みっつ。待つ時間、言葉にする
初めて会ったあの日からゆっくりなペースでやりとりは続いていた。
おはよう、お仕事頑張ろうね、お疲れ様、おやすみ。
今はこのやりとり一つ一つが特別だけれど、挨拶を何度も交わすようになったらこれが当たり前になるのだろう。「当たり前」は「特別」で、できているに違いない。
私には予感があった。秋くんが私の恋人になるんじゃないか、って。
これは巷で騒がれる「両片想い」ってやつだ。早くくっついてしまえ!と周りがもどかしく感じる、それ。ついこの間まで私は「周り」側の人間だったのに。
でも、その予感とやらは、秋くんとのやりとりから決して自惚れなんかじゃないとわかる。
《秋くんのスーツ姿かっこよかった》とメッセージを送れば、
《じゃあ、毎回スーツで会って惚れてもらわないと》なんて返ってくる。
今が一番楽しい時期なんだって。(ネットに載っていた)
だけど、私の足はもうガクガクだった。
断崖絶壁に立たされているような恐怖心がずっと存在していた。
「……剥がれそう」
指先にふと目を落とすと、薄桃色のマニキュアが剥がれかけていた。除光液を染み込ませたコットンを用意して爪にのせる。丁寧に落としていきながら、小さく溜め息を吐き出した。
もう恋愛で傷つきたくない。
一線引いてしまいたいなんて思うくせに、秋くんの深いところまで知りたいと思ってしまう矛盾。
もし秋くんと付き合えたら、あとは別れに向かっていくだけなんじゃないか。
楽しいことをしてしまえば、それは全て思い出になってしまう。
お別れをしてしまったら、その記憶は全て凶器へと変わり胸に突き刺さる。
別れた後のことばかりを考えて自分を守りたくなってしまう。ボロボロになりたくなくて傷つきたくなくて、私は必死だ。
特に夜は、そういうことをぐるぐる考えて切なくなって投げやりになってしまう。
除光液の桃色に染まってベットリとしているコットンに、何度も何度も除光液を振りかけて小指の色を拭き取る。液の冷たさを感じて強く拭き取った。
「……。」
桃色に染まりきったコットンは、拭き取りの限界をとうに超え、繊維が指先に絡まってしまっている。
「……本当は、」
本当は。だけど、本当は——秋くんの傍に行きたい。
仕事が終わり帰路について、スマホを取り出す。
《秋くん、金曜日会えますか》
金曜日は社会人にとって幸せな曜日。私は思い切って秋くんにメッセージを送った。
《ごめん。仕事が長引きそうで、21時くらいになっちゃいそうなんだ》
《それまで待っていてもいい?》
《大丈夫?俺はすごく嬉しいけど、無理はしないで》
《わかった。ありがとう。待っていたいな》
私は秋くんの仕事が終わるまでカフェで待つことにした。
途中、本屋に寄って文庫本を買った。本でも読みながらゆっくりしよう、と肩の力を抜く。一週間の疲れを体に感じながら、椅子に座った。
「……——。」
小さく息を吐き出して、ココアのカップを包むように持つ。
あったかいなあ。
ココアに浮かぶマシュマロをぼんやり見つめながら、私のことを誰も知らないカフェで、ほっと息をついた。
ここでは誰も私に効率を求めないし、協調性を持ちなさいなんて言わない。そういう空間は安心する。
腕時計へ目をやると、19:52だった。まだ時間があるなと思いながら本を開く。
久しぶりの恋愛だから勉強しようと、短編の恋愛小説を購入した。
そういえば、と思う。そういえば、蒼士のことをあまり思い出さなくなった。秋くんのことを考える時間が多くなっていた。傷が癒えるというよりは思い出す余地がなくなっている、と言った方が正しい気がする。
