第三章 〈星読み〉の魔女カレッサ


 まるで水の底を漂っているような、ゆらゆらとした感覚。

 ああ、夢を見ているのだ、とアデルはすぐに気がついた。自分は宙に浮いていて、足もとにふたりの女性を見下ろしている。ひとりは波打つ金髪の持ち主で、まだ若く美しい娘だった。年齢は二十歳前ぐらいか、まさに花の盛りといったところで、華やかな印象がある。

 もうひとりは全身を覆う裾長のローブを身につけており、白いフードを目深にかぶっていた。顔は見えないが、華奢な体の線を見れば女性だということはうかがい知ることができる。肩に真っ赤な羽根のオウムを止まらせているが、まるで眠っているかのようにおとなしくしている。

 ふたりはなにやら揉めているらしかった。より正確に言えば、金髪の娘が白いフードの人物に食ってかかっているようだ。叫ぶように娘が言う。

「なぜ私たちが存在を秘匿しなければならないのですか?」

 アデルの視点は風にあおられた木の葉のようにふわりと下へ落ちてゆき、娘の意識へと重なった。彼女の目を通して周囲を眺めると、そこが四方を塀に囲まれた庭であることがわかった。薬草や花にまじって雑木や雑草も無作為に生えている。

 金髪の娘はまわりの景色には目を配っていないようだ。彼女はひどく腹を立てていて、意識を重ねているアデルにもそれがひしひしと伝わってくる。

 ローブの人物はこちらに背をむけ、白いフリーデの花に手をかざしながら静かな声で答えた。

「秘匿しているわけではありません。古来より、私たちは表舞台には立たない存在だったのですよ。それに、むかしにくらべて純粋な血は薄れ、力を持った魔女は数が減りました」

 川のせせらぎのような優しい声音はしかし、烈火のごとく激した娘の心には届かなかった。

「ならばなおさら、表立つべきでしょう! 私たちが滅び去ったわけではないことを証明するために」

「なぜ証明しなければならないのですか?」

 語尾を荒げる娘とは対照的に、ローブの人物はあくまで冷静だった。裾をひるがえし、庭をゆっくりと歩きはじめる。しかしその凪のような風情が、皮肉にも娘をいっそう煽ることになってしまった。娘は肩を怒らせ、小走りで追いつく。

「忘れられないためにです!」

「忘れられるというのなら、それはそういう時代になったということなのでしょう。魔法の力は弱まり、廃れ、かわって人間の作り出した技術が人々を導く時代に」

「――ですが!」

「存在するものはいつかは滅びさるもの。たとえ人々が我々の力を必要としなくなったのだとしても、私たちは忘れることなく守りつづけていけばよいだけのこと。違いますか?」

「納得できかねます!」

「あなたの言いたいことはわかります。けれど、知っての通り魔法は誰にでも扱えるものではありません。魔女の御業みわざは血だけが連綿と伝えてきました。だからこその衰退ならば必然ではありませんか」

 娘はぐっと言葉につまった。怒っているというよりは、泣き出しそうにも思えた。激しい感情のさざめきがじかに伝わり、アデルのこころも激しく揺さぶられる。

 彼女はとても焦っているようだった。魔女である自己の存在がまるごと否定されるような気がして。

「あなたは力ばかりにこだわりすぎているのではありませんか? それだけが魔女の本質というわけではないでしょう。あなたはもっと、自分を愛するべきですよ」

「ですが師匠せんせい、私……、私は!」

 諭すのではなく噛んでふくめるような優しい口調に、娘は目を伏せ、激しくかぶりをふる。

 ――私にはこの力しかないのよ!

