好きになる理由なんて並べるな
葉月 望未
ひとつ。 冬、紅茶を飲みまして
二人きりの部屋、しん、と音が聞こえてくるほどの静けさ。隣人はまだ帰ってきていないらしい。でも、どうしてこのタイミングっていえば、夜が濃くて、しっとりとした濡れっぽさがあって。
紅茶を。彼が「紅茶を淹れてくるね」と言ったから途中だった映画を静止させた。
その映画は、地球が地球外生命体に侵されていく話だった。所々にラブシーンが盛り込まれている。
昨日偶然にも、この映画に出演している女優達がインタビューに答えているのをテレビで見た。
『実はあのキスシーン、私は知らなかったんです。彼がアドリブで。だからほら、私、物凄く驚いているでしょう?あれ、演技じゃなくて素なんですよ』
そのキスが終わった直後の停止だった。彼女は目を丸くして彼を見上げている。
それをじっと見つめていると「今だ」と急に気持ちが奮い立った。
——伝えたい。
だから私はつい、その場の熱に浮かされた唇のまま、言葉を発してしまった。
「……好きに、なってもいいですか」
それは丁度、彼が紅茶をテーブルに置いた時だった。
ふわりと湯気がたち、温かさが揺れる。
「ん?」
彼——
私の声は消え入りそうだったけれど周りの音がない所為で、きっと聞こえていた。
好きになってもいいですか。
頭の中で反芻される。言葉をなぞるごとに、それは現実味を帯びていった。ぶわっと顔が熱くなって俯く。
何の決意も覚悟もなく夢見心地で言ってしまった。
「好き」だけを伝えようと思っていたのに。
いいですか、って。いいですかって!
後悔の念に苛まれる。
先週、そういう台詞のある恋愛映画を見た所為だ!だから頭に残っていて!思わず!あああっ!やってしまった。
これでもし万が一、「それは困る」なんて言われてしまったら。
「——……。」
蒼士が動く気配を感じて、びくりと肩を震わせた。答えをちゃんと聞こうと顔を上げると、目が交じり合う。
——一瞬で、わかってしまった。
蒼士の唇が開きかけた刹那、私は勢いよく目を逸らして。
「わ、私ね!蒼士とは住んでいる場所が遠いから、それなら近くに住んでいる人の中から好きな人を探した方がきっといいなって思ったの。でも、どんどん好きになっていって」
好きになってもいいですか。いいよ、って言ってくれませんか。じゃないと、苦しい。
了承を得ないと、誰かを好きになってもいいのかさえ、わからない。
なんだか泣きそうになってしまい、グッと唇を閉じた。蒼士は故意なのかわからないけれど、とても優しい目をして私を見つめて——
蒼士の唇が開かれようとした瞬間、私の唇が彼の言葉を奪いたくて動き出す。
言葉を、聞きたくない。
「どうして私、蒼士のことを好きになったのか考えたの、いっぱい。年齢が二個上で近いから?彼女がいないから?身長が高いから?私が欲しい言葉をくれるから?優しいから?でもそんな人、きっと他にもいっぱいいて。でも、隣にいて安心するっていうか、そういうしっくりくる人ってなかなかいなくて。だから……。でも、どうしてだろう。柔らかい雰囲気を持っているから?でも、蒼士じゃなきゃ駄目な理由なんてないはずなのに。だって私にとっても蒼士にとっても異性はいっぱいいるんだよ。山ほどいるんだよ。なのに、」
「……なのに、僕が好き?」
今度は蒼士が私の言葉を奪って、落ち着いた、私の胸が高鳴る声でそう言った。
蒼士は優しく柔らかい目を伏せる。
——ああ。と、心の中で呟いた。
「……
ぐらりと目眩が起きて、このままいっそ倒れてしまいたくなった。けれど私の体は正常で倒れる気配すらない。心は信じられないほどの痛みと苦しみを感じているのに。
ああ、間違えた。やってしまった。——消えて、
「気持ちは本当に嬉しいよ。でも付き合えない。ごめん」
——消えて、しまいたい。
このままいっそ消えてしまえたら、どんなに、いいか。
「あっ!ううん!全然!本当に全然!気にしないで!私こそ、急にごめんなさい」
「いや……ありがとう」
「わ、私、帰るね。ごめんなさいっ」
頭が回らない。でも、ここから早く離れないと、と体が動き出す。蒼士が淹れてくれた紅茶の湯気がふわふわと揺れていた。
「……菜乃花」
上着を持ち、玄関まで駆け寄ってドアノブを回そうとした刹那、後ろから名前を呼ばれる。振り返れない。ふり、かえれない。
