ふたつ。春の始まり、運命の人
運命の人。赤い糸。なんてもう古いだろうか。
私は休日、ショッピングモールに来ていた。買い物をするためというよりは気分転換のために。
私にも運命の人なんているのかな……なんて、ぼんやり考える。
運命の人なんて言うと聞こえはいいが、それは決して迎えに来てくれる王子様なんかじゃない。
一生を共にする相手。神様が本当に存在して、運命の人なんて相手が定められているのならば、それは反面教師という可能性だってある。
甘やかされて愛されてお姫様のように扱われる幸福しかない恋愛なんて、きっと存在しないんだ。そう思ってしまうのは、最近失恋した所為であって。
帰ろうとエレベーターに乗ろうとしていた時、エレベーター前にある看板に目が止まった。
『占い15分3000円』
簡易的な仕切り、ブースは三つほど。一つのブースでは誰かが占いをしているらしく話し声が聞こえてくる。それは低く静かな声で、楽しい話をしている様子ではない。
私は看板の前でそういう運命について考え、立ち止まっていた。
恋愛について迷走している今、占いに縋りたくなってしまうくらいには、自分で自分の気持ちを消化しきれず、蒼士を引き摺る毎日。
もう誰とも付き合えないんじゃないかと苦しくなる。ショッピングモールを歩く幸せそうなカップルを見ていると余計に考えてしまう。
今隣に好きな人がいることがすごく羨ましい。
少なくともどちらかがアクションを起こして好きだと伝えたはずだ。自分の気持ちを伝える勇気が本当に凄い。そのうえ、気持ちが通じ合うなんて私からしたらもう奇跡だ。
だから、蒼士に気持ちを伝えた私は凄いんだ。頑張った。本当に、頑張った。
——なんて考えていたら泣きそうになってきて、知らない誰かに話を聞いてもらいたくなった。
学生の頃、占いには友達と一緒に行ったことがある。でも、今のように燻ってはいなかった。
聞くのは決まって恋愛について。結婚はいつできますか?そう、にこにこ聞いて、高い声を出しながら占い師の話を楽しく聞いていたことを懐かしく思う。
あの頃は社会人になれば当たり前に良い彼氏ができて、当たり前に結婚するものだとばかり思っていた。将来に希望を持っていたから楽しかったんだ。不安もなく恋愛について聞けた。
ふう、と息を吐き出してから占いブースの一つに足を踏み入れる。
「こんにちは」
四十代くらいの女性が笑いかけてくれた。目尻の皺が柔らかい雰囲気を引き立て、話しやすそうな人だと胸を撫で下ろす。
「この紙にお名前と年齢、生年月日、出身をお書きいただけますか?」
私は頷いて記入をし、ペンを置いた。それから意を決して「あの、」と声を掛ける。
「私、最近、恋愛が上手くいかなくて」
「そうなのね。でも、今月は出会いが良いはずよ」
占い師は、私には読めない字で何かを書き出しながら小さく唸っている。「そんなはずはないんだけどね」と繰り返しながら。
「出会いが良いというのは数人とデートができるとか、そういうことですか?」
「違うわよ。良い人が現れるってこと」
「もう出会っていますか?それともこれから?」
「うーん、そうねえ……貴方、気になっている方はいないの?」
「……いましたけど、振られました」
まさかこんなところで傷口に塩を塗られるとは。ははっと笑ってみるけれど、「痛い」と心が悲鳴をあげている。は、と声を止めて目を伏せた。
「そう。そうなのね——。」
占い師からの視線を感じて顔を上げる。彼女は私の背後かその先か——何かを見据えるように目を細めると、深く頷いて口を開いた。
「今月中に5歳から10歳くらい年上の人と出会うと思うわ。落ち着いた人。その人は貴方との結婚を真剣に考えてくれる人ね。相性も良いと思います」
「どこで出会いますか?」
「友達の紹介かしらね」
——と、私は案外、単純だ。
帰りにケーキを買って帰った。苺がいっぱいのったチョコレートケーキ。
今日は食後にケーキを食べて、この間買ったばかりのルイボスレモンを飲んでリラックスの息を吐こうと決めた。
占い師が言っていたことが例え「本当」にならなかったとしても、そう言われるだけで心が軽くなる。
まだ出会ってもいない人のことを考えるのは、案外楽しいものだった。