 そんなこころの悲鳴が聞こえた。魔女としての力は自分を肯定するための唯一の手段なのだ。それを否定されるのは我慢ならない。藁にも縋る思いで訴えたのに、師にまで見捨てられたような気がして、彼女は怒りと哀しみに身を焦がしている。

(でも、それはちがう)

 とアデルは思った。彼女が師匠と呼んだ人物は彼女を否定しているのではなく、むしろ力など関係ない己そのものを愛しなさいと言っているのだ。第三者の立場でながめているアデルには察することができたのに、なぜ当事者である彼女にはわからないのだろう。

(伝えられればいいのに)

 あなたはじゅうぶん、愛されているのだと。

 しかし完全に耳を閉ざしてしまった彼女には、どんな言葉も届かない気がした。力あるゆえの自負、誰も自分を理解することが出来ないのだという傲慢さは、娘の心に容易に壁を築き上げた。そしてそれは急激に冷え、かたくなに娘の本質を閉ざしていく。まるで氷のように。

(いけない)

 アデルは焦った。しかしその瞬間、ぐんと上へ引っぱられる感覚がして、娘の意識からアデルのそれが離れた。

(だめ、もうじき目が覚めてしまう)

 何かに気どられたのか、金髪の娘がはっとはふりかえる。その視線が――、

 足元にふたりの師弟を見下ろし、聴こえるはずもないと知りながらアデルは叫んだ。

(気づいて、あなたは……!)

 叫ぼうとして、目を開けた。

 覚えのある天井が視界に見え、アデルは自分が眠っていたことに気づいた。見回すと、自分の寝台の上だ。ノアが掛け毛布の上で身を丸め、すやすやと眠っている。閉めたカーテンの隙間から、朝の光が薄く差しこんでいた。

 ――誰かの夢を、見ていた気がする。

 だが、どんな夢だったか、なんの夢だったかももう思い出せない。ただ焦った感情の残滓だけが胸に残り、どくどくと脈打っている。

 なんだか、すごく良くない兆候のような気がする。アデルはうつむきそうになるのを堪え、顔を上げた。そして気合を入れるために、ぱんと両手で自分の頬を挟んだのだった。

「落ちこんでる場合じゃないわ。今日は、カレッサの家に遊びに行くんだから」


        *


 ――よかったら、私の店にも遊びに来てみない?

 と、カレッサ――先日店に客として来た若い魔女はアデルを誘った。歳の近い少女から招待を受け、アデルは使い魔をつれて勇んで家を出た。薬草屋の開店以来、はじめてのお休みである。

 肩掛けのカバンにおみやげを入れ、うきうきと弾む足どりで家を出たアデルだったが、

「羅針盤と風見鶏、羅針盤と風見鶏……」

 書いてもらった地図を何度も確認し、往来でううん、と首をひねった。

「こっちで合っているのかしら……。どう思う、ノア」

「ええと、さっき通ったのは万年筆通りでしたから、こっち、じゃないですかね」

 つぶやきに、肩に乗ったノアが困ったように応える。

 トロイメンは中央駅と広場を中心にして、放射状に外へ外へと広がる町だ。汽車で遠くから全景を眺めたとき、緩やかな丘陵により集まっている家々が、まるでおもちゃのように見えたものだ。

 急勾配の切妻屋根、木の枠組みとレンガ塀の家屋は昔から守られ続けてきたつくりらしい。全体が黄土色もしくは抑えたオレンジ色を基にした色調で統一されており、町としての外観はとても調和がとれている。だがそれは、よそから来た人間には家々の区別がつきにくいということでもある。まだ町の地理に慣れていないアデルとノアはさっそく道に迷い、立ち往生するはめになってしまった。

 地図によると、だいたい町の中心部から北にかけてを旧市街、南にかけてを新市街と分類するらしい。新市街は文字通り比較的新しい民家や商館が多く、旧市街は古いおもむきの建造物が数多く残っている。アデルが居候しているパトリシア師の家も、トロイメンの北部、旧市街の西寄りに位置していた。