注文を受ける店員さんの声やいろんな人の話し声が心地良いB G Mとなって本に没頭した。ココアの甘い香りを時折感じながらページをめくっていく。
最初の物語は、恋人と一緒に食事をする話だった。休日に早起きをして作るモーニング、一緒に食べるおやつ、夜ご飯の後は穏やかな夜を過ごすためのお酒。
「壜」という漢字が出てきて目が止まる。
くもり?いや、違う、なんて読むんだろう。
スマホを取り出してその漢字を調べる。——秋くんからのメッセージはないから、まだ仕事中なんだろうな。
検索画面を開いて調べてみる——こう書くんだ。
「壜」は「びん」と読むらしい。漢字で書かれると馴染みがなくて全然わからなかった。
びん、と心の中で呟きながら読み進めていく。
途中でココアを口に運ぶと、食道を通っていく熱を感じた。体が冷えていたのだとそこでやっと気がつく。夜はお風呂にちゃんと浸からなくちゃ。
読み進めていくと、梅酒を作る場面が出てきた。
私でも作れるかな。手作りのお酒だと愛着が湧くだろうし、何より美味しそう。
そう思ってレシピを読んでいき、驚いた。熟成する必要があるらしく、作ってから半年後くらいが飲み頃なのだという。
きっと毎日を丁寧に生きている、心に余裕のある人が作るものなんだろう。
私は椅子に背中を預けて息を吐き出し、体の力を抜いた。
余裕か……。
私はずっと元彼にとらわれていた。それは元彼本人が私に付き纏っていたという意味ではなく、私が自分自身を彼との思い出の中に沈めていた。最近はやっと抜け出せそうな気がして。だから、こうして行動ができているわけで。
——スマホの画面が明るくなる。秋くんだ。
《仕事終わったよ。待たせてごめんね。何処にいる?》
《カフェのソファー席に座ってるよ。端っこの方》
《了解。あと10分くらいで着くと思う》
「了解」のスタンプを送信してスマホを置く。
やっと会える。嬉しいな。
こうやってカフェで人を待てることが嬉しい。私のところに来てくれることが幸せだ。
会えることが嬉しくて、少しでも可愛く思ってもらいたくて、化粧直しをして髪を気にする。だって、初めて会った時の女の子扱いがすごく嬉しかったから。
「菜乃花ちゃん?」
「秋くん!」
近づいてくる気配を感じて顔を上げると、スーツ姿の秋くんがいた。申し訳なさそうに眉を下げている。
会社の人達のスーツ姿と秋くんのスーツ姿は、どうしてこんなにも違うのだろう。こんなにもかっこよく見えてしまう。
「ごめんね、仕事がまた長引いちゃって。結構待ったでしょ?」
「ううん、本読んでたから大丈夫」
「ん?何読んでたの?」
秋くんは私の向かいの席に座って本の表紙を覗いた。「本を読んでいる子に惹かれやすい」とこの前、秋くんは言っていた。
私は本が大好きで、アプリのプロフィール欄にそれを書いていた。そこが秋くんの目に留まったらしい。
秋くんと本の話がしたくて、こうして読みながら待っていた節もある。
「ご飯と恋愛のお話なんだけどね、この漢字読める?私、読めなくて」
「んー、びん?」
「え、わかるんだ!私、わからなくて検索しちゃったよ」
「なんとなく。よかった、合っていて」
秋くんの表情が柔らかくほどけていく。
「あとね、梅酒の作り方が載っていてね、自分でも作れたらなって思って調べてみたら、完成するまでに半年もかかるんだって。びっくりした」
「半年は長いね。早く飲みたくなっちゃうだろうな」
秋くんが優しく笑う。そうだね、と私も笑った。
「ラストオーダーのお時間ですが、ご注文はありますか?」
店員さんが来て、閉店時間が近いことを告げる。