そのお相手とやらは今どこで何をしているのだろう。
落ち着いているっていうのは、雰囲気のことかな。本とか読んだりするのかな。紅茶は好きかな。それとも珈琲派?優しい人かな。どんな仕事をしているんだろう。どういうふうに女性を愛す人なんだろう。
占いから数日後、私はどう行動に出るか、悩んでいた。
「友達の紹介……。」
由紀ちゃんに誰か紹介してほしいと頼んでみようか。でも紹介してもらって、もし合わない人だったら断りづらそうだな。
そんなことを考えながらマッチングアプリを起動させる。後ろ姿しか載せていない私にも「いいね」は結構な数くるのだ。
女性は無料の範囲内で出会いが探せるけれど、男性は会員料を払わないと女性とやりとりができないらしい。
男女平等なんて言っておいて不平等だ。でも女性側からすれば、その方が安心できる。お金をかけて本気で出会いを探す人が自ずと多くなるから。
「うーん……。」
スマホを操作して「いいね」を返していく。もちろん「いいね」をしてくれた人全員に返すわけじゃない。
写真を見て、パッと判断する。気になればプロフィールを見て、やりとりをしてみたいと思えば「いいね」を返す。
自分は正面の写真を載せていないくせに、相手のことは顔で選ぶ矛盾。少し罪悪感が生まれるものの、だからと言って自分の顔写真を載せることには抵抗がある。知り合いにバレたら嫌だし、顔で判断されたくない(自分はしてるくせに)。
「この人、結構かっこいいけど、A B型か。変な人だったら嫌だな」
「いいね」を押そうとしていた指が止まる。
AB型なんて書いてあると「合わなそう」と思って「いいね」は返さないし、年収や学歴が自分よりも低かったりすると「いいね」を返そうか迷ってしまう。
会ったことのない人を判断する材料は、データとメッセージのやりとりしかない。
ぐるぐる回る思考の中、ふと思い浮かぶのは蒼士の優しい顔。
「……忘れなきゃ」
小さく溜め息を吐き出す。
考えないようにしよう。もう考えない。意識をスマホの中へと向ける。
「この人のスーツ姿、いいな」
目に止まったその人の写真は、スーツ姿だけだった。
顔写真は載っていない。写真を送ってもらうまで「どんな容姿なのかな」と変にどきどきしてしまうあの感じが嫌で、それなら最初から写真を載せている人の中から探そうと思い、今までは顔写真がある人にだけ「いいね」を返していた。——でも。
気になってプロフィールを見てみると、彼は32歳。「仕事ばかりで出会いがないので登録してみました」。落ち着いていそう。職業欄には「企業コンサル」と記載してあった。
占い師に「5歳から10歳上の人」と言われたことを思い出す。
いつもの私だったらきっとスルーしていただろうな。なんとなく相手は同じ二十代くらいの人がいいなと思っていたからだ。
「いいね、」
小さな声でスマホをタップする。
とりあえず押すだけ押しておいて、メッセージは送らないでおこう。縁があればきっとどうにかなると思うし。なんて、私はどこまでも受け身だ。
少しでも自分で行動しなきゃ、と焦りでマッチングアプリを始めたものの、メッセージを自分から送るのは緊張するし、なんならこっちから「いいね」を押すのだって毎回どきどきしてしまう。だからなのか、相手から動いてくれるのを待ってしまう癖がついていた。「ご縁があれば」なんて心の中で言い訳を並べながら。
その後、複数人とマッチングし、メッセージが送られてきた。その中には、さっき「いいね」を返したスーツの人はいなかった。
マッチングありがとうございます。どこに住んでいますか?休日は何をしていますか?顔写真が見たいです。すぐに会えますか?
なんて、だいたい同じことばかり。
始めたばかりの頃は真剣に一通一通返していたが、慣れてくるといつの間にか機械的に返していくだけとなり、結局は返事をしなくなることが多い。
気が向いて3日後に返してみると今度は相手からの返事がなかったり、朝に受信したメッセージを仕事終わりに返してみると……以下同文。
女も男もスピード勝負。タイミング。縁。
巡り合わせとは?こんな怠惰な私が本当に良い人と出会えるの?そもそも良い人ってどんな人?