恥ずかしくて、消えてしまいたい。
蒼士はきっと申し訳なさそうな顔をしている。だから、顔を見たくない……見られない。
「今日はありがとう。楽しかった」
玄関の扉を開けながら大人の女が吐く、捨て台詞を口にした。典型的な、それはもうドラマでしか聞いたことのないような。
恥ずかしい。ていうか、本当にこんなことを言う場面がくるとは思わなかった。なんだ、あれってドラマの中だけじゃなかったのか。
「気をつけて帰って!」
扉が閉まる直前に蒼士の声が聞こえ、それはパタリと閉まった扉の中に消えた。
はあっと吐く息は白く、冬の空は高かった。コツ、コツ、とアパートの階段をゆっくり下りていく。
今日のために塗った桃色のマニキュアが目に入り、思わず人差し指の爪を摩る。
……取れない。
固まっているのだから、それはそうだ。でも、取れない。
駐車場の端っこに駐車した黄色くて丸っこい私の車。中へ乗り込み、エンジンをかけようとして手を止める。
「……ふられた」
ぽつりと唇からこぼれ落ちていく。
そうだ。私はついさっき、振られてしまった。
その場の雰囲気に呑まれ、「好きになってもいいですか?」なんて。ああは言ったけど、心のどこかでは上手くいくと思っていたんだ。だからこんなにもダメージが大きい。
冷たいハンドルに触れ、俯く。
じゃあ、どうして私を部屋にあげたの?この日のために買った、この可愛い下着はどうしてくれるの。
そうやって、好きだった蒼士をなんだか恨めしくも思ってしまう。
——大丈夫、大丈夫。溜め込まないで僕に何でも話して。それで一緒に頑張ろうよ。
「——……。」
柔らかく微笑む蒼士。迂闊にも思い出してしまった。
涙がゆっくりと流れていく。
久しぶりの恋に浮かれていた。それはもう随分と浮かれまくっていた。あの人はどんなふうに人を愛すのだろうと想像して。
「……もう、やだ」
——今日、恋がひとつ終わった。
なんて、自分でナレーションを入れてみたけれど、綺麗に締めて終われるわけがない。
小さく息を吐き出して、車のフロントガラスの先に見える街灯をぼうっと眺める。
現状は芳しくない。25歳、最後に彼氏がいたのは、もう3年も前のことになる。
恋の仕方がわからなくなって線引きの仕方も忘れ、蒼士を好きになる理由なんて並べて、まっすぐに「好き」とすら言えない拗らせた女。
私、大丈夫?明日もちゃんと生きていける?
「——。」
楽しそうな話し声が近くから聞こえてくる。暫くすると、カップルが手を繋いでアパートに入っていくのが見えた。仲睦まじそうに笑い合っていた。
ポタリ、ポタリ、と落ちていく涙を拭えもせずに、私はただただ背中をシートに預けることしかできなかった。
《由紀ちゃん、ふられました》
《今日会いに行った男でしょ?大丈夫?》
《今、涙が凄いことになっているので》
《着信》
「……うっ、うえっ」
「ちょっと大丈夫?菜乃花、まさかずっと泣いてたの?」
高校からずっと仲良しの由紀ちゃんの声。ひとりぼっち、が和らいでいく。
「い、勢いで、言っちゃって……。」
「言えたの、凄いよ。ね?しかも菜乃花が会いに行ったんでしょ?車で片道1時間」
「う……っ、うんっ」
「相手の男、最低ね。菜乃花はよくやった。ていうか、菜乃花を泣かせる男はこの私が許さないんだから」
「う、うんっ、由紀ちゃああんっ」
ああ、由紀ちゃんがいてくれて本当によかった。
自分の部屋に籠もって両親にバレないように泣いている私は、こうしているとまるで中学生みたいで、ただの甘酸っぱい思い出にしかならない恋に敗れただけのような気さえしてくる。
気づけばもう結婚を考えるような年齢なのに恋愛の仕方はまるでお子様で、引き際も砕けどころも最悪だ。
「……わ、私っ」
「ん?」
「穏やかな人に、これでもかってくらい、甘やかされる幸せな恋愛がしたい」
鼻水を啜って掠れた声を出すと、電話の奥で「ああ、それはねえ」と溜め息混じりの頷きが聞こえてくる。
「ただの恋愛ならそれだけでいいんだけどね」
「け、結婚だと、駄目なの?」
「そりゃ、そうでしょう。甘やかすだけの旦那じゃ困るって」
「あ、甘やかすだけじゃないよ!もっとこうしたほうが、とかアドバイスくれたり、私の好きなことに笑って頷いてくれたり、して……。」