秋くんに「他に頼むものある?」と聞かれて首を横に振った。「大丈夫です」と秋くんが店員さんに伝えてくれる。
「もう21時半か。こんな時間まで待っていてくれてありがとう。そろそろお店出ないとだね」
腕時計を確認してから私を見た秋くんの目は、とても優しかった。
席を立って外に出て、私は秋くんを見上げた。前を向いていた秋くんは私の視線を感じたようで、「ん?」と目を合わせてくれる。
時間が時間だ。夕ご飯も別々に食べたし、これからどうするんだろう。帰ろうか、って言われたら悲しいな。
どう伝えたらいいのかわからなくて口籠ってしまうと。
「寒いし、とりあえず俺の車に乗る?」
「う、うんっ」
一瞬固まった後に、私は頷いた。
それは予想していなかった言葉だった。緊張しながらも秋くんについて行く。
けれど、秋くんは固まった私を見逃さなかった。
「本当に大丈夫?」と何度か確認された。しかし、その度に私が頷くものだから「じゃあ、行こっか」と少し困ったように笑った。
「どうぞ?」
「し、失礼します」
車のドアを開けてくれた秋くんに軽く会釈をして助手席に乗り込む。秋くんの車は白のS U Vだった。私の車よりも車高がある。
——というか、男性の車に乗るのって初めてだ。いや、会社の男性社員とは何度も同じ車に乗っているけれど、それは無論、仕事で、だ。
でも今のこれは、好きな人の車に乗っているということで、だから全然違う。全く違う。
閉店間際の駐車場は静かで、秋くんの息遣いを近く感じた。熱も、衣擦れの音でさえ。
「どうしよっか。この時間だと居酒屋くらいしか空いてないけど、お酒飲むなら車の代行呼ばないとだよね。それか、カラオケか漫画喫茶とか、どうかな。あ、でも待って。勿論、家に帰るっていう選択肢もあるよ」
秋くんがハッとしたように私の顔を見る。
優しい人だな、と私は思っていた。
気遣ってくれることが嬉しくて、やっぱり付き合えたらいいな、と思ってしまう。
「こんな時間に女性を連れ回すのはどうなんだろう。それに菜乃花ちゃん、実家に住んでいるんだったよね。親御さん、心配しない?」
車内に男と二人きりという状況にはかなり身構えている自分がいたけれど、秋くんの口振りに自然と体の力が抜けていく。
「ううん、大丈夫だよ。だって私もう25だよ?責任を取れる大人だし、両親ももう何も言わないよ。好きにしなさいって感じだよ。ただ事故とか生死に関わることだけは気をつけて、って言うくらいで」
「……そっか。うーん、でも本当に大丈夫かな」
「秋くん、心配しすぎだよ」
秋くんがあまりにも心配そうな顔をするから、思わず笑ってしまった。
その場の雰囲気に任せればいいと思っていたのに。夜に会うんだし、本当はホテルだって覚悟していた。その時にならないとわからないけれど、怖くなったらどうしようという心配だってしていたのに。
秋くんは、私を大事にしてくれる人だ。それがたまらなく嬉しかった。
「カラオケか漫画喫茶は?」
小さな声でそう提案すると、秋くんは一瞬固まってから「本当に大丈夫?」と、やっぱり心配そうな顔をして私を見つめる。
「本当に大丈夫だよ、秋くん」
「……じゃあ、漫画喫茶でもいいかな。その方が休めそう。菜乃花ちゃん、本当に無理してない?」
「うん、無理してない。秋くん、行こう?」
私の言葉に「わかった」と秋くんは頷いて、私のシートベルトを何度も確認してから車を発進させた。
金曜日の22時すぎ。車が進んでいく。
夜道は雨が止んだ後で湿っぽく、仄かな街灯に照らされて白く光っていた。
人が少なく、ひっそりと穏やかな静けさに包まれている。世界が切り離されたように思えた。そこでは車の音だけが低く響いていた。