《
スマホが通知を知らせる。
——あ。さっきのスーツの人だ。
《いいねのお返し、ありがとうございます。落ち着いた雰囲気が素敵だと思い、いいねさせてもらいました!よろしくお願いします》
普通だ、と思う。
この前メッセージをくれた人は、初めての文章から長かった。愛犬の写真を添付し、明らかなコピペの文面。皆に送っているのだろうとすぐにわかった。
「犬、可愛いな」と笑みが零れたけれど、一方的に話されて何を返していいかもわからず、またコピペということが嫌で、考えあぐねているうちに日が経ってしまった。結局返していないままだ。
《こちらこそ、ありがとうございます。私も同じことを思っていいねさせてもらいました。よろしくお願いします。読み方はあきおみさん、で合っていますか?》
いたって普通な返しだ。面白みのかけらもない。
アプリでは女性の方が優位に立っていると、私はそう認識してしまっている。選ぶ権利、受け身になる権利、そういうものが女性には多い気がする。
《それはとても嬉しいです!読み方、合っています。なのかさん?で合っていますか?》
《大丈夫です。合っています》
スマホをタップする指先が止まる。素っ気なさすぎる、か。
《スーツ、素敵ですね》
と、一文追加してみる。そして、文面を見つめて「うーん」と唸り、
《!》を、追加。
《菜乃花さんにそう言っていただけて嬉しいです。スーツ姿を載せておいて良かったです》
彼とのやりとりは穏やかで心地良かった。
インドア派、仕事が好き、年配の人から好かれる。
文章のやりとりに、なんていうか、しっくり感があった。
だから、疑問が湧いた。どうして、仕事をちゃんとしていて雰囲気も柔らかそうなこの人が独身なのだろう、と。
彼の文字をじっと見つめる。
——私が勤める会社の良い男は、みんな既婚者だ。
《どのくらい彼女さん、いないんですか?》
少し、触れてみる。
《3ヵ月くらいですね。別れてからは仕事ばかりしていました。そうでないと駄目になってしまいそうで》
3ヵ月、を指でなぞる。
ああ、きっと、その彼女さんのことがとても好きだったんだ。
「3ヵ月か……私なんてもう3年もいないのに」
奥手なのかと思ったけれど、そうでもないらしい。
拗らせているのは私だけ。
《菜乃花さんはどのくらい、いらっしゃらないんですか?》
話の流れ的に言えば自然だ。質問に答えて、同じ質問を返す。質問されたことはその人が聞いてほしいことであるなんて言われたりもするけれど、この場合は全くもって当てはまらない。
だって、下に付く単位が私と秋臣さんとではあまりにも違いすぎる。秋臣さんは3ヵ月、私は3年も相手がいない。
「うぐ……」なんて品のない唸り声を上げながら、ゆっくりと文字を打ち込んでいく。
《もう3年くらい、いないです。元彼を引きずってしまって。彼も私もお互いに依存してしまったので離れなきゃいけないと、私から別れを切り出しました》
ああ、正解がわからない。わからないまま、他の文を思いつくわけでもなく投げやりに送信してしまう。
「元彼」は蒼士のことを好きになる前に好きだった人だ。3年前、大学生の時に付き合っていた人。
蒼士と出会って、またやっと人を好きになれると思ったのに。だから余計に泣いてしまったわけで。
「……あ、」
メッセージが届く。見たいけど、見たくない。
何度もタップするのを躊躇いながらメッセージを見る、と。
《お互いのことを考えて決断されたのは素直に凄いなって思います。だからこそ月日が必要だったのかもしれませんね。そのお話を聞いて素敵な方だと思いました》
「よかった……。」
口元に手を当て、安堵した。
てっきり引かれると思っていたのに。これがもし上辺だけの言葉であったとしても凄く嬉しい。
肯定されることがこんなにも心を軽くしてくれるなんて知らなかった。
それと同時に、私は今までずっと自分を責め続けていたのだと気づいた。3年もの間、元彼を引きずっている私なんておかしい、って。
