_3_トランス_
通路の向こうへと走り去ったセフィたちを、ミンスキンのネフィリムが追おうとする。
「決着が、まだついてないだろ!!」
白い巨人、トランス・リュゼはその敵の尻尾を掴み、強引に引っ張り、反対側へと投げ飛ばす。
しかし、敵はしなやかな身のこなしで受け身を取り、そのまま態勢を立て直した。
「パワーはこっちが上だけど、すばしっこさでは向こうが上か」
リュゼは敵と通路の間に立ちはだかりつつ、どう動くかを思案する。
「あまり時間はかけられない。一気に潰せるか?」
セフィロトの血から抽出・加工された、シェムハザの”霊薬”。
極めて稀な適性を持つ者は、その霊薬を体内に受け入れ、馴染ませることで巨人ネフィリムへの転化が可能となる。
しかし、それは極めて繊細で不安定な生体反応であり、常に暴走の危険をはらんでいる。
リュゼの場合は、その胸の奥に前暦文明の機械を埋め込むことでそれを制御しているが、それとて完全ではない。巨人態でいられる時間的限界はそう長くはなく、それが過ぎれば機械が自動的に制御を強め、強制的に元の人間の姿へと戻される。
敵はジリジリと間合いを詰め、行動のタイミングを窺っているようだ。
「でも、敵だってそんな完全な技術を持つはずがない。あいつだって似たような弱点はあるはずだ。時間稼ぎだけでもできれば」
次の瞬間、敵は一気に踏み込み、リュゼの右手側へと回り込もうとしてきた。
リュゼはそれに即応。その行く手に立ちふさがり、敵を抱き止めようとする。
しかし、接触の直前で敵は踏みとどまり、タイミングをずらしてくる。
リュゼはそれに引っかかりそうになりながらも、どうにか体勢を維持し、脇を通り抜けようとした敵の背中を勢い任せに殴りつけた。
轟音とともに地面に激しく叩きつけられた敵はそのままバウンドし、空中で無防備を晒す。
リュゼはそこに追撃を掛けようとするも、敵の反応の方が早かった。敵は空中に衝撃波を放ち、その反動で姿勢を制御。そのまま反撃に転じる。
リュゼの放った拳を敵は蹴りで弾きつつ、そのままの動きで身をひねり、もう片方の脚でリュゼの胴体を蹴りつけると、そこに猛烈な衝撃波を見舞った。
思わずリュゼはその衝撃にのけぞってしまう。
その一瞬が致命的だった。
「……このっ‼」
敵はその隙に一気に通路の向こうへと疾走。リュゼも悔しさに吠えつつ、それを追う。
アゼルと少女は闇雲に走り続け、何処とも分からない小部屋へと辿り着いていた。
ずっと走り続けたので息は荒いが、それすらもなるべく抑え、音を立てず、様子を窺う。
ひとまずは何の音も気配も感じないが、だからと言って安心はできないし、これからどうすればいいかも分からない。
とりあえずアゼルは大きく息をつき、気を鎮めることにした。
「……怪我、大丈夫か?」
そう言って少女の怪我の程度を確認しようとして、アゼルは思わず絶句した。
血は止まっているようだが、その色は翠色に変色し、薄ぼんやりと光を放っている。
アゼルの態度に気付いた少女は、言い訳でもするような口調で滔々と説明を始めた。
「……なんて言うか、私の血は特殊なんです。大気に触れると不安定化して、こういう風に変質してしまうとかで」
アゼルはただ黙って、その翠色の輝きを見つめる。
むせかえるような濃いフォティアの匂いも感じる。それもこの変な血の発するものなのか。
「……おかしいですか? おかしいですよね?」
少女はアゼルから視線を逸らしつつ、そう続けた。
アゼルはひとつため息をついてから、それに答える。
「……おかしいな」
「そう、ですよね」
少女は俯き、もう片方の手で傷口を隠そうとする。
「でも俺だってそうさ」
その言葉が予想外だったのか、少女は目を丸くしてアゼルを見つめる。
「え?」
「ゲヘナの外じゃ、俺みたいのは”中途半端な雑種”として、どの種族からも変な目で見られる。俺だって十分に”おかしいヤツ”なんだ。……というか、まあ、別にあんたや俺だけじゃない。大なり小なり、みんなどっかおかしいんだよ、この世界の連中、みんな」
その言葉に少女の顔が少しだけほころぶ。
「確かにおかしな人ですね、あなたって」
「アゼルだ」
「え?」
「俺の名前。あんたは?」
「セフィ。そう呼んでください」
少女は笑顔を見せ、そう答えた。
アゼルはその表情を改めて美しいと思い、自然と自分の表情も柔らかくなっているのを感じていた。
そうこうしている内にも時間は流れ続ける。
これ以上一つ所にじっとしていてもらちが明かない。
アゼルはとにかく地上へ出るべく移動を開始しようと、部屋の外の様子を窺う。
「……何か音がする」
緊張しながら、更に耳を澄ます。
音は通路を反響し、上手く方向は特定できない。けれど、音は小さくなることはなく、刻一刻と確実に大きくなっていく。
「真っ直ぐこっちに近づいてくる……」
その時、セフィが何かに気付いたように小声でアゼルに告げた。
「リュゼは私のフォティアを感じられるんです。彼女かもしれない。……でも、もしかしたら敵にも同じことができるのかもしれない」