「自覚なかったんですけど、もしかしてワタシたちって方向音痴なんでしょうか?」

 窓から窓に渡された紐にえんえんと洗濯物がぶら下がった裏路地の真ん中で、疲れたようにノアがつぶやく。

「……うん、わたしもなんだかそんな気がしてきた。だいたいわたしたち、いなかから出てきた人間だものね」

「たしかに、こんな大きな町、いままでに見たことないですしね」

 実家も叔母の家もどちらかといえば人口の少ない土地にあった。トロイメンほどの規模の町は、アデルとノアにとっては文字通り未知の世界である。

「とにかく、一度ひとの多い大通りに出てみよう。誰かに聞いたほうが早い気がするわ」

「そうですね。方向は間違ってないはずですし」

アデルたちが再び歩き出したとき、

「――ちょっと、そこのおねえさん」

 と、横手の路地から唐突に呼びかけられた。

 警戒心からアデルはびくりと体を竦ませる。厄介なことには関わりたくないと、ふり向きもせず足早に立ち去ろうとしたが、そこに慌てたような制止の声がかかる。

「あ、ちょっと待ってくれよ。そこの浮かない顔したおねえさん、あんたあんた、あんたのことだってば」

 背後から駆けよってきた誰かが、アデルを追いこして目の前に立ちふさがった。通せんぼされ、仕方なく立ちどまる。

 赤髪の巻き毛をした少年が、へらへらした愛想笑いを浮かべてこちらを見上げている。年齢は十三、四くらいだろうか。やや褐色がかった肌に、細身で小柄なひょろりとした体型。どこか生意気そうではあるが、美少年だった。鼻の頭に散ったそばかすがあどけない印象で、うまい具合に生意気さを緩和している。

 ひとつ奇妙に思えたのは、その「いでたち」だった。いまどき本物の魔女でも身につけないような裾の長い濃茶のローブに、先の尖った奇妙な靴を身につけている。頭に三角帽子がのっていないのはいっそご愛嬌だ。

「わ、わたしのこと?」

「そうだよ。くらーい顔しちゃってさあ」

 アデルの足もとでノアが不服そうに鳴いたが、少年は露ほども気にした様子はない。

(暗い顔……)

 自分はそんなに陰気な顔をしてつっ立っていたのだろうか、とアデルは落ちこんだ。

「なあ、あんた。ウチの店を探してるんじゃないの? そうじゃないんなら、もしかして迷子?」

「迷子……うん、そう、なのかも」

 勢いにのまれてこたえると、少年は我が意を得たり、とばかりに手を打った。

「じゃ、ちょっと寄り道していかない? 大丈夫、よく当たるって評判だからさ!」

「よ、よく当たる?」

「安心してよ、うちは良心的な店だから。表通りのインチキ占星術師とは違ってホンモノだから安心してくれていいぜ。なっ、なっ、寄って行こうぜ」

「ま、待って」

 強引な客びきに戸惑い、アデルはなんとかして逃げようと試みたが、少年の力は意外に強く、ふりはらえなかった。

「ごめんなさい、わたし、ほかに行くところがあって……」

「だーいじょうぶ、急がばまわれって言うじゃない。それに、きっとすぐにすむから!」

 少年にぐいぐいと背中を押され、すぐそばの民家のひとつに放りこまれてしまう。アデルの後を慌てて追ったノアの鼻先で、ばたんとドアが閉じられた。

「――アデル!」

「ね、ねえ、お願い。ちょっと待って」

 扉に阻まれた向こうから、自分の名を必死に呼ぶノアの声と、しきりにがりがりと爪を立てる音が聞こえ、アデルは焦ってふり返ろうとした。しかし、

「カレッサ姉ちゃん、お客さんつれてきたよ」

 少年のあげた声に、アデルはえっ、と顔を正面に戻す。名を呼びながら少年が家の奥に姿を消すと、たちまちひとりの娘が現れ、いらっしゃいませ、とアデルに向けて頭を下げた。

「待ってたわ、アデル」

「カレッサ!?」

「なーんだ、姉ちゃんの客だったのか。そのひと、家の前で迷ってたんだぜ」

 アデルが目を瞠っていると、奥からさきほどの少年らしき声が聞こえてきた。どこかからかうような物言いに、あら、とカレッサが首を傾げる。

「本当? この場所、そんなにわかりにくかった?」

「ううん、そうじゃなくて。たぶんわたしが方向音痴なだけ」

「そうなの? まあいいわ、さあ奥に入って。メリー、お客さまにお茶の用意をしてちょうだい」

 メリーというのが先ほどの少年の名前なのだろう。奥からすぐに「はーい」と元気な返答があった。

「さあ、遠慮せずに奥に入って」

「待って、カレッサ。お呼ばれしたからおみやげを持ってきたの。よかったら――」

「あら、気を使わなくてもいいのに」

 慌てたアデルがカバンからハーブ入りの茶葉の袋をとり出すと、カレッサは目を瞠った。だがすぐに笑顔を浮かべ、両手で袋をうけとってくれる。

「でも、うれしいわ。ありがとう。あとでいただくわね」

「うん」

 よかった、喜んでもらえた。とアデルはひそかに胸をなでおろす。なにせ、歳の近い女の子の家に招待されるなんてはじめての経験で、どんなものを持って来ればいいのかずいぶん悩んだのだ。

