第二章 おもちゃ職人ブルーノ


「『われ、の名のもと……に、ふるきめいやく、を結び、なんじをわ、が……とも、として、かりそめの命をあた、わん』」

 古語で書かれた書物を片手に、少女はたどたどしい発音で呪文を唱える。

 まじないに使う道具はすべてそろえ、正しい手順を踏んだはずだった。しかし、一向に術が成功した様子はない。

 うごけ、うごけ、と必死で念じながら、描いた紋様の上に置いた人形を凝視する。派手な黄色の星模様がついた、赤地の服。とがった先がくるりと丸まった靴をはいたピエロの人形は誕生日に父から贈られたもので、一番のお気に入りだった。

 だが、どれほど懸命に念じても、卓上に足を崩して座るピエロの人形は微動だにしなかった。

 試みていたのは無機物を〈使い魔〉にする魔法だ。本来、魔女の忠実な従者となる使い魔は、ふさわしい時期に師匠から与えられるものなのだという。しかし、生憎と自分の魔法は独学で、使い魔を授けてくれるような師も存在しない。だから自分で作り出すほかなかったのだ。

(……ああ、やっぱりむりだ)

 深々と息を吐き出し、念じるのをやめた。腕を枕にして卓につっ伏す。

 やはり独学で学ぶには限度があるのだろうか。自分に教えを授け、導いてくれるような誰かがいれば――。

(でも、いないものはいないのよ)

 そうだ。だから自分でなんとかするしかない。

 頭痛をこらえるように目をつむっていると、何かがつんつんと自分の髪をひっぱる感覚があった。

(…………?)

 気のせい、ではない。がばっと起き上がると、目前にピエロの小さな顔があった。絶句して口をぱくぱくさせていると、小首をかしげてのぞきこんでくる。

「で、できた……」

 ――動いている!

 喜びに顔を輝かせた瞬間、ぐん、と頭皮が引っぱられ、顔をしかめた。よく見ると、なぜか人形は手に、自分の髪のひとふさをつかんでいる。

「いたっ。やめて」

 叱りつけても、まったく聞く耳をもたない。どうやら魔法の腕が未熟であったために、思考能力の低い使い魔を作り出してしまったようだ。

「こらっ! だめよ!」

 ますます調子に乗ったピエロに自慢の髪を数本引っこ抜かれ、ついに堪忍袋の緒が切れた。

 バン、と強く机を叩くと、驚いたようにピエロの人形が飛び上がる。すかさず、

「聞きなさい! あなたはお人形なの。動けるようにしてあげたのはこのあたし。だから、あなたはあたしの言うことを聞かなくてはダメ。わかった?」

 強い口調で説得すると、ピエロの人形はふしぎそうに首をかしげ、にんまりと笑ってみせた。なんとなくだが理解したらしい。

「いい? よーく覚えておきなさい、あなたの主人はこのあたし。あたしの名前は――」



「――アデル!」

 名前を呼ばれ、アデルははっと目を覚ました。慌てて伏せていた顔をがばっと上げると、そこには自分を心配そうにのぞきこむノアの姿があった。

「おはようございます。もう朝ですよ」

「あ、え、ノア……?」

 朝?

(いまのは、夢だったの?)

 いや、そもそもどんな夢を見ていたのだったか。必死に思い出そうとすればするほど、指の間からこぼれ落ちる砂のように、はらはらと記憶の断片が消えていく。

 だが、やけに現実的な、生々しい感触のある夢だったような気がする。

 見慣れない部屋の内装に、一瞬自分がどこにいるのかわからず、思考が混乱する。ややあって、ようやく昨日の記憶がよみがえってきた。

(そうだ、エスニダ叔母さんの家じゃなかったんだ……)

 知らない町に来たとたんわけのわからない事態に遭遇し、ようやく目的地にたどり着いてみれば、そこはもぬけのから。実母には見捨てられ、叔母にも匙を投げられ、新天地では顔も知らない師に放り出された。

 すっかり脱力して椅子に座りこみ、混乱したこころを落ち着かせるため机に顔を伏せ、色々と思い悩んでいるうちにそのまま寝入ってしまったのだろう。枕にしていた両腕が完全に痺れている。

「おはよう、ノア。ごめんなさい、いつの間にか眠っていたみたい」

「仕方ないですよ、昨日は色々と大変でしたし。……大丈夫ですか?」

「うん、もう平気。落ち着いたわ」

 気づかう彼女に微笑みかけると、ノアは安堵した様子で胸をなでおろした。卓上に二本足で立ち、どんと前脚で胸を叩く。小さくても頼もしい、無二の友だ。

「こんなときぐらい頼りにしてください。アデルにはワタシがついているんですからね」

「そうね。ひとりじゃないんだもの」

 正直なことを言うと、これからどうすればいいのか見当もつかなかった。だが、だからといって落ちこんでいてもどうにもならない。

 新しい土地でノアと二人だけの暮らしをすることに不安がないと言えばうそになるが、自分を変える絶好の機会になるかもしれない。

「何からはじめましょうか、アデル」

 むしろうきうきとしたノアの問いに、アデルはぐるりとまわりを見わたす。しばらく無人だった部屋はすっかりほこりっぽくなっていた。そうだ、まずは。

 アデルは勢いよく立ち上がった。

「そうね、顔を洗ったら、まずはお掃除!」


 玄関奥にある扉を開けるとそこは廊下で、井戸のある台所、トイレ、風呂場などの部屋に続いていた。入ってすぐの階段を上ると二階にも扉が四つある。

 ひとつは研究室――もしくは作業室であろう、机と本棚のある部屋。扉を開けて驚いたことに、天井からは乾燥させた薬草の束が無数にぶら下がっていた。本棚にはアデルには読むことも難しい魔法書ばかりが並んでいたが、大きな作業机には乳鉢や秤、分銅や無数のガラス瓶など、薬草の調合に使う道具もきちんとそろっていた。

