第9話 すくうもの①


 週明けの月曜日。

 夏期講習を終えた駿は部室である地学準備室で、琴子に詰め寄られていた。

 たじたじで今すぐ逃げ出したいという顔をした駿と、絶対に逃さないという顔をした琴子。

 もとよりノリの強さというか人間性の勢いで二人の差は歴然で、駿がこの場を無事に切り抜けられる図が思い浮かばない。


「な、何だよコトラ」

「何だよはこっちの台詞です。既読無視ってどういうことですか?」

「い、忙しいんだよ。俺、受験生だし」

「〝忙しい〟は人を無視していい言い訳になりません。話してくれたら解放するので、勉強したかったからさっさと話してください!」


 駿は精一杯正論で返しているのだが、それに対する琴子の返答がとにかく強い。正しいか正しくないかではなく、勢いによるコミュニケーションだ。

 コミュ力に問題がある上、いわゆる壁ドン状態で部室の隅に追いやられているため、駿はもう精神がもちそうになかった。

 背の低い琴子による壁ドンはほとんど張り付かれているのと一緒で、少しでも動けばセクハラになるし、振り払えば暴力だ。どうすることもできず、駿はぷるぷる震える。


「俺、他人の個人的なことをペラペラ話す気にはならねぇんだよ」

「個人的なことって……何が憑いてたのか、聞いただけじゃないですか!」

「なんでそんなこと知りたいんだよ……」


 琴子が知りたがっているのは、この前の金曜の夜、駿が何を見て怯えたのかということ。つまり、三郎丸の背後に何がいたのかについてだ。

 あのときはついうっかり人前で怖がって源の服の裾を掴んでしまったが、だからといってまさかこんなに琴子が食いついてくるとは思わなかった。それに普通、土日の間メッセージを無視していたらあきらめるだろう。