 ほっとしているあいだにカレッサに手をとられ、アデルは薄い紗のカーテンが幾重にもぶら下がった部屋に通された。入るなり、ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐった。室内は天井から吊り下げられた布によって視界が遮られ、ずいぶん狭く感じられる。

 ふと、はぐれたノアのことを思い出し、急に心細くなったが、今さら言い出しにくかった。

(ノアはしっかりしてるから大丈夫だと思うけれど)

 部屋の中央にはカーテンと同じ色のクロスが掛けられた小さなテーブルと、椅子が三脚並んでいる。テーブルには四足の小さな台が設けられ、その上に陶器の壷が乗せられていた。かすかに白い煙がたなびいていることから、それが香を焚くものであることがわかる。甘い香りの発生源はそれだったらしい。おそらく鎮静効果のある数種の香を混ぜて焚いているのだろう。

「ここに腰掛けて」

 椅子のひとつに、カレッサに命じられるままアデルは腰を下ろす。座ったとたん、緊張の糸が緩んだのか、体のこわばりがとけた。先ほどよりもずいぶん落ち着いた気持ちで、正面に腰かけたカレッサを見つめる。

「さて、はじめるわよ」

 おもむろに、彼女は切り出した。アデルは占術には水晶球や占い札が必要不可欠だと思っていたが、カレッサは触媒となる道具を何も使わないようだった。ただじっとこちらの瞳を凝視してくるだけだ。

(この子、直接〈星〉が読めるんだ……)

 それはつまり、カレッサが血によって受け継がれる「本物の魔女」だということだ。

 努力で得た知識ではなく、もともと身に備わった才能。アデルが望んでも、決して持ちえないもの。

(……いいな)

 羨ましさに、つきんと胸が痛む。

 カレッサの瞳の緑が、すうっとガラス玉めいて淡くなった。――と思うやいなや、突然そのくちびるから、明らかに若い娘のものとは違う、しわがれた老婆のような声が漏れ聞こえてきた。

『汝が欲するもの、手にするは近きことなり。されど、望みを手に入れるためには試練が必要となる。行くてには石。人形には注意せよ』

 ――人形。

 ぞくりと背筋が寒くなる。

 アデルは理由のわからない恐怖に駆られ、椅子から腰を浮かしかけた。しかしその腕を、正面に座るカレッサが驚くべき力でつかむ。ぎり、と手首がきしみ、アデルは思わず顔をしかめた。

「い、痛っ……」

『同胞が汝を助け、真実をつぐむ隠者が汝を頼る。また、汝を欲する囚われ人が石の牢にて沙汰を待つ』

 苦痛に顔をゆがめるアデルにはかまわず、カレッサは何者かに憑かれたように淀みなく言葉をつむぐ。

『魔女らしくあれ、汝が夢に真実の破片が宿る。恐れず進め、同胞の切なる想いに触れよ。さすれば人形によって永劫の石は砕かれ、汝は哀しみの淵に沈む魔女――』

「カレッサ、は、離してっ!」

 恐怖と苦痛に、たまらずアデルが悲鳴を上げた瞬間、驚いた赤毛の娘ははっと我に返り、アデルの腕を開放した。互いに足元からくずおれ、ふたりは同時に椅子に腰を落とす。

「アデル、無事ですか!」

 部屋の中に白い影が飛びこんで来て、アデルの名を呼んだ。どうにかして侵入を果たしたらしいノアは瞬時にあるじの姿を見出すと、すぐに膝のうえに飛び乗った。動揺して体を震わせているアデルは何も答えられず、そのぬくもりにすがるようにノアを抱きしめる。