 ふたつは寝室。たぶん片方が師の、もう一方がアデルのために用意された部屋なのだろう。だがどちらも必要最低限の家具以外に私物らしい私物がなかったため、どちらが自分に与えられたものかわからなかった。迷いに迷ったすえ、日当たりの良いほうを選び、持ってきた荷物をそこへ運びいれた。

 そして残った最後の扉。これが問題だった。

 その扉は他の三つの部屋とは違い、表面に複雑な紋様が刻まれていた。そして、なぜか押しても引いても叩いても、いっこうに開かなかったのである。

「だめだわ、びくともしない。この紋様、たぶん封印の魔法かなにかね」

 ためしにノアが爪を立ててみたが、扉の表面には傷ひとつつかなかった。木でできているにも関わらずだ。

「〈開かずの間〉だなんて、いかにも魔女の家らしいですねえ。まあ、おかしなものでなければいいんですけど」

 短くなってしまった爪を憐れっぽく眺め、ノアはそう言って首をふった。

謎は残ったものの、家具や食器、そのほか生活に必要な細々とした物はそれぞれの部屋にあり、ありがたいことに半地下の物置兼貯蔵庫のなかには日保ちする食料――乾燥させた肉やチーズ、茶葉やワイン、それから香辛料の類――がふんだんに用意されていた。

「とにかく、当分は飢え死にする心配だけはしなくていいみたい」

「そりゃあ無責任に放り出して行かれたんですから、食料ぐらい用意してもらわないと困りますよ」

「文句は言わないの。わたしたち、もともとこの家に居候するはずだったんだから」

 階段下の物置に掃除用具一式を見つけ、アデルはさっそく頭に布をまいて腕をまくった。家中の窓をかたっぱしから開き、まずは風を通す。

「うう、それはそうですけどぉ……」

 アデルがうっすらとほこりの積もった床を箒で掃き、雑巾を前脚でつかんだノアがその後を磨いていく。

「でも、このまま何もしないわけにはいかないわ。町で暮らしていくんだもの。先生がいつお戻りになるかもわからないのだし」

「本当に戻ってくればいんですけどね」

 ノアは苛立ったように鼻を鳴らした。床磨きをしているせいで自慢の毛並みが汚れ、たいそうご機嫌ななめのようだ。ひげを垂れて、尻尾をくるくると回転させている。

「うう、いっそ部屋をぱあっと魔法できれいにできればいいのにぃ」

「そういう魔法もあるけどわたしには使えないわ。いいじゃないの、体を動かしているほうが余計なことを考えずにすむし」

 木桶の汚水を捨てようと、アデルは家の裏にある庭に出た。

 魔女の家にはどこも必ず、薬草を植えるための庭がつくられる。魔女にとって薬草とは知識であり、知恵であり、技術であり、秘匿そのものでもある。どんな見習い魔女も、まずはじめに学ぶのが薬草術だ。

 はたして家の裏には、高い煉瓦塀に囲まれた小さな庭があった。

「よいしょっと」

 庭の隅にバケツをひっくり返して濁った水を捨て、アデルはぐっと腰を伸ばした。普段あまり使わない筋肉を使ったのであちこち痛むが、その疲労が心地よくもある。何より気分もだいぶすっきりした。

 敷地の上をゆるやかな風が流れ、緑とぬくもった土の匂いがふわりと立ちのぼる。あたたかい午前の光に目を細め、アデルは周囲をおだやかな気持ちでながめる。一見、雑草ばかりが無造作に繁殖しているようだが、よく観察してみると、あちこちに薬草の類がまだひそかに息づいているのがわかる。

 ミント、タイム、カモミール、サントリナ、ローズマリー、ワレモコウ……見慣れたハーブたち。急速に記憶のふたが開き、もう何年も目にしていない生家が脳裏にありありとよみがえった。庭に咲いた草花。母が植えたハーブの鉢植え。家のそばの麦畑、近隣の村へ続く銀杏並木、煙突からたなびく白い煙、焼けたパンの匂い……。

(お母さん、元気かな)