元彼はお世辞にも良い人とは言えなかった人だったからこそ、そんな彼を別れた後もずっと好きでいる自分は頭のおかしい女だ、次の恋愛なんてできるもんか。そうやってずっと自分を責めていた。蒼士と出会う前までは。
《秋臣さんのこと、もっと知りたいです》
《俺もゆっくりでいいので、お互いのことを知っていけたらなって思います。まずは敬語、取りませんか?》
メッセージのやりとりは夜中まで続き、気づけばスマホを握りしめたまま眠りについていた。こんなにも心地の良い感覚は久しぶりだった。
「……んんっ」
ピピピッとスマホのアラームで目が覚める。んー、とベッドに寝たまま体を伸ばして力を抜き、息を吐き出す。
もう朝か。と思い、ハッとしてスマホの画面を見た。
秋臣さんからのメッセージの横には01:22と書かれている。
こんな時間までやりとりをしたのは、いつぶりだろう。嬉しさがじんわりと広がっていく。
《寝てしまったみたいで、すみません。おはようございます》
《おはよう。全然寝ていいんだよ。昨日はありがとう。菜乃花さんも敬語とってくれたら嬉しいな》
秋臣さんの敬語じゃない文面に、ふふっと微笑んでしまう。
返信しようとすると、またメッセージが届いた。
《菜乃花さん、少し急なのですが、お時間ある時にカフェなどでお話できませんか?どんな方なんだろうってもっと知りたくて》
心臓が大きく飛び跳ねる。
期待と嬉しさと、不安と。
私は、会ってみたいなと思う人がマッチングアプリで現れた場合、二週間くらいはやりとりをして、どんな人なのかをちゃんと知ってから会いたいと思っていた。
もし変な人だったら危険な目に遭うのは自分だ。どうしても慎重になってしまう。
——でも。
「私も、秋臣さんともっとお話してみたい」
ぎゅっとスマホを握りしめて呟いた。素直な気持ちだった。
今までだって他の人から会おうと言われたことは何度かあった。でも私の感覚的には「まだ早いんじゃ?」と思うことが多く、一人として会ったことはなかった。
それなのに、こんなふうに思う日が来るなんて。
やり取りの頻度で言えば圧倒的に少なく、まだ知り合って一日も経っていない秋臣さん。それなのに会いたいと思う自分がいることに、私自身とても驚いていた。
《私もです。明日はどうですか?月曜日ですけど、もしお時間合えば。でも、あの、すごく緊張しちゃうと思うので、挙動不審になったらごめんなさい》
《ありがとう。もしよかったら今日、電話してみるのはどうかな?菜乃花さんからしたらどんな人なのかわからないまま会うのは怖いよね。月曜日は時間とか場所とか全部、菜乃花さんに合わせられるから心配しないでね》
その気遣いがすごく嬉しかった。
ベッドに仰向けになり、スマホを上にあげて返信を打ち込んでいく。顔が綻んで仕方がなかった。自分でも気持ちの悪いほどに口角が上がっていた。
単純な私は、とても幸せな日曜日を過ごしたわけで。
母に代わって「今日は夕飯作るね」なんて言ってみたり、買い出しに行ったスーパーではビタミンが豊富な美容ドリンクを購入してみたり。無論、いつもは買わないものだ。
その後、秋臣さんとのやり取りで場所が決まり時間が決まった。
創作料理のお洒落なお店。時間は18時半頃。その時間なら秋臣さんも行けるとの返事だった。
その日の夜、バターチキンカレーを作ってみたものの焦がしてしまった。
歯磨きをした後も苦さが取れず、結局その舌のまま、秋臣さんとの電話の時間を迎えた。
「もしもし?大丈夫かな、聞こえる?」
でも声を聞いた途端、そんな苦さなんて感じなくなった。
落ち着いた、それでいてしっとりとした甘さを含んだ彼の声は、一瞬で私の体に熱を持たせた。
「あ、だい、大丈夫です。聞こえます!」
返事がワンテンポ遅れてしまい、慌てて声を出すと、電話の奥で秋臣さんが緩く笑った。
「菜乃花ちゃんって呼んでも大丈夫?」
うんうん、と首を縦に振ってハッとする。電話だから伝わらない。
