年明けこそ鬼笑う

錦魚葉椿

第1話

 高橋美咲。聞きなれた名前。

 でも、日本中に“高橋美咲”は結構な人数いそうな気がする。


 八組会――――――三年八組のメンバーが半年おきにゆるやかに集まる同窓会。本日の酒の肴は「今までに会った一番の悪女」。

 中学から大学まで一貫の男子校で半分は大学まで内部進学なので、10年は一緒に過ごしている。仲間の結束力は鉄壁だ。店も決まっている。店長は少し年を取った。

 内部進学組は“高橋美咲”のことをよく知っているようだ。

 俺は大学で外部に進学したので、それ以上の事情はよく分からなかった。


 人の輪の中心から離れた立ち位置で、少しぬるくなったビールを口に含む。

 昔からクラスの中心にいた翔太は今もそのノリで、居酒屋中にいきわたるような大声でがなり立てている。

「ウッディなんか可哀想だよ。美咲に卒論代筆させられてんの」

 俺の向かいに座っていたウッディは急に名前を呼ばれてびくっと肩をすくめた。

 ウッディは例のカウボーイ人形に似ているとかそういった事情はない。色白でぽっちゃりとした体形のサブカルチャーを愛する堂々としたオタクだ。虎宇大こうだいという前衛的な名前を少しばかりもじったあだ名で呼ばれている。

 彼は抜群の成績と二次元を愛しぬく振り切ったライフスタイルで皆に一目置かれている。

 小学生のころ吃音をきっかけに、女子から苛烈を極めるイジメにあって、彼は女性に怯え、一時期は電車にも乗れなくなったため、彼の両親は寮もある男子校を選んだ。

 彼は成績が抜群に良かったが大学の外部進学をしなかった。女性に近づかないといけない機会を極力回避するために、新しい環境を選択しなかった。仕方ないことかもしれない。

 ウッディは今でも、人と視線を合わせることができない。

 内部進学の同級生とサブカル界の友人達に守られて何とか大学を切り抜けた。

 就職活動こそ苦労するんじゃないかとみんな心配したが、意外とすんなり電気通信関係の会社で働いている。

“高橋美咲”は相当有名人のようだ。

 授業ごとに彼氏がいたとか、誰にでもハグをするゼロ距離感だとか。

 ウッディの卒論で首席卒業したとか。

「・・・み、美咲ちゃんは、悪くないよ・・・」

 下を向くだけでずり落ちる分厚い眼鏡を押し上げながら、ウッディは誰にも聞かせるつもりがないような小さい声で呟いた。

「悪くされたわけじゃないんだな」

 その独り言を拾った。

「しゅ、就職のアドバイスをしてもらったお礼に、データのまとめ方を教えたりしたから、ギブアンドテイクだったんだ。俺がこんなビビりだから、美咲ちゃんがたかっているみたいにみえたらしい。も、申し訳ない」

「“美咲ちゃん”は美人か?」

 ウッディはちらっとだけ俺の顔を見た。

 顔はまだ見たことない、と正直に白状した。

「でも、爪がとてもきれいだよ。マテバシイみたいに艶があって完璧な楕円形」

 ウッディとしては最大級の賛辞なのだろうが、ネイルがドングリに似ていてきれいと褒められてテンションの上がる女は多分いない。



 こないだの同窓会のせいで、俺の中で冷えてしまった感情がある。

 隣の部署に半年前に異動してきた“高橋美咲”。

 卒業大学と年次を確認して、やはりくだんの“高橋美咲”と同一人物らしいという結論に至った。

 もう少し近づいたら付き合えるんじゃないかという下心が冷えて固まり胃袋の下あたりに横たわっている。

 ちょっと浮かれていた自分が、酷く恥ずかしかった。

 コンビニで夜食を買って職場に戻るエレベーターの中で我知らずため息が出る。

 ここ二週間は、彼女に頼まれたプレゼン資料を作るために完全なサービス残業に取り組んでいた。サービス残業というのは間違っている。会社に指示されたわけじゃない。個人的に“高橋美咲”に頼まれた。

 いや、頼まれたのでもない。

 やってやるよ、と自分からいい格好して引き受けた。

 思ったより結構なボリュームだった。通常業務の後にやるから日も変わるような深夜になる。それでも腹の立つことに、この仕事が楽しかった。


 就職して5年。ルーティンの営業は向いてないんじゃないかと思うようになっている。そこそこの成績は出せるが、ちっとも気持ちが盛り上がらない。

 味のない栄養機能食品を食べ続けているようなつまらなさ。

 給料も悪くない。社風も悪くない。ただ仕事がつまらない。転職するほど差し迫った熱い不満でないだけに気持ちの始末に困っている。

 このままでいたらいけない気はしているが、直視する勇気もなかった。


“高橋美咲”は多分美人ではない。

 多分、というのは素の状態は見たことがないからだ。

 別に日焼けしている風ではないのに濃いベージュ色の肌をしていた。海外育ちだと言っていたから少し遠い先祖にラテン系が入っているのかもしれない。顔はけだるげな垂れ目の半眼で、それをカバーするためなのか精密なアイメイクを重装備している。