敵か味方か。一か八か。今はそんな賭けに出ている余裕はなかった。
「行くぞ。とにかく逃げるんだ」
アゼルはセフィを連れ、すぐさま部屋を飛び出した。
しかし、少し走ったところですぐに目の前の壁が崩れ、そこから黒い巨人が姿を現した。
「クソっ!」
アゼルとセフィはすぐに反転し、必死に駆け出した。
この通路は人間からは広めに感じるが、それでも巨人には窮屈なようで、床に手を付き、屈みながらも猛烈な速さで追ってくる。
もう体力の限界だというところで、ようやく扉にたどり着き、アゼルは体当たりでその向こうへと飛び込んだ。
「行き止まり!?」
そんなバカな話があるかと、アゼルは必死で視線を走らせる。
しかし、今来た道の他に、どこにも出口になるような場所は見当たらない。
そうこうしている内に、敵はすぐに追いついてしまった。
「あークソ。ようやく手脚が伸ばせる」
黒い巨人はそう言いながら、軽い調子でストレッチのような動作を行う。
アゼルはその動きを警戒しつつ、どうしようもないながらも扉から一番離れた壁際へと後退し、セフィを庇うように手を広げた。
「鬼ごっこはもう終わりだよ、ウサ耳坊や。さっきも言ってたじゃないか、知り合いでもない女庇ったって仕方ない、って。あれ、その通りだよ。これ以上変に首突っ込んで、怪我したってしょうがないぜ?」
「……その声。ゴディたちと一緒に居たネコ女か」
あの女が巨人の正体。
けれど、今はそんなことを知っても何の助けにもならない。
巨人は堂々とした態度で近づいてくるが、アゼルにはどうすることもできず、ただ歯を食い縛ってそれを睨みつけるしかなかった。
「……アゼル。ここまでありがとうございました。私、行きます。これ以上あなたに迷惑をかけるわけにはいかない」
セフィがそう言い、アゼルの手を除け、巨人に向かって歩き出そうとする。
「駄目だ。まだ何か手はあるはずだ」
アゼルはとにかくセフィを制止し、必死で事態を打開すべく頭をフル回転させる。
「無駄だよ。いい加減認めろよ、もう終わりなんだって!」
巨人はアゼルの目の前までたどり着き、その体を強引に手で払いのけた。
巨人としては軽く払ったつもりだろうが、アゼルの体は猛烈な勢いで吹き飛び、壊れた人形のように歪な形を晒しながら、床の上を転がった。
「アゼル‼」
セフィが悲痛な叫びを上げるのと同時に、また別の壁面が打ち破られ、その向こうから白い巨体が姿を見せた。
「こいつ! やっぱ先に潰しておくべきだったか」
白い巨人が仕掛ける攻撃を捌きつつ、黒い巨人がそう叫ぶ。
その隙にセフィは床に崩れ落ち、真っ赤な血だまりの中で身動きをしないアゼルへと駆け寄った。
「……て! ……っかりして!」
セフィが必死に何かを言っているが、上手く聞き取れない。
思考がぼやけ、すべての感覚が遠く、薄く、掠れて消えていく。
「駄目! 死なないで! しっかりして!」
アゼルはなんとかセフィの言葉に答えようとするが、口の奥からはゴボゴボと変に濁った音しか出てはこない。
自分はこのまま死ぬのだろうか。
アゼルの脳裏に、そんな考えがよぎる。
……嫌だ。死にたくない。死ぬのは怖い。
何が死んだとしてもそれはそれで、だ。何が自分の生死すら他人事、だ。
自分という存在が消えてなくなるのが、どうしようもなく怖い。
実際に死に際して初めて、アゼルはそれがどういうことかを実感し、ただただ恐れた。その恐怖に、涙が零れるのを感じる。
「……もしかしたら、あなたを救う方法があるのかもしれない」
セフィが震える声でそう告げる。
「けれどそれは、あなたの存在を、根本から変えてしまう。あなたはあなたでなくなってしまうかもしれない。それ以前に、上手くいく確率は絶望的に低いし、それで結局命を落としてしまうことになるかもしれない」
そう言いながら、セフィは自分の腕の傷口を拡げていく。
赤い血が溢れ出し、すぐにそれが翆色に輝き始める。
「……あなたは、それでも……」
アゼルは、答えた。
「死んで、たまるか……!」
その答えを聞き、セフィはアゼルの口に自らの翆色の血を注ぎ、飲ませた。
気が付いた時、アゼルは猛烈な痛みと苦しみに襲われていた。
骨が砕け、肉が溶け、神経が灼け、皮が裂ける。
それが比喩ではなく、現実に起きていることだと、アゼルはすぐに理解した。
自分の肉体すべてが分解され、より効率的で強大なカタチへと、作り変えられていく。
自分自身を取り巻くフォティアの奔流を感じる。それは、福音そのものだった。
自分の存在が、認識が、肥大化し、拡張されていく。
いつの間にか痛みも苦しみも消えて無くなり、得も言われぬ高揚感が取って代わり、それも瞬く間に過ぎ去っていった。
後に残されたのは、巨人の躰。
アゼルは、その新しい躰をゆっくりと持ち上げた。
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