「全然大丈夫です!」
「ありがとう。ふっ、緊張してる?大丈夫?」
「そう、ですね。緊張してます、すごく」
「敬語も取ってくれると嬉しいんだけどな」
ゆったりとした声に胸の奥がきゅっとなる。
声が好き、話し方が好き、雰囲気の柔らかさも好き。話せて嬉しいな、でも緊張するな。いろんな気持ちが綯い交ぜになって、それはぐるぐる、かき回され、ひとつになる。
——ああ、この人の雰囲気、好きだなあ。
「明日、ありがとう。会えるの嬉しいよ」
「い、いえ!こちらこそ。予約までしてもらっちゃって」
「ううん、全然。明日、楽しみにしているね。……なんか、菜乃花ちゃんの雰囲気、想像していたのと同じだ」
「私も秋臣さんのイメージ変わりませんでした。こう、柔らかいっていうか」
「それならよかった。怖がらせちゃったら、って思っていたから」
夜の静けさの中、秋臣さんの低すぎず高すぎず柔らかさを含んだ声を聞きながら、私は「良い夜だ」と思っていた。
これが始まりだったらどんなにいいだろう。これがお話の冒頭だったら、どんなに幸せだろう。
「菜乃花ちゃん、さん付け、やめない?あと、できたら敬語も」
「でも、7つも上ですし、なんていうか……会社の先輩と秋臣さんの歳は近いので」
「でも俺は菜乃花ちゃんの上司じゃないよ?」
また、秋臣さんが緩く笑う。
「ほら、名前、呼んでみて?」
「……あき、」
「……もう一押し」
「……秋臣、くん」
くん、と付けると一気に距離が近くなったみたいで顔が熱くなった。
自分の頬に触れながら熱を抑えようとして、「私、高校生みたいな反応してない?大丈夫?」と心配になってくる。
「そっちの方がいいな」
「あの、できたら、」
「うん?」
「……できたら秋くんって呼んでもいいですか」
「好きなように呼んでくれていいよ。呼びやすい呼び方で」
私が小さく返事をすると、やっぱり柔らかく笑ってくれた。
「秋くん」の方が呼びやすそうだなって思っていたから嬉しい。
最後は「明日も仕事でしょ、菜乃花ちゃん。もう寝ないと」と優しい声で寝るよう促されて「おやすみ」とお互いに言ってから電話を切った。
電話をしている最中にお互いの写真を交換した。お互いに「イメージ通り」だと言ったけれど、秋くんが本当はどう思ったのかはわからない。だけど私は本当に、秋くんを見てイメージ通りだと思った。
二重の目は少し垂れ目で優しそうだった。お兄さんという感じだった。
どうしてこの人がマッチングアプリなんてやっているのだろう、とやっぱり不思議に思った。秋くんには彼女がいそうな雰囲気があったからだ。
実は世帯を持っています、とかだったらどうしよう。騙された、なんて話もたまに聞くから怖くなってしまう。だけど、
すごく幸せな時間だった。あの優しい声を思い出すと、騙されているだなんて到底思えない。ああ、駄目だ。恋は盲目って言うじゃないか。私はそれを元彼で痛いほど経験したのに。蒼士の時だって、きっと盲目になって距離感を見誤った。
ちょっと冷静になろうと深呼吸をすると、ふと、元彼と別れた瞬間が彷彿された。
ぼろぼろと涙が止まらず、酷い嗚咽を我慢しようとして苦しくなり、変な声が出てしまう。胸を押さえながら「もう二度と、こんな思いはしたくない」と深く何度も思った、あの時のこと。私は俯いて、思う。
……こんな私が幸せな恋愛なんて、できるのかな。
——月曜日、私は鏡と睨めっこしていた。
理由は、お気に入りのスカートを選んでしまったから。「冷静に」と思うものの、素敵な洋服に手が伸びてしまうのは少しでも良く見せたいという心から。恋愛に自信がなくて怖がりなくせに、恋愛に浮かれてしまう矛盾した心。
騙されていた時の準備、期待、会いたさ、このまま好きになれたらいいなと思ってしまう恋心。
様々な感情がぶつかりあって、私の体はふわふわと宙に浮いているようだった。
会計事務所に勤めている私の仕事着はオフィスカジュアルで、自分の好きなものを選べる。