 エスニダ叔母さんもどうしているだろう? 暮らしが落ちついたら、手紙を書かなくちゃ。

 望郷の念がふいに湧いて、アデルはその場にしゃがみこんだ。土の上で可憐に揺れている花に、無意識に手を伸ばす。白い六枚花弁の花は、ああ、フリーデだ。

 その花を見た瞬間、アデルの脳裏にぱあっと光のようなものが閃いた。

「ノア、薬草よ! 薬草があるわ!」

 勢いよく立ち上がり、突然叫んだアデルに、そばにいたノアが驚いてびくりと跳ねた。

「え、ええ。そ、そうですね……?」

「どうして気づかなかったのかしら。答えはずっと目の前にあったのに」

 興奮し、アデルは使い魔の白猫を両腕に抱きあげる。視線が合うように、目の位置まで高く掲げた。

「な、何がです?」

「先生の手紙にもあったじゃない、『この家にはあなたに必要なものをすべてそろえました。なんでも好きに使って下さい』って」

「え、ええ」

「ねえ、それに、思い出してノア。玄関の扉の上に看板があったじゃない。《魔女の薬草屋》って」

「……あっ!」

 ようやく思い至ったというように、ノアも声を上げた。魔女と使い魔は目線を交わしあい、にっこりと笑いあった。

「そう、わたし、薬草のお店を開けばいいのよ!」



 やるべきこと、できることが見つかった。

 目標ができたたん、ふしぎなほど気力がわいてきた。自分でもどこにこんな力があったのかと驚くほどだ。アデルとノアは精力的に動き、あっという間に家のなかを掃除し終えた。

 次に作業室から乾燥した薬草の束を下ろし、胃腸薬や熱さまし、安眠をもたらす薬などを調合した。わからないことは本棚にある調合書、師匠の直筆と思しきノートを確認すればすぐにわかった。食料庫にあった茶葉にハーブを加え、ハーブ入りの焼き菓子を焼き、サシェを作り、ノアとともにあれこれ考え、思いついたことは端から試してみた。

 なんといっても、誰かの叱責や失敗を恐れる必要がないのは大きかった。何をしていても楽しく、疲労がまったく気にならないほどだ。充実しているとは、きっとこういう状態のことをいうのだろう。

「でも、ねえノア、ふしぎだと思わない?」

 乾燥ハーブを保存しておくためのガラス瓶を磨きながら、アデルは言った。カウンターの上で値札に肉球スタンプを押しながら、ノアが聞き返す。

「何がです?」

「師匠はまるでどんな弟子が来るかわかっていたみたいじゃない。必要なものがこんなに何もかもそろっているなんて」

「そういえば、そうですね」

 ノアは首を傾げた。

「でも、薬草学は魔女の習いの基礎ですから、どんなに出来の悪い弟子が来ても薬草の店ぐらいはできると思ったんじゃないですか?」

「で、できの悪い……」

「あっ、アデルのことじゃなくて」

 がっくりと主人が肩を落とすと、ノアは慌てて両の前足を振った。

「いいの。できが悪いのは本当のことだもの」

 たしかにノアの言うことにも一理ある。だが、従姉妹のメニエルのように、魔女の血の才能は開花させていても、座学は嫌いでさっぱり覚えないという例外もあるのだ。それに、癒しの手を持つ魔女や占術が得意な魔女、本物そっくりの幻術をつくれる魔女など、それぞれの血が持つ特性もちがう。才能ではなく、勉学のみで得意分野と呼べるものを持つアデルのほうが、むしろ純血の魔女としては異端なのだ。

(わたしがどんなに落ちこぼれなのか、お母さんか叔母さんが師匠に伝えたのかもしれない)

 むしろそう考えるほうがしっくりくる。ため息をつきそうになったとき、もしかしたら、とノアが言った。

「もしかしたら、アデルがどんな魔女なのか、知ってらっしゃるのかもしれませんね」

「え?」

「だって、パトリシア師匠は偉大な魔女なんでしょう。ご存知だったのかもしれませんよ」

「そうか、そうね……」

 アデルがどんな人間なのか知っていて、ひとりでも大丈夫なように準備してくれた。もし、本当にそうなら。

(そうだったら、いいな)

 まだ見ぬ師匠に思いを馳せ、アデルはサシェの袋に小さなリボンを縫いつけた。

 ノアと協力し、秤やガラスの瓶、籠や敷物など店に必要なものを少しずつ運びこみ、商品を並べて値札をつける。閉じられていた窓とカーテンをすべて開き、窓辺には鉢植えのハーブを飾った。最後に、物置から見つけた不要な木の板に穴をあけてひもを通し、塗料で大きく「開店中」と書いた。

 玄関の扉を開け、周囲に誰もいないことを確認して、どきどきしながら玄関扉のドアノブに掛ける。ばたんと急いで扉を閉め――、アデルはふうっと大きく息をついた。

「……よし」

「完成ですね」

 カウンターに座るノアと顔を見合わせ、満面の笑みを浮かべる。

「できた! できたわ、ノア!」

「ええ、やっと終わりましたね!」

 ひとりと一匹、手に手をとって喜ぶ。おとななら、ワインのひとつでも開けて乾杯するところだが、その場でぴょんぴょん跳ねるだけにとどめた。

「お客さんに来てもらうためには宣伝が必要なんでしょうけど、それはおいおい考えていきましょう」

「そうね。店ができたらそれで終わりってわけじゃないのよね」

 むしろ本番はこれからだろう。やり遂げたという興奮があっという間にしぼんでいくようだった。

「お客さんを呼びこむってどうすればいいのかしら」

「看板とか広告……ですかね。いっそ大通りに出て直接ひとを客引きしてくるとか」

「そ、それはちょっと無理かも」

ああだこうだと言い合っていると、ふいにリン、と店の呼び鈴が鳴った。アデルとノアは思わず顔を見合わせる。

「……もしかして、もうお客さんが来た?」

「まさか。たった今開店したばかりですよ」

「そうじゃないなら、師匠が帰って来たのかもしれないわ」

 ぴんと思いつき、アデルの顔が喜びに輝いた。店の扉を開けようとし――急いで部屋のほうへと駆けもどった。自分の身だしなみが気になって慌てて姿見を探したが、どこにも見当たらない。