 カレッサは痛むかのように頭を押さえていたが、アデルを見つめ、苦笑しながら肩をすくめた。

「なんだか怖がらせちゃったみたいね?」

 アデルは無言で首をふった。

「ごめんなさい、私の『星読み』はあくまで視えたものの断片をそのまま相手に伝えるだけなの。自分が何を言ったのかも覚えていないのよ。無責任かもしれないけど」

「……ううん」

「視ようと思えば過去ものぞけるけど、相手の断りなしには視ないようにしているから安心してね。それに、どうやっても、起こってしまったことは変えられないし」

「…………」

「だから私が視たのはあなたの未来の一部。でも、恐れないで。今この瞬間からでさえ、あなたは自分の道を変えられるから」

「いま、この瞬間から?」

 カレッサはうなずいた。

「そう、この瞬間からよ。――だからね」

 ぱっと立ち上がり、彼女はアデルに向けて自分の手を差し出した。

「今度はあなたのことを直接話して聞かせて。あなたがどんなひとなのか、どうしてこの町に来たのか、好きなものも嫌いなものも、なんでも」

 おいしいお茶でも飲みながらね、とカレッサは言い、片眼をつむってみせたのだった。


        *


「なるほど、それは大変だったわね」

 アデルがこれまでの経緯を説明し終えると、カレッサはけらけらと闊達に笑った。

笑いながら、奥でメリーが準備したらしい菓子やミルクのポッド、不揃いのカップなどを素早く、かつ品よく並べていく。その鮮やかな手つきを、アデルの膝の上に座るノアが感心したように見つめている。

「身内のみならず、町へ来たら来たで見たこともない師匠に放り出されるなんて、なんだか本当にたらい回しじゃないの」

 ずけずけと遠慮のない物言いのためか、なぜかかえって嫌味を感じさせない。からりと笑い飛ばされると、なんでもないようなことに思えてくる。

「そうなの。これってどう考えたって厄介払いでしょう」

「お気の毒に」

 カレッサはいかにも芝居がかった仕草で膝を折った。

「でも、へこたれなかったのは凄いわ。それに、いまのアデルは誰からも自由じゃない」

「自由……」

 アデルは目を瞬いた。自由。そうか、そういう考えかたもあるんだ。

(自由だなんて、思ったこともなかった)

 カレッサが主人に危害を加えるような人間ではないと判断したようで、ノアがアデルの膝の上で丸くなった。おとなしくしているその背を、アデルはやさしく撫でる。

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」

 慣れた手つきでポットから湯気の立つ乳白色のミルクを注ぎ、カレッサがアデルにカップを差し出す。ありがとうと礼を言って受けとり、鼻先を近づけるとかすかに甘い匂いがした。

「わぁ、いいにおい」

「ふふん、そうでしょう。特製の蜂蜜入りミルクよ。気分が落ち着くわ」

 歓声を上げるアデルに、カレッサは得意げに胸をはった。カップをかたむけ、ミルクで喉を潤す。

(……おいしい)

