第35話 無力感。
あの後、インヴィと呼ばれた先輩が医務室に連れて行かれ、僕たちは少しの説明を受けて授業は終わりになった。そして、各学年の部屋で待機するように言われる。僕は当然、ターシャと共に一年生の部屋にいった。
部屋にはまだ、誰も来ていない。ほとんどの学生は授業中だ。だが、直に中止が宣言され、やってくるだろう。
「…………恐ろしかったですわ。わたくし、何もできませんでしたもの」
部屋に行って、しばらくしたのちにぽつり、とターシャが震えた声でつぶやいた。顔色が悪い。懐からお茶を出して勧めるが、断られたのでグーグーを膝の上に乗せる。暖かい生き物はそれだけで心を慰めるものだ。彼女はぎゅっと抱きしめる。
『お嬢、震えてんなぁ。心臓の音が早いぜ』
抱かれててあげて、と念話でグーグーにお願いする。今日は大人しく抱かれててくれるみたいだ。なんだかんだ言って、グーグーは結構優しい。
「ターシャ。僕たちができることなんて、ほとんどなかったんだ。邪魔しなかったのは、最大の功績だと思うよ」
恐惶をきたさなかっただけ、いいと思う。実践演習を行った上の学年ではない。まだ、学校に入ったばかりのひよっこなのだ。
「ルルは冷静でしたわね」
「ううん、冷静になろうとして、いろんな事考えてた。それに、ヒュッタニアの雫、取り出せなかった」
今までだってやってなかったわけじゃない。でも、もっと真剣に杖の制御を学ばなくてはならない。それには、ある程度の破壊に耐えうる場所が必要だ。学長に相談してみよう。
「仕方ありませんわ。それこそ一年生ですもの」
そう言って、少し笑う。顔色がちょっとだけよくなった。グーグーの毛をわしっとつかんでいるけれど。襟元の毛をむしり取られる勢いでつかまれて、グーグーの顔が引きつった。頑張れ。
その時、扉がたたかれ、スティルペースがヴィルトトゥムと一緒に入ってきた。
「ルセウス、パンタシア。今日は大変だったな。ちょっと聞きたいことがあるのだ。ヴィルトトゥムに同席してもらうので、気兼ねなく話してもらいたい」
二人とも顔がかなり険しい。
「まず、疲れただろう。大変だったな。まだ回数をこなしていないのに、あんな目に合うとは」
二人が席につき、ヴィルトトゥムが結界を作動させる。遮音効果のある、結界だ。しばし口を噤んだ後に、スティルペースが労ってくれた。
「ところで…、ワシが渡した茶はルセウス・ミーティアがいれたと聞いたが、確かか?」
「ええ。僕が淹れました。もっとも、注いだだけです」
均等に注いでみんな飲み干した。結構おいしいお茶だった。
「何か、気づいたことはあったかね?」
あの時を思い浮かべ、記憶に残っているものをたどる。特に変なことはなかった。毒消しの匂いがして、多分食中毒の予防なんだろうな、と思ったくらいだ。慣れていない人間だと、そういうこともある。
「そんなに、変わったことはなかったと思います。ただ、ドメスティカの葉を使ってるから、高価だなって」
ドメスティカの葉はこの国では採れにくいから、やや高価だ。そして、食中毒は確実に防ぐけれど、いささか効果過剰なのである。あれは毒消しだ。食中毒予防にはルチャの茶を入れるだけで十分なのに。
「そうだ。ワシが作ったのはルチャとハモミラを錬成した茶だ。ドメスティカは食中毒程度では使わんな」
つまり、大事にならないように茶にドメスティカが混ぜられていたことになる。そして、どこかで毒を摂取した。
「インヴィはお茶を飲んでいないとのことでしたね。飲んでいたら、多分、吐き気程度だったでしょう」
二人で顔を突き合わせ、僕らを外に置いて話している。些かムッとしつつも、先ほどから黙っているターシャが気になって、ちらり、とみると、グーグーをぎゅっと抱きしめ、その前で、両の拳が白くなるほど握っていた。
「どうしたの? ターシャ」
彼女は意を決したように先生たちの方を向いた。
「スティルペース先生、わたくし…、少し気になることがありますの」
「何だね、パンタシア?」
「…助手の方、いっぱいの引き出しを開けているようで、二つしか開けてませんでした。アルボルさんは、そこは開けた、といわれて引き出し自体開けてませんでしたの」
彼アルボルが開けたのは扉だけだという。何もできなかったと緊張していた割に、よく、聞いていたものだ。
「君は引き出しとは反対側にいただろう。見ていないのになんでわかる?」
いぶかし気に問われ、緊張した彼女はまたぎゅっとこぶしを握る。あまり先生に意見したことが無い様だった。
「……わたくし、ヨクラートル家のアドラルとは従弟ですの。あちらの家庭の事情で一緒に育ちました。同じような教育を受けています。…だから、音の違いは分かるのです」
彼女は、実に正確に音を聞き分ける耳を持っているらしい。それによると、引き出しの音は二種類。位置や中身のつまり具合で音が異なるという。言われてみれば、いっぱいは言った引き出しと、空っぽの引き出しでは音が違う気がする。
「そうか、ヨクラートル家は音楽系の家だったな。そうすると、わざと見つからないふりをした、ということか?だが、ルセウス・ミーティア、お前がワシにヒュッタニアの雫を渡したな」
「あ…はい。正確には、そこの…ちょっと苦しそうな犬ですけれども…」
薬を持ってきたのは、グーグーである。彼らが慌てていた前後だ。どうしよう、と思っている間に持ってきた。本当のところを聞きたいが、どうしたものだろうか。
「ああ、護衛の役目をしているというお前の魔法生物だな。話が聞きたいな。通訳士を呼ぶか」
数は少ないが、魔法生物の通訳士はいる。だが、本当のところはグーグーは話せる。どうしたものか。思案しつつ、すがるような目をターシャに抱えられているグーグーに向けた。
≪あー、んじゃ、俺が精霊になりかけの魔法生物のふりしてやるよ≫
それならばさほど不自然ではないだろうという。お前ならばそう言うこともある、と受け入れられるだろう、といわれた。失礼な!