「よかった。沈黙も気まずくない」
「え?」
夜道に気を取られていると、秋くんが緊張のほぐれた声で言った。
言葉の意味がよくわからなくて首を傾けると。
「会話が途切れたら気まずくなったりするのかなって思ったけど、心地いいなって」
「私、沈黙のことなんて頭になかった」
「俺、菜乃花ちゃんを乗せた運転に緊張してるから、尚更いろいろ考えちゃうのかも」
そんなことまで考えていたの、と思わず笑ってしまうと秋くんはそんな私を見て困ったように笑っていた。
大人の男というだけで余裕があるように見えてしまう。でも、頑張っているんだ。それがわかってなんだか安心してしまった。
10分ほど車を走らせると看板が見えてきた。「綺麗なところなんだよ」と言って秋くんは漫画喫茶の駐車場に車を停めた。
私が今まで行ったことのある漫画喫茶は大抵廃れていたが、ここは外観がお洒落で綺麗だった。
「あ、ごめん。車の中にスマホ忘れたみたい。取ってくるから少し待ってて。寒いから扉の近くじゃなくて、あたたかいところにいてね」
秋くんは漫画喫茶の扉を開けて私を中に入れてから、申し訳なさそうに車へ戻って行った。
私は受付で話をしている若い女性店員と男性店員を一瞥してから足元へ視線を落とす。
受付のフロアは広く、店員の話し声が響いていた。
受付の隣にはドリンクバーと本棚があるが、利用客の姿は見当たらない。
異様にそわそわしてしまう。
「部屋に入ると密室だ」と心の中で呟いたと同時に、秋くんが「ごめんね」と戻ってきた。
「こんばんは。どのパックに致しますか?」
「どれがおすすめですか?」
秋くんが店員さんに聞くと、「3時間か、それ以上であればフリータイム12時間、又はナイトパック8時間がおすすめです」と女性店員がメニュー表を見せながら説明してくれた。
男性店員が私を一瞥する気配を感じた。秋くんはナイトパックを選んだ。
「ごめん。実は明日も仕事で、朝の6時くらいには此処を出ないといけないんだ。大丈夫かな」
「うん、大丈夫」
私は頷いて、受付を済ませた秋くんの後について行った。
こんな時間に漫画喫茶に来るなんて——
「——大学生に戻ったみたい」
「本当だよね。社会人になったらあんまり来ないよね」
部屋に着くと秋くんが扉を開けてくれた。
「扉ついているんだね」
「ね、中も綺麗だよ」
扉つきなんて今ってこんなに発展しているの?と驚きながら靴を脱ぐ。私が今まで行ったことのある漫画喫茶には扉なんてなかった。
扉つきで、しかも全面シート。とにかく綺麗。こんな漫画喫茶は初めてだった。
ひどい緊張が這い上がってくる。部屋は思っていたよりも広くて、二人とも仰向けに寝られる広さだった。
「ドリンク何か持ってくるよ。何がいい?」
「え!?あ、えっと、じゃあ烏龍茶がいいな。お願いします」
部屋の広さと雰囲気に圧倒されて、反応が少し遅れてしまった。
「わかった。取ってくるね」
「私、お手洗いに行ってくるね」
わかった、と部屋を出て行く秋くんを見届けてから化粧室へと向かった。
誰もいない化粧室で自分をじっと見つめながらファンデーション片手に固まって考える。
今日、始まる予感がする。
でも、もし帰るまでに何もなかったら私から言おう。絶対に、言おう。
「好きになってもいいですか」って、今度は蒼士の時みたいに零れ落ちた台詞じゃなくて、ちゃんと言おう。
ファンデーションをポーチに仕舞い、また動きを止める。
——いや、もう「好きです」って言った方がいいに決まってる。
