の目的があり、そのための陽動か何かのつもりか……。しかし、連合の腐敗はともかく、エノンズワードの教義まで単なる欺瞞と切り捨てられてしまっては、正直やるせないな。その嘘のお陰で自分たちは千年もの間、平和に過ごしてきたくせに。その嘘と平和を守るために俺がどれだけ苦心してきたかも知らないで」


 その言葉に、カルシィは皮肉めいた笑顔を浮かべ、鼻を鳴らす。


「珍しいじゃないか、君がそんな愚痴を吐くなんて」


「疲れているのさ。このところ、立て続けに色々あったからな」


「このところ、っていうのは、彼が来てから、ってことかい?」


 クシストロスはそれには答えず、無言で駒を動かし、攻めることはせずにただ守りを着実に固めていく。


「いずれにせよ、溜まった膿を放置し過ぎたことは事実だ。それを出しきることが必要なのも分かるには分かるが、それを穏便に実行するには時間が掛かる。しかし、現状に不満を持った人々は、その時間を待てはしない」


 完全に思考が凝り固まった様子のクシストロスに対し、カルシィはまたフンと小さく鼻を鳴らし、ルールを無視して駒をデタラメに動かし始めた。


「見捨ててしまえばいい。君が人類文明の保全に努めるのは、純粋な善意からだ。あるいは、妻のしでかしたことに対する負い目からか? いずれにせよ、開き直ってしまえばいい。自分には何の責任も無いと。たとえそんなものがあったとしても、君はすでに十分にその義務を果たした」


「……だとしても、セフィの保護は絶対だ。場合によっては、今度はお前が何と言おうが多少強引にでも連れ戻す」


 そう言いつつ、クシストロスはあくまでもルールに則った動きで、本陣の守りを固める流れの中で孤立したクイーンのもとに応援を向かわせる動きを見せる。

 しかしカルシィはそれを無視し、またも駒をデタラメな動かし方をして、クシストロスのクイーンを直接に狙った。


「切り札を切るべき時じゃないのかい? 恐らく、敵の方もまだ切り札となるものは隠し持っているはずだ。連合軍対地下カルト、なんてのは代理戦争ですらない、前座の茶番に過ぎないに決まっている。今必要なのは、ルールに縛られることのない、彼の存在だ」


 クシストロスはただ黙って、ゲーム盤を見つめる。

 その状況は、カルシィが勝手な駒の動かし方をしたせいで無茶苦茶なありさまだった。いつの間にか、敵のキングの姿すらもそこからは消えていた。


「これ以上は待たないよ。このままでは君は大切なクイーンを失い、すべてを失う」





 狭い庭園の中を、数羽の小鳥が飛び交う。

 あの小鳥たちにとって、この狭い檻は息苦しいものなのだろうか、それとも、彼らにとってはここで手厚く扱われることは幸せなことなのだろうか。


 自分はあの小鳥たちを可愛がっているつもりだが、あの小鳥たちからは自分はどう映っているだろう。


 クリューはそんなことをぼんやりと考えながら、小鳥が太い木の枝で作られた足場に止まるのを見つめ、その囀る声に耳を澄ませた。


「やっぱりここに居たか」


 ふいに背後から聞こえた声に、クリューはゆっくりと振り返った。


「珍しいわね。あなたがここに来るなんて」


 クリューがそう言うと、アゼルは庭園全体をゆっくりと見渡し、それから石造りの床の一点を見つめた。

 すぐにクリューもそこへと視線を向けると、そこには赤い染みが付いているのが見て取れた。

 あの日、アゼルの喉を斬った時についた血糊の洗い残し。


「あの時の事、恨んでる?」


 クリューが無表情でそう尋ねると、アゼルは自分の喉元を少しさすってから、静かに答えた。


「別に。痛みはすぐに引いたし、傷もさっぱり消えちまった。体が人間離れしていくに連れて、感情の方も引っ張られてるんだろうな。別にあんなの、大したことじゃ無かった、って思ってる」