 そういえば、あちこち部屋を見て回ったのに、鏡は一枚もなかった気がする。どうしようかと迷っていると、リン、と急かすように再び呼び鈴が鳴った。

 アデルはとりあえず頭にかぶったほこり除けの布だけをはぎ、髪を手櫛でとかした。

「は、はい! いま出ます、いらっしゃいま……」

 焦りつつ扉を開けると、はたしてそこには見知った顔があった。

「あ、あなたは……」

「やあ。ご機嫌いかがかな」

 ――完全に予想外だったその訪問客は、ソルジュと名乗ったあの青年だった。


        *


 アデルが絶句しているのとは対照的に、彼は迎え出た人間を見ても少しも驚いた様子はなかった。まるで最初からアデルがここにいると知っていたようだ。

「ソ、ソルジュさん?」

「おや、名前を覚えていてくれたとは光栄だね。でもおれのことは『ソルジュ』でかまわないよ」

言いながら、勝手知ったるという態度でずかずかと店にあがりこんできた。

「おお、ずいぶん店らしくなったじゃないか」

どうやら昨日のカラスはつれていないようだが、ノアは彼の姿にぎょっとし、警戒心で毛を逆立てた。

「ど、どうしてここに?」

「新しい店ができたって聞いてね、ぜひとも訪ねてみようかと思ったのさ」

 店をぐるりと見渡し、ソルジュは飄々と嘯いた。当然のことながら、たったいま完成したばかりの薬草屋のことなど、この町ではまだ誰にも知られていないはずだ。

「聞いて? お客がまだひとりも来ていない店のことなど、どうやって知ったんです?」

 不信感むき出しで聞くノアに、ソルジュはにっこりと笑う。

「うん、だからおれがそのお客さん第一号」

 ノアは呆れた、とばかりに目を大きくした。

「よくもまあそんなにぺらぺら口から出まかせが吐けますね! アデル、こんなやつさっさと追い出しましょう。早く塩まいて、塩」

「ノア!」

 言いすぎよ、とアデルが内心焦りながら使い魔をにらむと、彼女はプイとそっぽを向いた。ソルジュがどこか面白がるような様子でアデルに向き直った。

「おれ、きみの猫になにかしたかな?」

「い、いえ。とんでもありません」

「ねえ猫ちゃん、きみの名前を教えてもらってもかまわないかな?」

「なんでもご存知なんでしょう、当ててみたらどうですか。ワタシの主人の名前を当てたときみたいに」

 胡乱げな目つきでノアが吐き捨てる。

「残念ながら、おれは『千里眼』の持ち主じゃなくてね。なんでも知ってるわけじゃないんだよ」

「へーえ」

「ノアったら、やめなさい」

 あまりに不遜な態度にアデルははらはらする。

「『ノア』、ね。どうにもおれのことが気に入らないって顔だけど」

「ワタシはなれなれしい男は好かないんです」

「おやおや。おれがきみのご主人様に不埒なまねをしないともかぎらないから?」

 言いながら、からかうようにアデルの肩に手をまわしてきた。びくっとして逃れようとしたが、逆に引きよせられてしまう。とたんにノアはしっぽをふくらませ、噛みついてやるとばかりに牙をむき出しにした。

「だめよ、ノア!」

 慌てて叱咤すると、ノアはしぶしぶ牙をおさめる。しかしよほど悔しかったのか、顔をそむけたまま店から出て行ってしまった。完全にへそをそまげた様子にアデルは肩を落とし、ソルジュはくすくすとおかしそうに笑った。

「ずいぶんと使い魔に愛されてるなあ、きみは」

「すみません。わたしが世間知らずだからよけいにノアが過保護になってしまって」

「世間知らず、ね」

 ソルジュがぱっと手を広げてアデルを開放したので、ほっとした。からかわれているだけだとわかっていても、さすがによく知りもしない異性にべたべたされるのは少し怖い。

 あからさまに体の緊張を解いたアデルに、ソルジュはごめんよ、と謝った。

「からかいがすぎたな」

「いえ……」

 基本的に、人と接することが苦手だ。だが自分でも、他人に対する警戒心が強すぎるとも思う。今後この町で暮らしていくなら、直さなければならない癖だ。

「ひとつ、種明かしをしよう。おれは本当になんでも知ってるわけじゃないんだ。おれが知っているのは、以前ここに住んでいた魔女のこと。そして彼女のもとに新しい弟子が来る――そのことだけだよ」