シュッと素早くティッシュを取って目を押さえると、涙がシュルシュル吸収されていく。
「ああ、それは……理想だよね」
と、由紀ちゃんは悟っていたと思うけれど、黙っていてくれた。理想の話のはずが、いつの間にか蒼士の話にすり替わっていた。
……傷心。蒼士に全部繋がってしまう。
「はぁ……。」
電話を切って溜め息を吐き出し、真っ暗になったスマホの画面をじっと見つめて「結婚は現実的なんだな」と当たり前であろうことを考える。
私がしたいことは「恋愛」だ。辛い時に寄り添って「大丈夫だよ」と私のことを全て受け入れてくれる男。頭を撫でて穏やかに笑う年上。仕事のできる尊敬に値する男。自分のためになる理想の恋愛。
でも、そういうものなのか。と由紀ちゃんの言葉を聞いて思う。
恋愛の延長線上に結婚が浮かびあがるものだと思っていたけれど、甘やかす、甘やかされる、という上下関係のない二人が結婚するんだ。由紀ちゃんの口ぶりはそうだった。
由紀ちゃんにはもう付き合って3年になる彼氏がいる。結婚は時間の問題だろう。だからこそ、言葉の重みが違う。
失恋ソングを聞いて傷心に浸り「どうかこの気持ちが消えますように」なんて願う私と、結婚を控えた女の現実的な言葉。まさに中学生と大人。ううん、もしかしたら私より現代の中学生の方が大人かもしれない。
自分が惨めに、陳腐に、思えてくる。
「……や、でも、恋愛は悪いことじゃないもん」
そう呟いて、ハッと口を抑えた。
もん?
ひとりぼっちの部屋で誰の得にもならない、「もん」。ああ、私って痛い?大丈夫?私……。
と、頭を抱えて「もう明日なんて来なければいいのに」と明日を呪う私にも平等に——
「……おはようございます」
——朝は平等に、やってくる。
超えられない夜は超えられないまま残り、朝は来るというけれども、それは事象的なことであって私の心はまだ夜のままなんです。なんて心の中で呟いてみる。
「仕事休まなかっただけ偉い。私、偉すぎるよ」と心の中で自分を元気付けながらデスクへと向かう。
朝、目覚めてスマホを開き、あろうことか蒼士からメッセージがきていないか確認してしまった。無意識だ。この2ヵ月間、ずっとそうしてきたから。だって2ヵ月もやりとりが途切れなかったんだよ?期待しちゃうじゃないか。
蒼士とはアプリで出会った。今流行りのマッチングアプリ。
少し前までは出会い系なんて呼ばれていたネットでの出会いは、今や世の中に浸透して珍しくもなくなっている。
大学ではそれなりに出会いもあったし彼氏もいたけれど、社会人になってからは出会いというものがぱったりとなくなってしまった。
大学生の時に付き合っていた彼とは社会人になる前に別れてしまい、それ以降、彼氏というものはできていない。
由紀ちゃんや他の子達からも紹介してもらい、デートにだって何回か行ったけれど、しっくりこない相手と長時間出かけるのは疲れて仕方がなかった。
愛想笑いをするのは思いのほか辛く、更には週末で疲れの取れない体を引きずって、好きかどうかもわからない男と話をするのは、来週の仕事に大いに影響した。
心と体の疲れが全く取れない所為で私は随分恋に辟易し、いつの間にか休日を全力で休むためだけに使うようになっていた。
「イベント事ってさ、彼氏がいると楽しいけど一人だと関係ないよね。ただ過ぎていくだけっていうか」
と、会社の先輩に世間話の中で言われたことがあり、私はその言葉に何度も頷いた。
クリスマスなんてイルミネーションを横目にただ通り過ぎるだけ。気づけば終了している。いいなあとは思うものの、それだけだ。だって気づいたらもう終わっているし。
けれど25歳になり、友達がだんだん「結婚するかも」と笑ったり、連絡をとらなくなった知り合いのアイコンが結婚式の写真になっていたり。将又、子どもの写真になっていたり、名字が変わっていたりする。そういうものを見て戦慄する日々に疲れてしまった。
そういうわけでアプリを始めた。休日、スマホ片手に相手が探せる。楽をしたい私にとっては打って付けだった。
由紀ちゃんには「そんな軽い気持ちで大丈夫なの」と心配されてしまったけれど。
蒼士は文体が優しくて落ち着いていた。絵文字は使わず顔文字もないけれど、文字から滲み出る優しさが柔らかくて好きだった。
一人称が「僕」で、語尾は「かな」、「笑」って付くところ。
