削葬式

 絵を描くことが大好きだ。画家として食っていくつもりはない。あくまで趣味の絵描きだが、人並みに上手く、色々な技法を身につけている方だ。最近は手軽に完成させられる鉛筆スケッチ・パステル・水彩画が多いが、油絵もたまに描く。数こそ少ないものの、自分の中で大作と呼べる物のほとんどは、油絵だ。

 今日は、その大作のうちの一枚を破壊している。

 厳密には、上から少しずつ、絵の具を剥がしている。油絵の材料は高いので、私のような学生絵描きや、路上の貧乏絵描きが過去のカンヴァスを使い回す事はさほど珍しくない。

 まあ、私の場合、本当はアルバイトをするなり、他の資金をケチるなりすれば、カンヴァスくらい新しく買い足せるので、黒歴史となった絵へのあてつけが大きい。

 ゴム手袋を嵌め、剥離剤の瓶を開封する。ハケに少量液体を垂らし、F50号の画面上に薄く、満遍なく広げる。今回は少し感傷に浸りながらゆっくり絵の具を剥がしたいので、適量よりすこしだけ少なめに塗ってみた。


 まず、薄めに塗り広げられたコバルトブルー。

 絵の具をケチっていたので、ほとんどの色味はこの下の層にあるウルトラマリンだ。コバルトブルーの絵の具の方が高級なのだが、これを剥がしていくにつれ、より深い青が顔を出す。あまりここは青を使いこなせていなかったな。同時に、画面の上部・フチ付近に塗りたくった黒色の絵の具も削ぐ。すぐ下から赤茶色の下地が覗く。道理で単調な色味な訳だ…

 続いて、その画面内側のバイオレット。ここを塗った時には、複数の紫色を混ぜ、色味の変化を作るのに凝ったものだ。何時間もかけて作った色を、こうして一瞬で削り取る。努力した過去の自分には悪いが、私はこの下にあるカンヴァスを発掘しなければならないのだ。

 画面中央のバーミリオン。ガリガリと湿った音で削り落とす。ここに使った絵の具は、画面の中で最も高級で、鮮やかな発色を持つ。これは、いい選択だった。少ない貯金をはたいて買った高級絵の具を、こうも贅沢に塗りたくったのは、我ながら誠に英断だ。床に私のバーミリオンが落ちていく。これだけは、拾い集めて別の作品に使おうか迷ってしまった。

 画面下部にある申し訳程度のモスグリーンと、適当に叩きつけられたウォームグレーを剥ぐと、残りは画面中央の少し下に位置するのっぺりとした黒だけになる。美しい夕景を背に、向かい合う二人の男女。このシルエットの正体は、初恋の人と、髪が長かった頃の私だ。もったりとした黒絵の具で描いたため、二人がブレザーを着ているのか、セーラー服と学ランを着ているのかも影からは判断できない。ボンヤリとごまかしてしまった形跡が見て取れる。

 本当は彼一人を描きたかったのに、つい理想を反映しすぎてしまって、余計な人間を描き足してしまった。そして、ただでさえ未熟な絵を、果てしなくチープでつまらない物に仕上げてしまったのだ。改めて自らの愚行を前に、頰に熱がこもっていくのを感じた。

ペインティングナイフをカンヴァスに叩きつけるようにして、絵の具を剥がす。それまではカンヴァスに跡をつけてしまわないよう気を配っていたが、こればかりは急いで作業せざるを得なかった。こんな駄作と長時間向き合っていられない。


 油絵の具の層に隠されていた下地がその全貌を現す。

 テレピンで薄められた茶色い露の跡。拙いチャコールの引っかき跡。粗いタッチで描かれているのは、優しく微笑む初恋の人。

 そう、これが見たかった。

 この絵は始め、彼の肖像にするつもりだったのだ。でも、中学生のボクには、大きな肖像画を描くのは恥ずかしいやら、難しいやら…描写から逃げた結果、美しい夕景を背に佇む彼のシルエットの構図を思いついた。そして、最終的に自分を描き足してしまったという運びだ。全く、門外不出の大迷作だ。誰かに見られる前に剥がせて本当によかった。

 きっと、今の私の描写力と技量なら、この肖像画を完成させる事ができる。モデルである本人を前にしなくとも、ずっと目に焼き付いたあの人の顔なら、ある程度似せることもできるはずだ。

 しかし、私はこの笑顔に別れを告げる。

 

 彼の笑顔も、言葉も、音楽も、忘れたことはない。だけれど、奇抜な友人達と出会ってから、失恋の痛みに酔うよりも、今の自分の感情を優先してみたいと思えるようになった。とはいえ、かつての自分が絵にするほどの情熱を、無に帰すのは難しい。だから今日、私は自分の感情を昇華するための儀式を企画した。

 過去の恋愛の失敗を削ぎ落とし、かつての純粋な恋心と向き合う行為に続くのは、儀式の最終段階。私はこれから、長い時間をかけてこれに取り掛かる。

 このカンヴァスに、まず学園の風景を忠実に写生し、その上から細い線で友人たちや恩師たちとの関わりを描き足す。彼の笑顔を、学園の風景で覆うのだ。


 剥離剤の瓶の蓋を締め、薄汚れたペインティングナイフを持って洗い場に向かう。

 この絵画が完成し、どこかに展示されたところで、再び覆い隠される下地の存在や、それまでカンヴァスに描かれていた記憶の経緯などが他人に知られる事はない。全て自己満足として完結してしまうだろう。

 ナイフを乾燥棚に上げて持ち場に戻る。描くための道具は、予め用意してある。使用途中のテレピンが入った油壺を開け、紙パレットに下地用の安い絵の具を少量ずつ出していく。太めの丸筆を手に取った。

 私は、大好きな人々を、好きなように描くだけの、趣味の絵描きだ。

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