 うつくしい銀の髪を持つ青年は、そう言ってにっこりと笑ったのだった。

「……え」

 アデルは呆気にとられてぽかんと彼を見返した。

「つまり」

「うん?」

「つまり、ソルジュさんはパトリ師匠せんせいのお弟子さんなんですか?」

「ソルジュでいいよ。おれは彼女の――うーん、弟子という大げさすぎるな。なんて言ったらいいか、パトリはおれにとっての助言者みたいなものだったんだよ」

 アデルの名や素性を知っていたのも、師から聞いていたのなら納得がいく。なるほど、いざ種明かしをされればなんということもない話だ。

「じゃあ、ソルジュさ……ソルジュは師匠がどこにいらっしゃるのかもご存知なんですか?」

 いや、と彼は首をふった。

「パトリが雲隠れしたことは知ってる。だけどおれも、彼女の行方は知らないんだ」

「そう……なんですか」

「彼女が失踪した理由も想像はつくが、本当のところはわからない」

「…………」

 それはあまりに師匠の私情に踏みこむことになるからか。それとも何か深い事情があるのか。アデルは黙ってくちびるを結び、両手を握りしめた。

「パトリの無事を案じているなら心配いらない。彼女は気まぐれなところもあるけど、とても偉大な魔女だから」

 パトリについて訊ねる前に釘を刺され、アデルは浮かない顔でうなずいた。正直なことを言えば、顔も知らない師匠の身を案じているわけではなかった。身内からは放逐され、流されるようにこの町に来て、わけのわからない事態の連続で、今さらのように理不尽な感情が湧いてきたのだ。

(そういえば、あの気味の悪い道化の人形)

 アデルを『新しい魔女』と呼んだあれも――、師の失踪と何か関係があるのだろうか。

「あの、ソル……」

「それよりもさ、よければきみの話を聞かせてくれないかな」

 こちらが何かを訊ねるより早く、言葉をねじこませるようにして彼は言った。

「おれがきみについて知っていることは、名前とパトリの新しい弟子だってことだけ。教えて、きみはどこから来たんだい?」

 じっと瞳を覗きこむようにされ、アデルの頬に血が上る。これほど真っすぐに誰かと視線を合わせたことなどない。動揺しながら、しどろもどろに自分のことを話した。田舎から来た娘の話など面白くもないだろうと思ったが、彼は意外にも真剣な様子で聞いてくれた。

「――それで、叔母さんの家から追い出されたのか」

「はい」

「まあ、気にしないでいいと思うよ。魔女としての力を扱える時期は個人差があるから。おれも遅かったよ」

「本当ですか?」

「ああ。母が魔女だったんだけどね、おれ自身が魔法を使えるようになったのは十二になってからだった」

「十二……」

 おうむ返しにつぶやくと、きみはいくつ、とたずねられた。

「もうすぐ十八になります」

「じゃあ、いま十七か。おれは別に魔女になりたいとは思ってなかったから、遅くてよかったんだけどね。ある日、急に魔法が使えるようになったものだからとまどってしまって、恐ろしくて家を出たんだ」

「恐ろしくて家を出たんですか?」

「うん。たぶん、母親が怖かったんだろう。おれの母も、まったく能力を開花させなかったおれをずっと疎んでいたから。彼女は何も言わなかったけど、毎日冷めたような目で見下ろされて、びくびくしてた。だからさ、急に魔女の力に目覚めてしまって、喜ぶよりも恐怖したんだ。今さらという気がしたし、母もきっとそう言うだろうと思ったからね」

「そんな……」

 そういうものだろうか。たとえば、今アデルが魔女の力に目覚めたとしても、母は喜んではくれないのだろうか。

「おれの場合だよ。というか、少なくともおれはそう考えたんだ。それで家を出て、遠くに住む魔女の家に転がりこんだ。その魔女がおれの最初の師匠で、基礎はほとんどそのひとに教わったな。だけど、老齢だったその師匠が亡くなって、おれはこの街に帰って来た。身寄りがなく、頼ったのがパトリさ」

「身寄りがないって、ソルジュのお母さまは……?」

 ソルジュは首をふった。

「一度も会っていない。亡くなっていたんだ、そのころすでに」

 言葉をうしなってしまったアデルに、彼は自嘲するようにくちびるをゆがめる。

「ひどい息子だろう。親不幸者だって自覚はあるよ、さすがに」

「い、いえ。そんな」

 慌てて否定した。自分にソルジュを詰る資格があるとは思えない。アデルだって、実家を出て叔母の家に預けられて以来、一度も母には会っていないのだ。

(ソルジュが親不孝なら、わたしもそうだもの。わたしだってもう何年も、お母さんに手紙さえ書いていない)

 理由は自分でわかっている。会うのが怖いのだ。相変わらず魔女として何ひとつ成長していないと、呆れられそうで。

「そうそう、なんでも知ってるわけじゃないけど、この町のことならきみよりは詳しい。そうだな、たとえば――この家の隣には偏屈なじいさんが住んでるから気をつけろ、とかね」