私は最初こそ馬鹿にしていた。文字だけで好きになるもんか、って。人とは会ってみないと何もわからないはずだ。そう思っていたのに。
「……ああ、どうしよう」
静かな夜、ベッドに潜り込んで電気を消すと、スマホの明かりがフワッと灯る。
蒼士からメッセージがくると嬉しくて、早く言葉を受け取りたくなった。
「……好き?」
あれ、私、この人のこと好きなの?と、自分の呟きにひどく驚いたものだ。
《もしよかったら会ってくれませんか》
そう切り出したのは私だった。不思議なもので、その人が自分の世界に関わっていないと(例えば同じ会社にいるとか)、人は大胆になれるものらしい。
《うん、いいよ。でも、どうして敬語?笑》
《なんだか緊張しちゃって》
《どこか行きたいところはある?僕がそっちに行ったほうがいいかな?》
《私が蒼士のところに行きたいな。私、実家暮らしだから》
《本当?結構距離あるけど、運転大丈夫かな。無理はしてほしくないけど、僕も菜乃花に会ってみたい》
会ってみたい。その言葉に頬が柔らかくなって自然と笑みが零れた。
優しいな、好き。と、私は車の運転時間なんてそっちのけで喜んでいた。というか、何時間かかったとしても会いに行けるパワーを秘めていた。
蒼士は恋愛に臆病な人だった。いつもは積極的に動かない私が動いてしまったくらいには消極的だった。
自分からはすぐに行動せず、こちらの様子を窺っている。慎重に、慎重に、動く人。メッセージのやり取りをする中で彼自身もそう言っていた。
だから、アプリでのやりとりから個人的な連絡先でのやりとりになるまでには相当な時間を要する、らしい。——らしい、というのは、結局、蒼士の個人的な連絡先を知らないまま終わってしまったからだ。
《連絡先、教えてほしいな》そうメッセージを送ったのは私。
《会ってからでもいいかな?》
《うん!全然大丈夫(ニコニコマーク)》
スマホをタップした指は力ない。選んだ絵文字とは裏腹に、どんよりと沈んだ気持ちになった。だってまさか断られるなんて思ってもみなかったから。
《恋愛に自信がないんだ》
蒼士はそうメッセージをくれた。
《モテないし、彼女がいたのだってもう随分前のことだよ》という言葉には謙遜が多く含まれているものだと捉えていた。
それがまさか、本当に自信がなくて、女の子からの誘いも快く受け入れられないとは。
女子以上の女子。意気地なし……なんて思っても、結局は「それでも好きなんだから仕方ない」という溜め息を吐くだけ。
好きだからこそ私が安心させてあげたい。安心安全な恋愛を提供してあげたい!
——そう、思っていたのにな。
「安心安全って、無農薬野菜みたいな?」
ポキッと野菜スティックの人参を食べる目の前の男。興味なさげに、ぼんやりとした目をして、私にそう聞いた。
友達の結婚式の二次会、居酒屋。
目の前には新郎側の友達として出席した男。色が黒く、くっきりとした二重で、顔は悪くない。
「ん?」とスティック野菜が入ったカップを差し出され「食べる?」と聞かれる。私は曖昧な返事をしながら、きゅうりを手に取った。
「そんな恋愛、すぐに飽きちゃうと思うけど。こう、燃えるような恋っつーか、むしろ愛?そういうほうがよくない?」
男は小首を傾けて、後ろの壁に寄りかかる。
そんな恋愛をする蒼士なんて想像できない……と苦笑いを浮かべながら、不安そうに眉を下げたあの日の彼を思い出してしまう。
終わった恋をいつまで心の中に留めておくつもりなんだ。
きゅうりを齧る。
「でも、私達くらいの年齢だと、燃えるような?そういう恋愛はもう不倫くらいじゃないと味わえないんじゃないですか?結婚した夏美と晃司さんだって、燃えるような恋愛をして結婚したわけじゃないと思いますし」
「なんで君にわかるの?燃えるような恋愛をしてないって」
「だって、すごく穏やかだったから。あの二人の取り巻く雰囲気というか」
「まあね。でも俺は安心安全な恋愛なんて続かないと思うけどね。恋はいつか愛に変わるだろ。愛に変われば、結婚だって見えてくるだろうけど、安心安全は愛に変わる前に砕けるね、確実に。だって飽きるだろ」
恋の進化こそ、愛。
恥ずかしいことを得意げに言う男。けれど、妙に納得してしまう。
でも、本当に。本当に、安心安全な恋は、愛になれないの?