 温かいミルクがじんわりと胸に広がり、アデルは急速に自分の心がほぐれていくのを感じる。

「ああ、よかった。やっと笑ってくれた」

ごく自然に唇をほころばせたアデルを眺め、カレッサは目を輝かせて手を叩いた。

「え?」

「だって『星読み』したあと、アデルったらずうっと暗い顔をしてるんだもの。もしかして、すごく余計なことを言っちゃったのかしらって心配してたのよ」

 自分のカップにもミルクを注ぎいれながら、カレッサは笑った。ひそかに気を遣わせていたことを知って、アデルは恥じ入ってうつむく。

「ごめんなさい」

「あら、謝ってほしいわけじゃないのよ。強引に誘ってしまって悪かったわ」

 アデルは首をふった。

「ううん。わたしも誘ってもらえてうれしかったもの」

「この町に新しい魔女なんて、もうやってくることはないと思っていたの。だってみんな、〈石の目の魔女ローセリナス〉を恐れてこの町から離れてしまったから」

「ロー……なに?」

 アデルがきょとんとした表情で訊きかえすと、カレッサは心底驚いたように目をみはった。

「えっ? アデル、あなたまさか、『例の魔女』のこと誰からも何も聞かされていないの?」

「誰からも? なんの話?」

 おそるおそる訊ねると、カレッサは眉をしかめ、嘆息とともに言葉を吐き出した。

「うそ。まさか、ほんっとう――に知らないなんて。道理でのほほんとしてると思ったら」

「ご、ごめんなさい」

 ずけずけと言われ、わけがわからないまま謝る。身を縮めるアデルに、言いすぎたと悟ったのか、カレッサは口調を少し和らげた。

「こっちこそごめん。怒ったわけじゃないのよ。ねえ、アデルはこの町の別名は知ってる?」

 唐突に、頭に「魔女の町」という言葉が浮かんだ。あれはたしか――そうだ、ソルジュが言ったのだ。

「もしかして、魔女の町?」

「そうよ」

 なんだ知っているんじゃないの、とカレッサが拍子抜けしたようにつぶやいたので、アデルは慌てて首をふった。

「ひ、ひとがそう呼んだのを聞いたの。でも、ここに来るまでトロイメンのことは名前しか知らなかったのよ」

「そう。むかしはね、トロイメンには大勢魔女がいたの。それこそ細い裏通りで石を投げれば必ず魔女に当たるってぐらいにね」

「そんなに? むかしってことは、今は違う?」

「違うわ。今はもう、『本物』は片手にも満たない。私とあなたを含めてもね。この数年間に、ほとんどいなくなっちゃったから」

「いなくなったって、どうして?」

 相対的に、純粋な血統を持つ魔女がどんどん少なくなっていることはアデルも知っているが、カレッサの言っているのはそういうことではないとわかった。

 カレッサはあたりを憚るように音量を落とした。

「この町の魔女がいなくなった原因が、さっき言った『ローセリナス』、魔女の古語でいう〈石の目の魔女〉にあるのよ」

「石の目の魔女?」

「しっ。もっと小さな声で。『魔女の名ひとつ唱えるときは、なべカマ暖炉にふたをしろ』って言うでしょ」

 カレッサは魔女の古いことわざを引用してアデルを嗜めた。

 名前とは本来、それだけで強い拘束力を持つ呪文になる。だから、赤の他人にみだりに教えてはならないし、安易に口にしてもいけない。力のある魔女なら、たとえ千里離れていても自分の陰口や噂話を聞きもらさぬものだからだ。

 つまり〈石の目の魔女〉も、名を呼ぶ際の危険を少しでも軽減するための通り名であり、本当の名ではないのである。

「〈石の目の魔女〉はこの町の生まれで、十七歳のときにひとりの魔女に弟子入りしたの。もともと彼女はすばらしい才能の持ち主だったけれど、あるときその師匠と意見を違え、離反してしまったんですって」

「離反……?」

「そう。それからよ、〈石の目の魔女〉が無差別にほかの魔女を襲って、力を奪うようになったのは」

「襲って、力を奪う?」

 不吉な響きに、膝の上で聞いていたノアもびくりと体をこわばらせた。

「そう。具体的にどういう方法でそれを行ったのか、私は知らないけどね。そのせいで、何人かは本当に力を喪失したし、残った魔女は〈石の目の魔女〉を恐れてほとんどが町から出て行ったの。今から三年ぐらい前の話よ」

「最近なのね」

 アデルはごくんと唾を飲みこむ。

「それで、〈石の目の魔女〉はどうなったの?」

「弟子を止めようとした彼女の師匠と争って、敗れた。死んだとも、魔女の力のほとんどを失ってどこかへ去った――とも言われてるわ」

「言われてる?」

 カレッサはこちらに顔を近づけ、さらに声を低めた。

「本当は生きていて、今もトロイメンのどこかに潜伏してるらしいの」

「ええっ」

 驚いたアデルをカレッサは慌てて「声が大きい!」と諌め、落ちつかない様子できょろきょろと周囲を見回した。

「今もトロイメンに残ってる魔女は、私も含めて〈石の目の魔女〉ほど強くないの。いつ襲われて魔女の力を奪われるかわからないから、警戒は怠らないわ。私も一応、家に護符を貼ってるしね。あなたの師匠の家にも魔除けの術が掛けられてなかった?」

 そういえば、玄関の扉にそれらしき紋様が彫られていた。魔女の家だからだとさして気にも留めていなかったが、あれは特定の危険を想定したものだったのか。

 すっかり青ざめてしまったアデルに、安心して、とカレッサはいたずらっぽく笑った。

「だからこの町にはね、いたるところに〈石の目の魔女〉から身を守る、あるいは隠すための術が施してあるの。ちなみに、それを施したのがあなたの師匠よ」

「師匠が!?」

 一瞬、腰を浮かしそうになった。膝から転げ落ちそうになったノアが慌てて服にしがみつく。

「そう。それからもうひとつ。〈石の目の魔女〉が離反した師匠っていうのが、誰あろう、そのパトリなのよ」

「ええっ、本当なの?」

(つまり、〈石の目の魔女〉は私の姉弟子ってこと?)