 琴子はあきらめないどころか、かなりやる気になっている。


「こわたん先輩、何か嫌なもの見たんでしょ? それなら、人に話したほうがいいですよ。怖い夢とか見たら人に話せって言うでしょ」

「いや、それはそうだけど……」

「それに、話さないとずっと三郎丸先生がやばい存在のままですよ?」

「うーん……」


 琴子の勢いに、駿は負けそうになっていた。何より、三郎丸に憑いたもののことを思い出すと、人に話して怖さを半減させたほうがいい気もしてきた。


「……あの先生さ、いつも肩に誰かの手が憑いてるんだけど、それがこの前は手どころの話じゃなくて、何かうじゃうじゃしてたんだよ」


 話しながら思い出して、つい身震いしてしまった。

 金曜の夜に見た三郎丸の背後には、名状しがたいものが憑いていた。おそらく、数えられないくらいたくさんの手なのか、もしくは何かの集合体だ。


「え……手って? 日頃から肩に手を乗せてるんですか? インコじゃないんですから、手なんか乗せてちゃだめですよ」

「うん、まあ、そうだな……」


 琴子の的確なのかそうじゃないのかわからないツッコミに答えていると、部室の戸がカラカラと開いて、源が入ってきた。妙な格好の二人を見て、困った顔をして笑う。


「男虎さん、小幡くんをいじめちゃだめだよ」

「い、いじめてません! 先輩が三郎丸先生に何が憑いてるのか教えてくれないからいけないんです!」


 いじめてませんと言いつつも、源に指摘されてまずいと気づいたのか、ようやく琴子は駿から離れた。


「三郎丸先生、小幡くんの怖がり方を見る限りこの前はやばかったみたいだね。いつもは色の違う手が何個か憑いてるだけみたいだけど」

「色の違う手? 何なんですかそれ!」


 さらりと言う源に、琴子が勢いよく食いついた。三郎丸の肩に乗っているものを、可愛くないインコか何かだと思っているのかもしれない。


「いやさ、肌色とか、土気色とかの手が肩に乗ってるわけだよ。で、たぶんだけど肌色は生きてる人間のやつで、色が悪いやつは死んでるんじゃないかな」

「生霊と死霊が憑いてるってことですか!? 助けなきゃ!」


 琴子にちゃんとわかってもらおうと思って説明したのに、彼女はそう言って部室を飛び出して行ってしまった。

 一体どんな理解をしたのだろうかと、駿は不安になる。


「……助けるって、コトラのやつ、どうする気なんだろ?」

「今頃、職員室まで走っていって、背中をバーンと叩いてるかもね」

「そんなんで祓えんのか? ……あの金剛力士像みたいなマッチョ霊なら、やれるのか?」


 三郎丸の背後の不気味なもののことを思い出し恐ろしくなった駿だったが、源に言われて琴子が他人の背中をバンバン叩くのを想像していけるかもしれないと思った。

 なにせ琴子の守護霊(?)はマッチョな金剛力士像のようなアメコミヒーローのような、強そうで陽気なやつなのだ。

 駿もこれまでに何度か、彼女の守護霊が怪異を滅してしまう瞬間を目撃している。

 だからまあ、何とかなるかと思って待っていると、それから少しして琴子が帰ってきた。

 だが、その姿を見れば、彼女の企みがうまくいかなかったことはわかる。


「……三郎丸先生、何かおかしくなっててだめだった」

「マジで職員室にとつったんだ……で、おかしくなってたって、どんなふうに?」


 凹んでいる琴子に呆れつつも、何が彼女をこんなふうに打ちのめしたのか気になった。それに、三郎丸は生徒を邪険に扱うタイプではないはずだ。特に女子生徒は。


「何か、『俺はもっとたくさん人を助けなくちゃいけないんだよね。そのために教師になったんだし』とかブツブツ言ってて」

「うへぇ……ガチじゃん」


 琴子から聞かされた三郎丸の様子に、駿は身震いした。

 それが信じられなかったからではなく、むしろ容易に想像できたからだ。


「三郎丸先生、もともとそういう願望があるっぽいもんね」

救世主妄想メサイアコンプレックスだっけか? どんな考えを持とうと自由だけどさ、そんなんで願望を満たそうと絡んで来られても困るんだよ」


 源の言葉に、駿はさらに顔をしかめる。

 三郎丸は意識高い教師として、どうにも駿のことを放っておけないらしい。なぜ源には懐いて自分は頼ってくれないのかと、言外に責められたこともある。だから、いつも肩に乗っている手のことを抜きにしても苦手なのだ。

 

「小幡くん、ぱっと見は周りに馴染めない不良男子だもんね。構って仲良くなりたいでしょ、熱心な先生なら」

「……うざ」


 源はあくまで三郎丸を〝熱心な先生〟と言うが、駿としてはそうではないと感じている。そうでなければ、あんなにたくさんの手がいつもまとわりついている説明がつかない。


「でも、こわたん先輩が変なの見たっていうし、あんなふうにおかしくなっちゃってるなら、助けてあげなくちゃだめじゃないですか……?」


 駿が三郎丸に良い感情を持っていないのがわかったのだろう。それでも助けてやりたい気持ちがなくならず、琴子は控えめに主張する。

 だがそれを、駿は鼻で笑った。


「いや、三郎丸は誰かを救いたいんであって、助けてほしいなんて思ってないんだよ。助かりたいと思ってない人間を助けることなんて不可能だ。実際に、コトラだって対面して無理そうだと思ったから逃げ帰ってきたわけだろ?」

「そうですけど……でも何か、ノートを手にブツブツ言ってたから、わかりやすく何かに取り憑かれてるのかもしれないですし。そういう状態の人は、自分で助けてって言えないじゃないですか……」