この間まで蒼士のことが好きだったのにもう秋くんが好きなんて、私って軽いのかもしれない。
……秋くんは私のことをどう思っているんだろう。
緊張しながら部屋へ戻ると、秋くんは壁に寄りかかって足を伸ばしていた。
「烏龍茶、そこに置いたよ」とテーブルを指差してから私が通りやすいように足を曲げてくれる。
「クッションと膝掛け、一応持ってきたんだけど使う?体痛くならないか心配で。足が伸ばせるからシート席にしちゃったけど、ソファー席のほうがよかったかもしれないね、ごめん」
秋くんは困った顔をしながらクッションを壁につけて私に座るよう促した。座ってみるとクッションが大きすぎて体にフィットしない。
「クッションないほうがいいかも。ありがとう」
私は結局、膝掛けをかけてクッションを端によけた。
私、普通に見えるかな?緊張していることが伝わっていたらどうしよう。
少しの沈黙の後、秋くんがパソコンへ手を伸ばす。
「映画でも見よっか」
「そうだね」と発した私の声は緊張を隠しきれず、揺れていた。
「うーん、これかな……うわ!待って!菜乃花ちゃん、こっち見ないで!」
「え?え?」
と、急に声を上げて慌てる秋くん。片手を広げてパソコンの画面を隠そうとしている。ちらりと見えた画面には女の人が映っていた。
秋くんは、かちかちとカーソルを素早く操作してデスクトップに戻ると私のほうを見て「男が見るやつだった」と、苦笑いを浮かべながらオブラートに包んだ。
「これ、どれが映画見れるアイコンだろ。また間違えたら嫌だな」
「そういうの、漫画喫茶でも見る人いるんだね……。」
「そう、みたいだね。待ってね、次こそは映画見れるようにするから」
秋くんは、なんとか映画を選択する画面にしてくれた。
慌てる秋くんがなんだか可愛くて笑ってしまった。
映画が始まる。最近まで映画館でやっていたミステリーものを見ることにした。
冒頭を見るともなく見る。
心も体も、隣の秋くんへ向かっていて余裕がない。私の全てが秋くんを気にしていた。
「……手、繋いでもいい?」
柔らかく溶けてしまいそうな声で秋くんは私の手にそっと触れた。
無骨な、私とはまるで違う大きな手。
自分の鼓動を強く感じていた。肌の表面がじりじりする。それは緊張からなのか、甘さに浮かされているからなのか、私にはわからなかった。
私が頷くと、する、と秋くんが指を絡めてくる。
手汗、大丈夫かなって心配になってくるし、緊張で変に力が入っているんじゃないかって焦ってしまう。けれど、手を繋いでくれたことがすごく嬉しかった。
それと同時に、少しだけ妬いてしまった。
秋くんは慣れている。
こういう場面がきっと今までにもあったんだ。その度にこの人はきっと違う人の手を握ったはずだ。
画面の中では殺人鬼と主人公が対面し、ヒロインを必死で守っている。
涙目になりながら主人公の後ろで守られているヒロインを見つめ、考える。
私はきっと、ぎこちなく手を握られたとしても「女性に慣れていないんだな」、「大人なのにな。もっとスマートにしてくれないかな」なんて思っただろう。要は、なんでも不安なんだ。恋愛で上手くいった試しがないから。というか、上手い恋愛ってなんだろう?私の今までの恋愛は上手くなくて失敗だったのかな。
蒼士の時だって、やっぱり私は恋愛に向いていないと思うことによって、振られた現実から目を逸らした。
恋愛の正解がわからなくて何か答えを出してみてもきっと間違っていると思って、また違う答えを探してしまう。だから答えが見つからないまま途方に暮れて、身動きが取れなくなってしまう。
秋くんとの正解だってわからない。私が手を握り返すのは合っている?