 冗談めかして笑うソルジュに、アデルも思わずつられて笑ってしまった。

「前にも言ったけど、困ったことがあるならいつでも相談に乗るよ。だから遠慮なく頼ってくれるとうれしいな」

 少なくともその言葉は真摯なものだとアデルにもわかった。誰ひとりとして知り合いのいない町で、頼っていいと言ってくれる人間が存在することは、どれほどの救いになることか。

「はい。あの、ありがとうございます、いろいろと」

「いいんだ。おれはきみの兄弟子みたいなものだからね」

 はにかみながら礼を言うと、ソルジュもまた照れくさそうに笑い、客第一号、というみずからの宣言を証明するように、ハーブ入りの焼き菓子をすべて購入していった。

 ――そうして、慌ただしかった開店第一日目は終わったのだった。


        *


 開店二日目。

 どこでも宣伝などしていないにも関わらず、開店早々から客がやって来た。大繁盛、というほどではないが、ぽつぽつと客足が続く。午前中は看板猫として客にいそいそと愛想を振りまいていたノアだったが、頑張りすぎて疲れたのか、午すぎに「ちょっと休憩」と家のほうに一時避難していった。

 客層も、腰の痛みを訴える老爺から、子どもの腹痛をやわらげる薬を求める主婦、恋人に贈るハーブ石鹸が欲しいという男性までさまざまだった。

 もしかしたら、ソルジュがどこかで何かしてくれたのだろうか、とアデルは思った。開店初日に来た客は彼だけなのだから、宣伝してくれるとしたらソルジュ以外にはありえない。アデルは迷った末、たまたま店に入って来た若い娘に訊ねてみた。

「この店に入った理由? 前を通りがかったら、見慣れない店ができてるなあと思って。興味をひかれたのよ」

 香りのいいサシェを複数手にとり、客の少女はあっけらかんと答えた。まるで夕陽のように鮮やかな赤髪をした少女だった。

 年齢は十七か、八ぐらいか。アデルより少し年上に見えた。赤毛に映える、若草色の大きな瞳。勝気そうな顔立ちは、まるで大輪の赤い花を思わせた。華やかな雰囲気と、はきはきした喋り方になぜだか既視感を覚える。

(そうだ、この子)

 たしか――、はじめてこの町についたときフリーデの花冠をくれたのは、この少女ではなかっただろうか。

「あら? あなた、前にもどこかで会った?」

 じっと注視していると、相手も気づいたらしい。首をかしげてのぞきこまれたので、アデルは急いで首をふった。

「わ、わたし、この町に越してきたばかりで」

「そうなの? じゃあ、この店が以前は違う店だったってことも知らない?」

 えっ、とアデルは思わず声を上げた。初耳だった。

「この家って、前もお店だったんですか?」

「そう。ああ、もっと砕けた喋り方でいいわよ。私たち同い年ぐらいみたいだし」

「ありがとうございます。あの、お店ってなんの――」

「ここはね、星読みステラレーゼの魔女の店だったの」

「星読み……」

〈星読〉――ステラレーゼ、とはすなわち占星術・占いのことだ。魔女のあいだでは、ひとが誕生したときは必ず、〈星〉を持って生まれてくると伝えられている。

 漆黒の夜天に浮かぶ数多のそれと呼応するという〈星〉は、ひとの瞳の奥にかすかに明滅する光となって宿る。それはひとつとして同じ色を持たず、また同じ光を放つことはない。星が流れるときは、すなわちその星を持つ人間が死を迎えたときだとされる。その星の動向を読むのがすなわち〈星読〉であり、古来から伝わる魔女の秘術のひとつだった。

(じゃあ、パトリシア師匠はやっぱり、未来が読める魔女だったの)

「よく当たるって、町の女の子たちがしょっちゅう騒いでたわ。だけど、一年ぐらい前に突然閉店しちゃったの」

「閉店? 一年ぐらい前に? ど、どうして」

 赤毛の少女は肩をすくめた。わからない、という意思表示だろう。

「さあ。私はこのお店には通ってなかったから」

「もしかして、占いとかそういうの、信じてないとか」

「ううん、そうじゃなくて。私には必要がないってこと」

「必要がない?」

「だって、私も星読みの力を持つ魔女だもの」

「えっ?」

 私も、と自分を指さした彼女は、今度はその白い手をアデルに向けて差し出した。

「私の名前はカレッサ。星読みの力を持つ魔女。トロイメンへようこそ、新しい魔女さん」

 そう言って鮮やかな赤毛を持つ魔女は、いたずらっぽい表情で笑ったのだった。


         *


「へえ、そんなことがあったんですね」

 カウンターの表面をボロ布で拭きながら、ノアがアデルの話を聞いて感心したようにうなずいた。ほうきを手に、店じまいの看板を外に掛け、玄関の鍵を閉めたことを確認し、アデルは身に着けていたエプロンを脱いだ。

「そうなのよ、結局その子も魔女だったの」

「やっぱり、どうもこの町は思った以上に魔女だらけみたいですねぇ」

 感心したようにつぶやき、ノアがひげをそよがせる。アデルは一通り店を確認し、ごみの入ったチリトリとほうきを手に、奥へとひっこんだ。ボロ布を頭に乗せ、ノアもうしろをついてくる。