「……ノート?」


 さっきまで取り付く島のなかった駿だったが、琴子の話す内容に聞き捨てならない単語を拾った。


「ノートって、大学ノートっぽいやつ?」

「そうですけど? 色はピンクっぽかったですけど、色あせてました」


 琴子からノートの特徴を聞いて、駿と源は顔を見合わせた。おそらく、駿が探しているノートで間違いないだろう。

 自身が怪談になりたくて自殺した女子生徒が遺した、オカルト研究ノート。その内容自体に問題があるのかはまだわからないが、紛失していたのが気がかりだったのだ。

 それが三郎丸の手にあるとわかった今、取り戻さない理由はない。


「俺、ちょっと行ってくるわ!」


 いてもたってもいられなくなって、駿は部室を飛び出した。

 向かうのは当然、三郎丸がいる職員室だ。廊下は走ってはいけないから、限りなく駆け足に近いくらいの早歩きで向かい、職員室へもごく平静を装いながら。

 「失礼します」と言ってそっと静かに引き戸を開けると、まばらにいる教師たちの中に三郎丸がいた。

 相変わらず、その背後にはえぐいものがいて、それを見たら先ほどまでの勢いは消え失せてしまったが、それでも思いきって駿は三郎丸に声をかけた。


「あの、三郎丸先生……」

「小幡くん、どうした?」

「先生、図書室でノート拾いませんでした? ピンクの古ぼけた大学ノートなんですけど……」


 琴子の話を聞く限りかなりやばそうだと思っていたのだが、声をかけてみると案外普通の反応だった。だが、ノートの話題を口にした途端、三郎丸の顔つきが変わる。


「小幡くんのじゃないよね? だから渡せないな。今、持ち主を探してるんだよね。きっと困ってるだろうから」


 いつもにこやかな笑みを貼りつけたような顔をしているのに、真顔でそんなことを言われてしまって駿は何も言い返せなかった。

 「そうですか……失礼しました」とだけ言って、職員室を出ていくのがやっとだ。

 あの返答からして、ノートを持っているのは確実だ。だが、駿のものでないことをきちんと把握されていて、強硬に渡せと言うことはできなかった。

 駿のものではない確信があるというのが、どうにも気味が悪い。只事ではない感じがする。

 

「……ノート、取り返せなかった」


 部室に戻ると、駿は職員室であったことを琴子と源に話した。

 背後は相変わらずえげつないこと。ノートについて把握していること。駿のものではないと見抜いたこと。


「でも、操られてるみたいな感じはしなかった。うまく説明できねぇけど」


 手ぶらで帰ってくるという情けない姿を晒しつつも、駿は一応自分の所感を付け足した。

 日頃の三郎丸と比べるとおかしくはあるが、今現在何かあるのかと考えると違うと思ったのだ。

 おかしくなっていたのならこの前の百物語のように、すぐにでも何か行動に移しているはずだ。少なくとも、何かに操られている状態ではなかったように見える。


「小幡くんがそう言うんなら、そうなんだろうね。でも、操られるのも時間の問題なのかも。今は干渉を受けてなくても、接触しようとはしてるんだろうね。この前の金曜、変な時間まで学校にいたのもそれが理由なんだろうし」

「ああー……そっか。そう考えるのが自然ですよね。何の部活の顧問もしてないのに、あの時間に残ってるのは不自然だし」


 源の冷静な分析に、駿はうんざりした。やはり何かに操られているかその途上にあると考えたほうが、この前の金曜の不審な行動に説明がつくのだ。


「三郎丸先生、誰かに頼られたいと思う気持ちが強すぎて、〝救われたい〟幽霊にめちゃくちゃ寄ってこられてるんじゃないかな? これはあくまで、僕の推測なんだけど」


 ノートをどう取り戻したものかと駿が悩んでいると、しばらく何か考え込んでいた様子の源が言った。

 駿はこれまで、三郎丸の肩に生霊と思しき手や死霊が憑いているのを、女性関係の乱れからくるものだろうと考えていた。

 それでは今現在のえげつない背後の説明がつかないのだが、源の考え方なら一応筋が通る。


「救われたいものが、寄ってきてる……生きてるものも、死んでるものも、か」

「これまでその素質はあったものの、何かのきっかけで一気に開花したんだろうね。悪化したと言うべきか」

「幽霊のほうが自分のことを頼りにしてくれるとか、思っちまったのかな」


 源と話しながら、自分はとんでもなく厄介なものと向き合わなければならないのではないかと、駿はどんどん憂鬱になってきた。

 ただ平穏無事に過ごしたいだけなのだ。そのためにあのノート及び女子生徒の霊を野放しにしておけないとは思うのだが、だからといって三郎丸や彼の問題に関わるのも嫌だった。


「私、三郎丸先生の助け方、思いついたかもしれません」


 それまでずっとおとなしく黙っていた琴子が、唐突にそんなことを言った。ひどく真面目な顔をして、その目には力強い光が宿っている。


「助けるって、どうやって? さっきも言ったけど、あの人は誰かを救いたがってるだけで、別に助かりたいとは思ってないんじゃねぇかな」

「そうかもしれませんけど、幽霊に頼りきりにされて、いいことなんてないはずですもん。そんなの、放っておけません! だから、生きてる人間に頼られるほうがいいんだぞって気づかせてあげればいいんだと思って」

「……は?」


 琴子はどこまでも自信満々だが、駿も、当然源も、彼女が何を言っているのか理解できなかった。

 だが、琴子はそんな二人に語って聞かせたのだ。三郎丸を救うための、とっておきの作戦を。

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