 ややバランスが悪いほどふっくらとした頬。

 ぼったりとした肉厚の唇。

 化粧を落とした顔を見たらびっくりするだろうな、と考えてふっと苦笑が漏れた。

 瞬間、俺が座っているオフィスチェアーが少し傾いだ。

 見上げたら、例の“高橋美咲”、高橋さんだった。

 彼女は俺が座る椅子の背もたれに手をかけて、俺の肩越しにモニターを覗き込む。

 気配のないところから妖怪のように登場され、びっくりして声も出ない。

 彼女は少し近眼の目を細める。

 深夜のがらんとした事務所の中で、俺の机の真上にだけ灯された明かりがまるでスポットライトのようだ。

「すっごい頑張ってくれてる。ありがとうっ」

 突如、力いっぱいハグされ、もっちもちの乳の威圧感に一瞬心拍が停止した。

 あちこちから蒸気を噴出している脳の回路を再起動させ、ああと曖昧に相槌を打った。

 一枚顔面の皮膚をめくったら、恐怖と煩悩で心境はめちゃくちゃだ。

 そんなことには関知しない様子で、彼女は勝手に作りかけの画面をスクロールしながら資料の出来上がりを確認している。

「特にこの辺、すごくいいと思う」

 人差し指でモニターをカツンと叩いた。

 それは特に俺がこだわって時間をかけた部分だった。

 そこを押さえてこられたら、惚れてしまわざるえないだろう。

 モニターを指し示す指はとてもきれいな爪をしていた。雪の結晶のパーツが入ったネイルだった。

 ――――――ああそうか。

 ウッディも同じようにしてやられちゃったんだなあ。これは致し方ないなあ。


 プレゼン資料はプロジェクト検討会で通ったらしい。

 帰り際、高橋さんに飲みに行こうと誘われ、日本酒の美味い焼鳥屋を提案した。

 大学の友達としかいかない路地裏の小さな店だ。

 これ以上距離を詰められたら、本気で好きになってしまう。髪が臭くなるとか服が臭くなるとかいって女なら来ないと思ったら、彼女は喜んでついてきた。

 完全に作戦は裏目だった。

 熱燗を銘柄指定して美味しそうに飲みまくる彼女の様子に店長も気をよくし、おすすめをサービスしてくれた。信じられないぐらいうまい酒だった。若い女の子なんかめったに来ないから店長のテンションもだいぶおかしかった。

「高橋さんさあ、すごく仕事頑張ってるけど、なに目指してるの」

 高橋さんは武骨な黒い焼物の盃に唇をつけて、楽しそうに一口舐める。

 器にキスするようにセクシーだった。

「ん、社長かな」

 あまりのスケールのでかさに店長も俺も度肝を抜かれる。

 うちの会社、日本だけでも何万人も従業員がいる。ちょっとした市町村より大きい。

 そういわれてみたら、なぜ目指しちゃいけないのかわからないが、社長を目指していますっていう同僚に会ったことない。

「みんな笑うけど、おかしいかな。足がちょっと速かったり、柔道ちょっと強かったら、金メダル目指してますって誰でもいうじゃん。それと一緒」

「ははは、いいねえ、美咲ちゃんならやりそうだ」

 店長も一緒に飲みだしてベロベロになり始めている。

 ああ、店長もやられている。




 プロジェクトの正式メンバーでない俺は聞いていなかったが、プレゼンは双方の役員同席のとても規模の大きなものだった。手ごたえは上々で、美咲はいつもの感じで客先の役員とも熱いハグを交わした。サンタクロースのような体形の恰幅のいい西洋人役員の鼻の下も伸びていた。万国共通のボディランゲージ。

 直前に突然呼び出され、オブザーバーで参加させられた俺は求められた説明も冷や汗をかきながらも答えることができた。

 俺は入社五年目では会うこともないような偉い人から褒められて、顧客に対してよりそのことの方がよほど緊張した。

 次の日、俺は上司に呼び出され、勝手に他部門の仕事に協力していたことに関し大目玉をもらい、始末書を書いた。

 部署の女性たちには「わかりやすい色気に騙されたバカ」と嗤われた。

 俺は平気だった。

 あの色気は騙される価値のある色気だからだ。



 俺は春からの異動の内示を受けた。

 始末書の提出を求められたから訓告か懲罰的異動には遭うだろうと覚悟はしていたが、そうではなかった。

 呼び出されたのはミーティングスペースではなく、応接室で、待っていた人は直属の上司でも支店長でもなくプレゼンの時に会った取締役だった。

 彼の手元には俺が出した始末書があった。

 椅子を勧められて、腰を下ろしたら、先日のプレゼン資料の出来を褒められた。

「美咲ちゃんが、君は営業よりこっちのほうが断然向いているというんだよ。私もそう思うから」

 美咲ちゃんって、――――――この人もヤられている。

 異動先は本社の営業サポート部門だった。社内外のプレゼン資料の作成を専門でやる部署らしい。俺は椅子から即座に立ち上がり、頭を下げて一息でありがとうございますと答えた。

 彼はにっこりと笑い、俺に始末書を返してくれた。




 正月休みを終えて出社したら、辞令が貼りだされていた。

 ――――――高橋美咲殿 プロジェクト責任者としてアメリカ赴任を命じる


 あいつはきっとやる。

 何十年後か、それよりもっと早く。

 彼女とハグしたことが、自慢になる日がくる。

 次の同窓会で、俺も美咲ちゃんにヤられた。と報告しよう。

 ウッディだけじゃなく、本当はきっと翔太もそれ以外の奴もヤられているに違いないから。

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年明けこそ鬼笑う 錦魚葉椿 @BEL13542

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