「魔女だらけって、まだふたり目じゃないの」

「アデルと師匠を数にいれれば四人ですよ」

「それはまあ、たしかにそうだけど」

 ごみを捨てるため裏庭に出ると、空は深いオレンジを湛えた、たそがれの色に染まろうとしていた。気の早い一番星がそろそろ東の空にかかる頃合いだ。チリトリの埃を庭の隅に捨て、うーん、と腰を伸ばしていると、突然どこからか声を掛けられた。

「あんたがパトリの新しいお弟子さんかね?」

 耳に届いたのは、年老いた男性のものだった。いったいどこから、とアデルが周囲を見回していると、横にいたノアが「あそこですよ」と教えてくれた。

 アデルは右上方に首をめぐらせる。隣家の二階の窓辺で、白い髭をたくわえた初老の男性が手をふっていた。

「やあ、お嬢さん。こんばんは」

「こ、こんばんは」

 アデルは急いで頭を下げた。

「アデルといいます。少し前にここに越してきました、ご挨拶が遅れてすみません」

「わしはブルーノ。お気楽な隠居爺をやっとる。よろしくな、アデルお嬢ちゃん」

ブルーノと名乗った老人は、丈夫で健康そうな白い歯を見せて笑った。皺だらけの顔には、老いに負けない快活な印象がある。そういえば、ソルジュが隣の家には偏屈なおじいさんが住んでいると言っていた気がするが、彼のことなのだろうか。

「パトリから聞いておったよ。新しい弟子が来るからよろしくしてやってくれとな。事情があって、彼女はいま家を離れとるが」

「はい。しばらく姿を隠すと、書きおきがありました。もしかしてパトリ……師匠からなにか預かっていらっしゃいますか?」

「おお、封書を預かっとるよ。とりにくるかね?」

「ええ。もしご迷惑でなければ」

 答えると、ブルーノはアデルから見て壁のほうを示した。薄暗くて見えにくいが、生い茂った庭木の横に、隣家に通じる扉がある。

「家は散らかっとるが、そこの裏戸から入ってくるといい。鍵は開いとるよ」

「わかりました。掃除道具を片づけてから、お邪魔します」

 手にしたほうきとチリトリを掲げて見せると、老人はうなずいて窓の向こうにひっこんだ。



 数刻後、引越しの挨拶も兼ね、アデルはノアとともに隣人宅の扉をノックした。

「いらっしゃい、よく来たね」

「お邪魔します」

 裏の木戸を開いて出迎えた老人は、こころよくアデルを家に招きいれる。

「これ、つまらないものですが」

 アデルが手製の焼き菓子を差し出すと、ブルーノはとたんに相好を崩した。

「おお、気を使わせてすまないね。ありがたくいただいておくよ」

 裏庭を通り、勝手口を上がってすぐの部屋に足を踏みいれたとたん、木材の強いにおいがした。驚いたアデルは、「わあ」と思わず声をあげる。

「いやはや、ごちゃごちゃしていて申し訳ない。そこらに椅子があるはずだから、かけて待っていてくれるかね。預かってたものを発掘せにゃならんのでな」

 気恥ずかしそうに笑いながら、老人は奥の部屋へと姿を消した。

発掘、というブルーノの言葉は決して誇張ではないようだった。壁をのぞいて二部屋を繋げたらしい広い空間は、雑多なものであふれかえっていたのだ。

「すごい数ですね……、これ全部、おもちゃなんでしょうか」

 驚き半分、呆れ半分といったような口調でノアがつぶやいた。

 たしかに、部屋を埋め尽くしている大半のものは玩具のようだった。そのほとんどは木でできており、手作りだとわかる。木彫りの騎兵隊、積み木、木馬、音の出るからくり、転がして遊ぶ子ども用の四輪車。椅子、テーブルをはじめとしたミニチュアの家具に、ままごとをするための食器類。乱雑なのに、どこか調和がとれたふしぎな光景だった。

「ガラクタの山ですね、ここは」

 木くずに顔をしかめたノアが、ぽんと作業台らしき机に飛び乗り、容赦ない感想を漏らす。

「でも、すてきだわ」

 作業台での上には工房で使用されるような大型のミシンが設置され、鉋やトンカチなどが転がっていた。床には様々な太さや長さの木材がおかれ、毛糸のくずや布の切れ端も落ちており、文字通り足の踏み場もないほどだ。

「ブルーノさん、おもちゃ職人なのかしら」

「どうでしょ……、あっ!」

 見回していたノアが、突然ぎょっとしてその場で飛び跳ねた。

「どうしたの?」

「アデル、あ、あそこを見てください」

 明らかに怯えた表情で、ノアが部屋の一点を指さす。アデルもそちらに目をやって、ぎょっと目をみはった。

部屋の片隅に置かれた、人形用の小さな椅子。そのビロード張りの座席に腰かけていたのは、見覚えのある人形だった。

 黄色地に赤のスパンコールが散らされた派手な衣装。先がくるりと丸まった靴。瞳の下に描かれた青い雫の化粧が、どことなくさびしげな様相をかもしている道化の人形だ。

 昨日のピエロかと思い、アデルはおそるおそる近づいた。よく似てはいるが、至近距離で確認すると細かい特徴が違っている。同じく近よって眺めたノアが、アデルの印象を裏づけた。