触れたいな、と思っていたら、触れてくれた。だから、握り返すのは大丈夫なこと?合っている?わからない。
でも、この時間が、ずっと、続けばいいのにな……。
胸の奥がきゅうっと苦しくなる。
私は隣の秋くんを見上げた。秋くんは画面を見つめていたけれど、私に気がついて「ん?」と首を少し傾け、優しい目を向けてくれる。
「う、ううん!」
「うん?もしかして体痛い?体勢変える?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
「痛かったらすぐに言うんだよ?」
秋くんが私の髪に触れる。優しく撫でてくれる。
秋くんの声は、ふわふわ、あたたかい。
仕事の時はきっとこんなに柔らかい声じゃないんだろうな、と想像して嬉しくなる。大切にされている感じがする。
映画の終盤、時刻にして深夜2時すぎ。クライマックスの映画の中は騒々しいにもかかわらず、私は睡魔に襲われていた。いつもならとっくに眠っている時間だ。秋くんの手があたたかくて、体から力が抜けていく。
どうしよう、まだ好きって伝えてないのにな。言わなきゃ。でも、どのタイミングで言ったらいいんだろう。映画は今とても良いところだ。今言ったらきっと良くないな。
「……菜乃花ちゃん?」
隣の秋くんに寄りかかってしまった。気づいた時には頭が秋くんの肩に触れていた。一瞬ハッとしたけれど、秋くんは動かず私を受け入れてくれている。その優しさに甘えることにした。
目が開かない。あたたかくて気持ちがいいな。秋くんの、香水か柔軟剤かはわからないけれど、良い匂い。
瞼がどんどん重くなっていく。このまま寝ちゃいそうだなと思っていると、秋くんが少しだけ体勢を整えるように動いた。
咄嗟に「ごめんね、寄りかかっちゃって」と舌足らずに言うと。
「ほら、おいで」
秋くんの声はやっぱり優しかった。秋くんは私の頭に触れると、そのまま自分の肩へと誘導する。
微睡のなか、言葉が頭の中でゆらゆらと、形をなさない。
「……菜乃花ちゃん、」
空気に溶けてしまいそうな秋くんの声に反応したくて、けれど体は心地良くて動きたくなくて。
「俺の彼女になってくれませんか」
秋くんがゆっくりとした動作で私の顔を両手で包み込む。そして、顔を少しだけ傾けて。
「——……え」
私がやっと声を出せたのは、優しく丁寧なキスがひとつ、終わったあとだった。
「菜乃花ちゃん、好きだよ」
ふわふわと秋くんの声が体の中に入ってくる。
秋くんは柔らかく笑うとそのまま私を抱き寄せて、私の頭を丁寧にゆっくりと、慎重さも含んで撫でてくれた。
気持ちいいなあ、と思わず目を細めてしまう。
どうしてこんなにも落ちつくんだろう。
「——……ん」
あ、また、キスされる。そう思うと、またひとつ、キスが終わっていた。
秋くんが私の後頭部へ手をまわし、グッと引き寄せて三度目のキスをしたその瞬間、ああ、両想いなんだな、と実感した。
「秋くん、」
火照った熱を冷ますように秋くんはまた私を抱きしめて、ゆっくり頭を撫でている。
「ん?」
そういえば、スーツの人と抱き合うのって初めてかもしれない。ファンデーションとかリップがついていたらどうしよう。
「……。」
なんてふと思ってしまい、言葉が止まる。
空白がうまれ、秋くんの衣擦れの音が聞こえてくる。
秋くんがまた私の顔を見つめて、キスをしようと——
「彼女に、」
すっと、言葉が出た。
目を瞑ろうとしていた秋くんの瞼があがっていく。
「秋くんの彼女に、なりたいです。好き、です」
もう一度「彼女に」と口にしたところで、思い出したかのように怖さが込み上げてきた。
両片想いという曖昧な、夢見心地で形をなさなかったものが、くっきりと両想いという形となって現実味を帯びていった瞬間だった。
秋くんの目尻が柔らかく下がっていく。嬉しさが顔に滲んでいた。
「ありがとう。これからよろしくね、菜乃花ちゃん」
……ああ、怖いなあ。
それは明瞭な、はじまりの恐怖だった。