休日は全力で体を休めているためダラダラとしているが、仕事着に着替えてパンプスを履けば自然と背筋が伸びた。
その日は、いつもはしない小さな花のピアスをつけて出社した。
「んー……。」
顧問先から預かってきた通帳や領収書の入力が終わり一息ついていると、隣の席の先輩に「前原さん」と声をかけられる。
「ねえ、暑い?」
「暑いですか?」
「最近いつも肌寒かったけど、今日、暑くない?私だけかな?」
「クーラーかけますか?」
「うーん、私だけだと申し訳ないなって。もう少し周りの様子見てつけよっかな。ありがと」
先輩はふわりと巻かれた髪を微かに揺らして、苦笑いを浮かべた。
季節の変わり目は確かに気を遣うよな、と思う。
私にとっては丁度いい気温だけれど、先輩にとっては少し暑めらしい。「人と合う」って結構難しい。合わせようと譲歩しあわなければ、思いやらなければ、なかなか合わないんだよね。
《今、終わったからこれから向かうね》
仕事が終わり、車の中で秋くんにメッセージを送った。さっきお手洗いに行って入念に化粧直しをしたから準備万端だ。
時刻は18:20。丁度いい時間にお店の駐車場に着いて、車を駐車させた。
スマホを開くと、まだ既読になっていない。
《着いたよ。とりあえず車の中で待ってるね》
予約を取ってくれたのは秋くんだ。先に入るわけにもいかず、待機することにした。
18:30——既読にならない。
「……秋くん?」
自分の声は情けないほどに弱々しかった。
春の夜はまだ冷える。
騙されたのかな、と心が冷たくなっていく。だから「冷静にならないと」って昨日思ったのに。
自分の鎖骨あたりに触れて、ぼうっとする。
——菜乃花ちゃん、展開早いかな?大丈夫?怖くないかな。無理させちゃってごめんね。ありがとう。
電話越しの優しい声が思い出される。
あの人は人を騙すような人かな?そんな人じゃないと思うけどな。
自分の手をぎゅっと握る。
随分と臆病になったものだ。傷つきたくなくて必死な自分がいる。
「わっ」
突然の着信音に驚いて体が飛び跳ねた。着信相手は秋くんだった。
「もしもし?」
「菜乃花ちゃん、ごめんね。もうすぐ着くから」
「あ、ううん、大丈夫だよ。ゆっくり来てね」
体の力が一気に抜けて背中をシートに委ねた。あからさまにホッとしている自分がいる。
「クライアントから電話がかかってきて対応していたら遅くなっちゃって。本当にごめんね。不安になっていたら嫌だと思って電話を」
……よかった。秋くんは来てくれる。
「菜乃花ちゃん、このまま電話、繋げていてもいいかな」
「うん、大丈夫だよ。秋くんが来なかったらどうしようって少し思っちゃった」
「そうだよね、ごめん。一応、初対面だもんね。けど、」
「ん?」
「なんていうか初めて会う気がしないんだよね、不思議だけど。昔からの友達に会う感覚に近いっていうか」
「……私も懐かしい感じがする」
最初の電話の時は緊張していたものの自然と心地良く会話ができて、昔から知っているような感覚を覚えた。まさかそれを秋くんも思っていたなんて。
「今、着いたよ。駐車するからちょっと待ってね」
鼓動が、鳴る。
丁度、駐車を始めた車を見つけて私は自分の車を降りた。秋くんらしき車のライトが消える。中からスーツ姿の男性が降りてきた。
かつ、と私は少し遠くで足を止めた。緊張に心臓が激しく動いている。
「……菜乃花ちゃん?」
電話の声と、男性の声が重なった。
「菜乃花ちゃん、遅くなってごめんね」
秋くんが近づいてくる。
「ううん!電話してくれてありがとう」
秋くんだ。
お互いに耳からスマホを離した。目が合うと、秋くんは申し訳なさそうに眉を下げた。
ああ、まずい——私はきっと、この人を好きになってしまう。
秋くんはスーツをきっちりと着こなし、人当たりの良さそうな、営業が得意そうな、出来る男の雰囲気を持っていた。
「お店、入ろっか。まだ夜は冷えるね」
自然な所作でお店の扉を開けてくれる。