「安心安全な恋がもし本当にあるとするなら、ぜひ提供してもらいたいものだけどね」
低く落ち着いた声。引き寄せられるように目を向けると、斜め前に座っていた男がカップのきゅうりを取りながら、私を一瞥した。
「穏やかな恋愛ほど良いものはないよ。燃えるのは所詮、一時の感情なんだから」
ふわりとパーマがかけられた黒髪、綺麗に剃られた髭、高い鼻、切れ長の目。スーツがしっくり似合っている。
ああ、この人はきっと結婚している。
「光樹、何言ってんだよ。お前はこっち側の人間だろ」
ウーロンハイを飲もうとしていた手を止める。氷がカランと鳴った。
光樹と呼ばれた男は、私の予想通り薬指に指輪を嵌めていた。
「他の男と婚約中だった美奈ちゃんを略奪したんだから」
最初に私と話をしていた色黒男は「ないものねだりなのかね」と鼻で笑いながら、人参スティックを不味そうに噛んでいる。
略奪愛か。私には未知の世界で想像することさえままならない。
「貴方のいう安心安全な恋愛というのは、どういうものなの?」
光樹は口元に緩やかな笑みを浮かべて私に聞いた。くっきりと艶やかな雰囲気を纏いながら。
光樹の輪郭だけが明瞭に、色濃く見える。
これが略奪した男の魅力か、と私は何度も瞬きをした。
いい男なのだろう。恋人、婚約者、旦那、そういう目線からではなく、ただの男という視点だけで見て、いい男。
それでも、いい男を目の前にしても、私の中の蒼士は消えてはくれず、思い出すだけで寂しさに囚われてしまう。
私はあの人の恋人にはなれないのに。
「私が思う安心安全な恋愛は、不安にならない、愛し愛される恋愛のこと。お互いが穏やかに想い合うものだと思います。多分……。」
言葉に自信がなくて、語尾に予防線を張ってしまった。
蒼士があまりにも不安そうな顔をするから、「それなら私が不安にならない恋愛をあげたい」と思ってしまっただけで、今までそんな恋愛をしてきたかといえば、答えはノーだ。
自分で言っておきながら、「本当にそんな恋愛、存在するの?」と疑ってしまう。
「『燃える恋愛』は障害があるからこそ激しいんだよ。何がなんでもこの人を好きでいる、離れたくないって躍起になる。ゲームの攻略的要素があるんだよ。でも、攻略してしまったら?」
この人は思いの外、口が悪いらしい。
「……好きじゃなくなる?」
恐る恐る口にしてみれば、光樹は力なく曖昧に笑っただけで何も言わなかった。
帰り道、乗り換えをする大きな駅で改札を抜けた。土曜日の駅構内には華やかな服装の人が多く、各々がそれぞれの土曜日を楽しんでいるようだった。
結婚式用の服、頑張ってセットした髪。いつもよりお洒落な自分を見せたいのはただ一人。
コツコツと規則正しく鳴るヒールを止めて、駅の壁側に寄る。待ち合わせなのか、何人かの人が壁近くにいた。みんなスマホに目を落としている。
光樹というあの男は、安心安全な恋愛がしたかったのだろうか。美奈ちゃんという奥さんを略奪した果てに待っていたのは、穏やかな愛ではなかったのかもしれない。
溜め息を吐き出して自分の肩に触れる。
なんだか疲れた。人を好きになるってどういうことなんだろう。この歳でそんなことを深く考えてしまう私は相当な拗らせ女だと自覚はしている。
蒼士だって、私のことを「いいな」と思ってくれたからこそ会ってくれたんじゃないのか。アプリ内でのやりとりは良かったはずなのに。
紅茶が好き、夜の散歩が好き、量より質。そういう似たようなところがいっぱいあった。
それがまさか、相手の家まで行って指一本触れられないとは。
——いや、誠実だからこそか。
私から誘ったとはいえ、最初から家に行くべきじゃなかったんだ。私が展開を急ぎすぎてしまった。
人々が歩いていく様をぼんやり見つめながら、焦っていたんだなあ、と唇をきゅっと噛む。
周りの友達に彼氏ができて、暫くすると結婚式の招待状が届いた。イベント事を横目に通り過ぎる私の感情は、すっかり薄れてしまっていた。仕事ばかり。生活ばかり。