「そう……」


 それから二人の間に少しの沈黙が流れ、ふいにアゼルがはっきりとした声で、宣言するように言った。


「俺、やっぱり行くよ」


「……勝手にすれば」


「ああ、勝手にする。俺は俺のしたいようにする。……お前もそうしろよ。自分で自分を縛り付ける必要なんて、無いんだからな」


「うるさいわね。さっさと行ってしまいなさいよ」


 その言葉にアゼルは苦笑し、踵を返して出入口へと歩き出した。





 その出入口に誰かが立っているのに気づき、アゼルは一旦足を止めた。


 両腕に模擬刀を握るディットが仁王立ちし、その片方をアゼルへと黙って放り投げた。

 アゼルが咄嗟にそれを空中で受け止めると、ディットは自分の手に残った模擬刀を構え、静かに言った。


「……貴様が何処へ行こうと知ったことではない。けれど、決着はつけておきたい」


「いいぜ。付き合ってやるよ」


 そう言うとアゼルも模擬刀を構え、ディットへと向き合った。


 二人の間に一気に緊張した空気が流れ、その刺激を受け、周囲のフォティアも励起され、パチパチという軽い破裂音が響き始める。


 瞬間、二人はどちらからともなく駆け出し、一気に間合いを詰めると、お互いの剣を激しくぶつけ合った。

 その衝撃に周囲の薔薇の花びらが散り、吹き荒れる空気に煽られ、宙を舞う。


 短い鍔迫り合いのあと、二人は目まぐるしい攻めと守りを繰り返し、その流れの中の一瞬の隙をついて、ディットが鋭く切り込んだ。


 アゼルはそれを紙一重でかわすと、逆にディットの胸の中心へと、この上なく短く小さな動きで、剣先を押し当てた。


 そこで二人は時が止まったように動きを止め、ただ周囲を舞う花びらだけが、ゆっくりと重力に引かれて落ちていく。


「僕の負けだ、アゼル」


 ディットがそう宣言すると、二人は体勢を戻し、緊張を解いた。

 それからアゼルは模擬刀をディットへと返し、言葉もなく、ただ頷きあうだけで挨拶を済ませると、その場を去っていった。





「負けてしまったよ、クリュー」


 アゼルの去っていった方を見つめたまま、ディットは近づいてきたクリューへと声を掛けた。


「そのようね」


「……今まで、ごめん」


「……何が?」


 唐突に謝罪の言葉を吐き出したディットに対し、クリューは訝しむように聞き返した。


「僕は、君の力になりたいあまりに、何よりも重要な君自身の気持ちも考えずに、暴走してしまっていた」


「なんだ、そんなつまらないことを気にしていたの?」


 呆れたようにそう答えるクリューに対し、ディットは至って真面目な表情で、じっとクリューの顔を見つめて続ける。


「僕はまだまだ君の騎士として相応しい男じゃない。けど、絶対にそうなって見せる。それに相応しい強さを身に着けてみせる。単純な武力だけじゃなく、精神的な強さも。だからクリュー、その時は、その時は……」


 途中まで言いかけて、その先の言葉が中々出てこない様子のディットに対し、クリューは表情を崩し、からかうように言った。


「そんな肝心なところで言葉が詰まるようでは、先が思いやられるわね」


 そう言うとクリューはクスクスと笑いながら、出入口へと歩き出した。


「ま、待ってくれよクリュー。まだ話は終わってないって!」


「終わったわ。この続きは、あなたが実際に騎士として立派になるまでおあずけね」


 それからクリューはディットを振り返り、いたずらっぽい表情を浮かべ、言った。


「そんなに長くは待たないわよ」


 ディットはそれに対し、姿勢を正し、胸を張って答えた。


「そんなに長くは待たせないさ」





 魔王の執務室へノックも無しに入ってきたアゼルを、クシストロスは無表情に見つめた。


「何の用だ?」


「俺はセフィのもとへ戻る」


「何故?」


「分からない。それを確かめに行く」


 クシストロスは決意に満ちたアゼルの瞳をしばらく見つめ、それから傍らのカルシィへと視線を向けた。

 カルシィはその視線に対し、黙っていつものように愉快そうに笑ってみせるだけで答えた。


 クシストロスはそれから大きくため息をつき、椅子の背もたれへと体を深く預けた。


「……アゼル、お前は、嘘で塗り固められた平和と、その嘘を暴くための真実のための戦争なら、どちらがマシだと思う?」


「また訳の分からないこと言い出しやがって、何の話だ?」


「いいから答えろ」


 クシストロスの問いかけに対し、アゼルはほんの少しだけ思案する素振りを見せ、答えた。


「……そんなの、真実の平和に決まってるだろ」


 その単純明快過ぎる答えに、クシストロスはまたも溜め息をつき、苦笑した。


「いいだろう。ただし、ひとつ頼まれてほしいことがある」


「あんたが俺に頼み? なんだ?」


 クシストロスはそれから少し姿勢を正し、アゼルの目を真っ直ぐに見つめて言った。


「セフィは、ああ見えて妹と同じぐらいに色々なものを抱え、悩み、苦しんでいる子だ。あの子の力になってやってほしい」


「なんだ、そんなことか。あんたに頼まれるまでもないよ。任せろ」


 アゼルがそうはっきりと答えると、次の瞬間にはもう、そこにアゼルの姿は無くなっていた。





「……なんだあれは。消えたぞ。瞬間移動したとでも言うのか? いくら”魔法”とはいえ、そこまで何でもありというわけでもあるまいに」


 疲れ切った様子でそう呟くクシストロスに対し、カルシィは興奮した様子で、アゼルの居た空間をじっと凝視し続けている。


「局所的に物理法則を捻じ曲げた? いや、自分自身の存在を純然たる情報へと変換して、フォティアの流れに乗せて送った? 全く訳が分からないね。私もここまでとは思わなかった。実に興味深い」


 そんなカルシィをクシストロスは呆れたように眺め、それからまた背もたれへと勢いよく身を預けた。


「……ヒトの次。その先駆者。トランス・ヒューマン……か? まったく、自分の百分の一程度の歳の小僧を頼もしく感じてしまうとはな。そんな与太話も思わず信じそうになってしまう。耄碌だな」


 そう呟くとクシストロスは疲れたように目を揉んでから立ち上がり、窓へとヨロヨロと歩いていき、その向こう、東の景色を見つめた。


 青い空。碧い湖。緑の森、山。


 自分の産まれた頃と変わらない景色。

 けれど、ここからは距離的に見えないにしろ、そのずっと先には、ゲヘナが位置している。


 シェムハザ。


 それが全てを変えてしまった。


「まったく、何て世界だよ、ここは……」

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