「ありがとう」
さっきから心臓がドキドキしておさまらない。
秋くんにどう思われているか気が気でなかった。
「予約した瀬崎(せざき)です」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
秋くんは個室を予約してくれたらしい。中は落ち着いた雰囲気で「大人」と頭の中に浮かぶ。明かりの下で見る秋くんは、やっぱりかっこよかった。
色が白く、目はくっきりとした二重。でも少し垂れ目。明かりのある店内で見たらまた印象が変わるかなと思ったけれど、清潔感のある端正な顔立ちの男性に変わりなかった。
「なんでも好きなの頼んでね。あ、嫌いな食べ物とかある?」
「えっと……ピーマンとか」
「苦いもんね」
秋くんが笑う。電話で聞いたのと同じ声、笑い方。目を細めて笑うその表情は、私が想像していたよりもずっと柔らかさがあって優しかった。
秋くんが注文してくれた後、少しの沈黙が訪れ、私は出されたお冷を一口飲み込んだ。そこで秋くんがこちらをじっと見つめていたことに気づく。
「……どうしたの?」
「……菜乃花ちゃん、写真で見るよりも綺麗でびっくりした」
真剣な表情には確かに微かな驚きが見え、声はふわりとしていた。秋くんは私を見つめたまま。
「えっと、あの、お世辞でも嬉しいです」
まさかそんなことを言われるなんて思ってもいなかった。恥ずかしさに俯いて肩を縮こませていると。
「ごめん!気づいたら思ったまま口に出してた!口説いてるとかじゃなくて!いや、でも、それもちょっとは……じゃなくて!ごめん!素直にそう思った。菜乃花ちゃん、きっと緊張しているだろうから俺が緊張をとく側にまわれたらなと思っていたけど、俺も緊張しちゃって」
三十代って大人だな、凄いな、と思っていたけれど。
恥ずかしそうな秋くんを見て「こんなにも可愛い部分があるんだ」と胸の奥がきゅっとなる。
「綺麗は初めて言われました」
「え?本当に?」
秋くんは信じられないという顔をしていた。
彼には私がそう見えているんだと嬉しくなって、頷いてみせた。
「身長が低くて子どもっぽいせいか、綺麗なんて言われたことがなくて。嬉しいです」
「俺は綺麗の方がしっくりくると思ったけどな。あ、菜乃花ちゃん、また敬語になってるよ」
「えっ!あ、本当だ。私も緊張してる」
と、笑い合っているうちに、だんだんと緊張がほぐれてきた。
「もう大丈夫そう?」と秋くんが私に聞いた頃には、緊張はもうなくなっていた。
「菜乃花ちゃん、今日はありがとう」
「こちらこそ。ご馳走になっちゃって。ありがとう」
お会計は秋くんが済ませてくれた。気づけば、お店が閉まる時間まで話していた。
夜風はまだ冷たいけれど、今日は星が綺麗だ。
「寒いから早く車に入りな?」
「う、うん」
秋くんの手が一瞬、優しく背中に触れる。あっさり家に返してくれるらしい。
……もっと一緒にいたかったな。次はあるのかな。
寂しい気持ちが、ぽつ、と表れる。
……だけどもう帰る雰囲気だし。
「菜乃花ちゃん、さっき夜の散歩が好きって言ってたよね?そういうのに誘ってくれてもいいし、俺、菜乃花ちゃんと一緒なら何処でも楽しいと思う。また会えるの、楽しみにしてるね」
そして秋くんはもう一度「寒いから」と私を車に入るよう促した。
夜風がふわりと吹く。
私が寒くないか心配そうな秋くんに、言いたいことはたくさんあった。
夜の散歩にだって誘いたいし、私だって秋くんとなら何処にだって行きたい。今日は楽しかった。もっと話したかった。
——と、私は溢れる気持ちを止めるために、唇をきゅっと噛んで。
「私も、秋くんとまた会いたい」
いろんな気持ちを詰め込んだ「会いたい」を、秋くんは柔らかく笑って受け止めてくれた。
「また、連絡するね」
——この人の愛はきっと心地良くてあたたかい。
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