目を細めて柔らかく笑う秋くんを見ていると、嬉しさと怖さが綯い交ぜになって感情が込み上げてくる。危うく泣きそうになってしまった。
秋くんと「別れ」はあるのかな。失いたくないな。
「菜乃花ちゃん?」
「ううん、嬉しくて」
秋くんの手がそっと私の頬に触れる。私はその手に自分の手を重ねて笑った。
幸せが続きますように。そう願わずにはいられない。
夜は、ゆっくりと静かに過ぎていった。
「菜乃花ちゃん、最後に」
部屋を出る直前に秋くんは手を広げた。そっと近づいて手を回すと、秋くんは私を抱きしめて頭をぽんぽんと撫でた。
朝6時頃の空には、まだ少しだけ夜の余韻が残っていた。
車の通りは思っていたよりも多く、夜と朝は全く違った。世界には、私と秋くんだけじゃなかった。
自分の車が停まっている駐車場に着く頃には、もうすっかり明るくなっていた。
「……秋くん、あの、」
別れ際、秋くんの手に触れて名前を呼ぶ。私の声は、か細く情けなかった。
「うん?どうした?」
「また会える?」
「勿論。何か不安なことがある?」
秋くんは私を心配そうに覗き込んで、私の返答を待ってくれている。
はじまったら、だって、終わっちゃう。それがたまらなく怖い。
「わ、私ね、その、喧嘩の時とかあまり喋れないかもしれなくて」
「喧嘩の時?」
秋くんが私の言葉をなぞる。
黙ったまま頷く。話さなきゃ。心がざわついて唇がなかなか開けない。
秋くんが私の手を握ってくれる。あたたかくて少しだけ心がほどけた。
秋くんを安心させたくて笑ってみせようとしたけれど、口角がうまく上がらない。きっと変なふうに秋くんには映っただろう。
「前に付き合っていた人にね、喧嘩をしても私が黙って謝るだけだから苛々するって言われたことがあってね、私、自分の気持ちが言えないの。人と争うのが怖くて臆病者だから、秋くんのことも苛立たせちゃうかもしれない。それ、で」
「……だから、不安?」
秋くんの顔が見れない。
何か言わなきゃと口を開きかけたけれど言葉が見つからず、頷くことしかできなかった。
秋くんは「そうだなあ」とゆったりとした声を出して。
「俺、あんまり怒ることがないから、そもそも喧嘩にならないかもしれないよ。例え喧嘩になったとしても菜乃花ちゃんとは争わない。ゆっくりでいいから菜乃花ちゃんの気持ちを聞いて、それで仲直りしたいかな」
「秋くん……。」
「ん?まだ不安?」
「……う、」
「まだ何かありそうだね」
今度は私が秋くんの手をぎゅっと握る。
不安は言わないと、きっと、ずっと残る。
「……私ね、本当に駄目なの。前の人とも上手くいかなくて、秋くんのこと傷つけちゃったらどうしようって、怖い」
秋くんの顔が見れず、繋がれた手を見つめる。「菜乃花ちゃん」と柔らかい声で呼ばれた。
「菜乃花ちゃんが前に付き合っていた人と俺は別の人間だよ。だから、その人の時に起きた問題とはまた別の問題が起こることだってあるかもしれない。その時は一緒に考えよう。ね?」
「確かに、秋くんと元彼は違う人間だ……。」
ポカン、としてしまった。当たり前。当たり前のことだ。
そんなこともわからないほどに、私は恋に怯えていた。
「不安なことがあったら今みたいになんでも言ってね。漠然としていてもいいし、言葉にできなくてもいいから、何かあったらちゃんと言うんだよ?」
秋くんは私を見つめてから、繋がれている手を自分の口元へ持っていき、手の甲にキスを落とした。
これが、秋くんの愛し方。この人の特別に、なれた。この人を上手に愛したいと思って、止まる。私は、名残惜しそうに私の頭を撫でる秋くんを見上げながら、きっとこの人は「上手に」なんて求めていないと感じた。
「秋くん、またね」
「気をつけて帰るんだよ」
するり、と手が離れていく。私は秋くんの車から降りて、窓越しにもう一度彼を見つめた。目が合うと柔らかく微笑んで手を振ってくれる。
——過去を、ちゃんと乗り越えなきゃ。
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