「あーあー…。俺、話せんだけど」
可愛らしい犬の姿のまま、いきなり人のように話し始めたグーグーにターシャはショックを受けたようで、そっと手を放す。心なしか引いているようだ。
「なんと、おぬし、なりかけか!貴重な魔法生物だのぉ。いや、うらやま……うぉっほん!して、何を見たのじゃ」
ヴィルトトゥムの咎めるような視線を受け、グーグーに問いかける。なんだか、グーグーに目を付けられたんじゃないのかなぁ。ちょっと、いやな予感。
「ヒュッタニアの匂いをたどったら、一番下の引き出しに入ってたんだよな。上で人間がバタバタしてるから、引き出し空けてこいつに持ってったってわけ。ガキの前で死人が出るってのはよくねぇだろ」
したり顔でグーグーが言う。いつか特技は暗殺、と聞いた気がするんだが、何を良識ぶっているのか。
「グーグー、君は何か変なにおいをかぎませんでしたか?」
「寝てたし、菓子をわけてもらったからよくわかんねーけどさ、前の羊皮紙と似たよーな匂いがしたなぁ。薄いけど」
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僕とターシャは解放されたが、あの後、二人は急に話を打ち切って、出て行ってしまった。学長のところにでも行くのだろうか。そして、他の一年生はまだ帰ってこない。
「耳、いいんだね」
「そうね。わたくし、アディよりも耳がいいの。それが、ちょっと面倒なんだけれど」
少し悲しそうにターシャがうつむく。本当は彼よりも耳がいいのはまずいのだそうだ。悲しそうにしつつも、それでもさっきよりは顔色がいい。
「おまえさあー、母ちゃんみたいに気にしすぎるなよ。面倒見すぎだぜ。自分のこと、気にしてやんな」
開き直ったグーグーは、すっかり犬らしさを捨てて、肘をついて寝ころんだ。犬の関節じゃ、痛いんじゃないかな?不思議な格好をするもんだ。
「……この犬、口悪いわね」
「むくれんなよ、小娘。グローボみたいだぜ」
グローボはつつくと膨れ、針を出す魚だ。つんつんした様もちょっと似ているかもしれない、と思ったのが伝わったのか、僕と目があった途端にターシャは目を吊り上げた。
「あら、そう、ほーほほほ!パグナスにグローボって言われたところで痛くもかゆくもなくってよ」
そう言って、グーグーのほっぺたをぎゅいーッと引っ張る。犬型のほっぺたの割にはよく伸びた。ちなみにパグナスは鼻のつぶれた犬で、暖を取るためにご婦人に人気がある。
「ひてえなっ痛えなっ!ほのこのほむふめ小娘っ!!」
「やめてあげて、ターシャ。これで悪気ないんだから」
睨みつけ、最後に一回、ぎゅいーっと引っ張ってから離した。その途端、身をひるがえし、グーグーが壁際の個人棚が積んであるところに逃れる。
「あー、痛って~。バカ力め!……ってか、ちょっと待て」
鼻を急にクンクンさせる。ひくひくと動きが活発だ。そのあたりを歩き回る。個人の箱型の入れ物が、教室の後ろには積んである。必要のない教科書やちょっとかさばるものを置くのだ。
「……薄い魔力だ!あの、微妙な薄い魔力の匂いがすんぜ!」
そこにあったのは、オケアヌス兄妹の荷物だった。オケアヌス兄妹の上のキィは、前回僕が狙われたと思しき時も被害に遭っている。今度は何なのだろうか。妹の方はとばっちりかもしれない。
「変なにおいする?」
「まあな。薄いのと混じってんので、判別しにくいけどなぁ。つか、あとちょっとであいつらも帰ってくんだろ。その前に、ちょっと覗いてもいいか?」
思わずターシャと顔を見合わせるが、入ってきて、妙なことが起こっても嫌だ。その前に対処したほうがいい。
「……確認、しておいた方がよろしいですわよね」
「うん。鐘がなるまで、あと十五分くらいかな。確認したほうがいいね」
二人で思わずじっと見つめてしまった。
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