 とはいえ、アデルはまだ正式にパトリシアの弟子になったわけではないから、姉弟子と呼ぶのもおかしいかもしれない。

「事実よ」

「じゃあ、師匠が姿を消したのにも何か関係が……」

「ありえるわね。もしかしたら、〈石の目の魔女〉がらみで何かあったのかもしれないわ」

 アデルはようやく事情を理解した。師が突然姿を消した理由。背景にそんな事情があったなんて。ノアを膝に抱え、アデルは椅子に座りなおした。

「師匠は、ご無事でいらっしゃるのかしら」

 ぽつりとひとりごちたアデルの手を、カレッサは励ますように軽く叩く。その仕草は親しげで、アデルは少しだけ心が慰められたような気がした。

「気を落とさないで。まだ何かあったと決まったわけじゃないのよ。パトリが行方をくらませたのも、あなたを危険に巻きこみたくなかっただけかもしれない」

 アデルはうなずいた。

「カレッサは……」

「うん?」

「カレッサはどうしてトロイメンを離れなかったの? そんな恐ろしい魔女が今もどこかに潜伏しているかもしれないのに」

 ためらいながら疑問を口にすると、カレッサは困ったような微笑みを浮かべた。

「私は生まれも育ちもトロイメンだし、ほかの土地を知らないの。親はもうずいぶん昔に死んじゃったけど、一応〈星読〉で食べていけるようになったしね。それに、弟だっているし」

 そう、とアデルはつぶやいた。彼女にもいろいろ事情があるのだろう。自分が親元からこの町に送られたのと同じように。

「そういうわけだから、この町に来た魔女は私にとっても大切な仲間なの。困ったことがあったらいつでも相談して」

 たとえそれがたんなる気遣いだったとしても、アデルには『仲間』の一言が嬉しかった。ふと思う。もしかしたらこの街へきて初めて、友達がひとりできたかもしれない、と。

「いろいろと、ありがとう」

 片目をつむり、どういたしまして、と愛嬌たっぷりにカレッサは言う。

「あ、そうだ。早速なんだけど、ひとつ教えてほしいことがあるの」

「なあに」

「カレッサは、〈英知の館〉というものを知ってる?」

 カレッサが少し驚いたように目を瞠ったので、アデルは慌てて言葉を付け加えた。

「師匠から渡された紙切れに書かれてあったの。もしかしたら手掛かりになるかもしれないと思って」

「あそこはね、喩えるなら夢のようなところよ」

「夢のような……?」

 カレッサの言っているのは、幸福感をともなった比喩的な表現ではなく、もっと直接的な言葉なのだとアデルにはわかった。

「館はこの世のどこにもない場所にあるの」

「この世のどこにもないって……どういうこと?」

「そこでは時間という概念がなく、またどこという決まった場所にあるわけでもない。必要としている魔女のもとにあらわれ、必要でないもののもとには決してあらわれない。それがどんな用途であっても」

「……どんな用途?」

 カレッサはただうなずいた。

「何百年、連綿とつづく魔女たちが技術と知恵の粋を集めてつくった図書館、それが〈英知の館〉よ」

 アデルはおうむ返しに言葉をくり返した。「図書……館?」

 なぜだろう、また胸が不安でざわざわとしてきた。

「つまり、この町のどこかにあるわけじゃないのね?」

「ないとも言えるし、あるとも言えるわね」

 まるで謎かけのようだ。アデルが膝の上のノアと顔を見合わせていると、カレッサが指でアデルの胸元を指さした。

「あなたが本当にその場所を必要としているなら、英知の館はおのずとその扉を開いてくれる。だからそれまでは待つほかないわね」



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