私は憧れていた。好きな男がいる幸せそうな友達に。
私も、と震える手を伸ばした先に蒼士がいた。今思えば、慎重な蒼士にとって私は厄介な女だったのかもしれない。私は愛を求めすぎていた。
早くこの人の恋人になりたい。早く唯一の女の子になりたい。早く、早く。
だって、愛されたい。愛が枯渇しているから。ああ、なんて惨め。
「悲劇のヒロインです、ってね」
ハハッと自嘲してみれば、隣でスマホをいじっていた若い男がギョッとした顔をして私を見つめた。
気まずくなって視線を別のところへ移すと、お店へと繋がるエスカレーターが目に入ってきた。
蒼士に振られる前は彼の好きなものばかりが目に入って、当たり前のように購入していた。少しお高めのチョコレート、多肉植物、キャラメル味の紅茶。
——あ、紅茶。
そういえば、と歩き出す。
どうせなら今日くらいデパ地下の良いお惣菜を買っていこうと思って駅の改札を抜けたわけだけれど。そういえば、紅茶をきらしているんだった。
お気に入りの紅茶屋さんへ向かって歩き出す。
蒼士も紅茶が好きだと言っていた。特に、キャラメルの甘い香りのする紅茶が。あの日も、その香りがしていた。
私も紅茶が好きで、食後に必ず飲んでいる。蒼士が好きだからという以前に、私は紅茶が大好きだ。
明るい店内へと入り、ゆっくり品物を見ていく。目に留まるのは、やっぱり——。
「そちら、新商品の苺とキャラメルの紅茶になります。甘い香りがして、ミルクティーにもおすすめなんですよ」
店員さんが笑顔で紹介してくれたその言葉に、自分の顔の強張りを感じた。
苺は私が好き。キャラメルは蒼士が好き。こんなピンポイントな紅茶ある?と、言葉が出てこない。
「良かったら香りを」
「い、いえ!結構です!」
店員さんが茶葉の入ったケースを開けようとするものだから、大慌てで断った。
よく考えろ。苺とキャラメルの組み合わせなんてどこにでもある。たまたまだ。私がまだ蒼士のことばかり考えてしまうから、こういうものを見つけてしまうだけ。
気持ちが沈んでしまう。自分を癒すのはこんなにも難しい。
「あの、元気が出る紅茶ってありますか?」
「ルイボスレモンはいかがでしょう?」
店員さんは、私の小さな声を拾って柔らかく笑った後、私から離れていった。顔を上げると、戻ってくる店員さんと目が合う。ニコッと笑いかけてくれた。
「ルイボスティーはノンカフェインなので寝る前でもおすすめなんです。体を温めてリラックスしてからゆっくり眠りにつくのが私、大好きで」
ふふっと肩を竦めて表情をくしゃりと崩しながら笑う店員さんは、店員ではなく女子の顔になっていた。この人は紅茶が本当に大好きなんだ。だから、こんなにもキラキラしている。
「夜はゆっくり休んで、一日頑張った自分を褒めてあげてください。元気になるのは、頑張るのは、明日からでいいと思うんです」
店員さんの優しい声に私は少しだけ救われて、ルイボスレモンを購入した。
夜、静かな時間。だからこそ、余計なことばかり考えてしまう。解決できないことを永遠にぐるぐる考えて、絶望的な気持ちになって、静かに涙を流す日だってある。
マグカップの中にルイボスレモンのティーバッグを入れてお湯を入れ、蓋をする。蒸らすと美味しくなるからだ。
しばらくして蓋をあけると、ふわふわと湯気が揺れた。レモンのさっぱりとした香りが鼻腔まで届いてくる。
落ち着くな……。
一口、ゆっくり飲み込むと、自然と息を吐き出せた。体に入っていた余計な力が抜けていく。
「誰かに、ぐずぐずに甘やかされて愛されたいな」
切実な思いは、やっぱり相手に求めている証拠。
愛したい人よりも愛されたい人の方が多いことを知っている。それでも切実に思ってしまうのだ。
だから今日は、自分を思い切り甘やかそう。
私はゆっくりと、温かい紅茶を飲み込んだ。
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