「やっぱり、あのときの人形じゃないですよ。服の色と模様が違いますし、それにこっちには吊手と糸がちゃんとついてます」

 たしかにこの道化は、突然言葉を発したり笑い出したりするようなことはなかった。人の手があってはじめて動くことができる、ふつうの操り人形のようだ。

おそるおそるアデルが手を伸ばしたとき、

「あったあった。これだこれだ」

 続き部屋で、ごそごそと物をひっくり返していたらしいブルーノの声が聞こえてきた。

 アデルが慌てて手をひっこめるのと同時に、白い封書らしきものをふりながら、散らかった床をものともせずにブルーノがこちらへとやって来る。

「おお、それかね」

 アデルとノアが注視しているものに気づくと、彼はわずかに目を細めた。

「ごめんなさい。勝手に触ろうとして」

「いやいや、気にしなさんな。懐かしいのう、これはわしが若いときに作ったものでな」

 言いながら彼は、手紙を持っていないほうの手で人形を持ち上げた。ごつごつした傷だらけの指で吊り糸の感触をたしかめ、片手だけで器用に動かしてみせる。道化はつま先をそろえ、胸に手をあてて腰を折り、アデルに向かってちょこんとお辞儀をした。

 人形とは思えないほど滑らかな動きに、アデルは素直に賞賛の声を上げる。

「すてき! ブルーノさんはすごい人形職人なんですね」

「どうかブルーノと呼んでおくれ、お嬢さん。――そう、むかしの話だが、わしも結構名の知れた職人だった。が、今は隠居して好きなことをやっとるよ。おもちゃだけじゃなく、手なぐさみにオルゴールや時計なんかも修理しながら生計をたてとる。もちろんおもちゃも頼まれれば作るがな」

 道化の人形をもとの場所に戻し、彼は持っていた封筒をアデルに差し出した。

「これがパトリから預かったものだよ」

「ありがとうございます」

 礼を言って受けとった。赤い蝋で封印がしてある白い封筒をしばしの間じっと眺め、アデルは意を決して口を開いた。

「……あの、おたずねしたいことがあるんですけど」

「なんだね?」

「パトリ師匠はどんなかたなんですか? わたし、話にはうかがっているんですが、実際にはまだ一度もお目にかかったことがないんです」

 ふむ、とブルーノは白い髭をなでながら、難しい顔で考え込んだ。

「どんな、か。少し厄介な質問だなそれは。魔女の格言にいわく、『知恵は霧、御業は氷、賢しき魔女はこれ水なり』だったかの。――合っているかね?」

「は、はい」

 アデルは神妙にうなずいた。ブルーノが口にしたのは魔女たちのあいだに伝わる古いことわざで、簡単に言うと「本当に力を持った魔女は、状況や相手に応じて姿を変えるため、つねに同じ姿をしているとはかぎらない」という意味合いになる。

「パトリはまさにその言葉どおりの魔女さ。わしから言えるのはそれだけかな」

 ブルーノはそう言って、にやりといたずらっ子のような笑みを浮かべたのだった。



「せっかくだから、お茶ぐらい飲んでいきなさい」

 とブルーノが言うので、アデルとノアはその好意に甘えることにした。

 淹れてもらった茶はやや渋めだったが、彼は実に会話上手な老人だった。アデルから叔母の家で暮らしていたころの話をたくみに聞き出し、それに対して痛快な見解を述べ、アデルを何度も笑わせた。

 日が落ちきって夜になるころには、アデルはすっかりブルーノに気を許すようになっていた。

「あ、そろそろ……」

 夕食の仕度を理由にいとまを告げると、ブルーノはこころよく手をふって「またいつでも遊びにおいで」と送り出してくれた。

「お隣がいいひとでよかったですね、アデル」

「ええ。パトリ師匠がわざわざブルーノさんに預けたのも、きっかけを作って下さったのかもしれないわ」

 家に戻り、ブルーノから渡された封筒を前に、アデルはノアと顔を見合わせる。

「やっぱり手紙かしら?」

「開けてみましょう」

 封を破り、中から折りたたまれた薄い紙をとり出して広げる。それは手紙でさえなかった。色あせた羊皮紙には、走り書きのようなたったひと言が記されている。魔女の古語で書かれたその言葉を、アデルは読んだ。

「〈英知の館〉……?」

「ほかに何も書いてないですけど、もしかしてそこへ行けってことなんでしょうか?」

「うん。たぶん、そうなんだと思う」

 英知の館。はじめて聞くはずなのに、どこかで聞いたことがあるような気がする。なぜか胸がざわざわとして、アデルは胸元をおさえた。

「アデル? どうしたんです」

「わからない。わからないけど、なんだか急に」

 胸が苦しいような、切ないような。ぎゅうっとこみあげてくる不安にも似た感情に、アデルはたまらず床にしゃがみこんだ。

「アデル!」

 どうしてだろう。哀しくてたまらない。理由のわからない苦痛のためか、アデルの瞳からぽとりと涙のしずくがこぼれ、床にこぼれ落ちた。




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