暁に響く怨念の声-9
ピピピピピピピピピッ!
「う、うーん……」
耳障りな電子音が、俺の鼓膜を劈いた。
頭がぼーっとするあまりに思考が働かなかったが、時間が経つにつれて少しずつクリアになっていく。
「……そっか、朝か……」
こんなにも眠い朝を迎えるのは、果たしていつぶりだろうか。
体内時計に身を任せて生活してきた俺にとって、無理矢理起こされるような感覚にはいまいち馴染みがない。
それでも何とか身体に鞭を打って上体を起こし、枕元に置いてある携帯電話のアラームを止める。
時刻は…………五時十分。日によってはこの時間帯に起床することもなくはないのだが、それでも自然に起きるのと、無理矢理起こされるのとでは訳が違う。
「……眠い」
ひとまず残存した眠気を完全に吹き飛ばすべく、洗面所で軽く顔を洗った。
それからジャージに身を包み、冷蔵庫に入っているミネラルウォーターで乾いた喉を潤す。
最後に携帯電話を手にして、準備は完了。
あとは、何事もなく無事にお悩み相談が解決することを祈るばかりである。
★ ★ ★
時間帯が時間帯だけに誰とも鉢合せになることはないだろうと思っていたのだが、学生寮の出入り口を前にしてその予見は早速外れることになった。
「おはよう、萱! 朝早いな!」
早朝から爽やかな発声で挨拶を口にしたのは、いつぞやの聞き込みでお世話になったサッカー部のキャプテン、南川俊介だった。
「ああ、おはよう。そっちこそ早いな」
「俺はこれから朝練だ」
そう意気込むように口にしながら、ニカっと笑みを浮かべるサッカー部のキャプテン。実に爽やかである。
それはそれとして、いくら朝練とはいっても時間帯としてはかなり早い。
運動部というのはそこまで過酷なのだろうか。
そんな俺の胸中を察したかのように、南川は答えてくれた。
「朝の全体練習は七時からなんだけど、それより早い時間から自主練習する人も結構いるんだよ。とはいってもさすがにこんな早い時間から練習する人は稀だけどな。俺だって今日はたまたま早く目が覚めたからこうして出てきただけだし」
「なるほどな」
何となく気になって寮の外に出てみると、そこでは五人の生徒がウォーミングアップに励んでいた。
詳しい割合は知らないが、寮生の少なくとも半数以上は運動部員であることを鑑みれば、今この場にいる運動部員の数はごく少数と言えるだろう。
加えて会話が少ないことから、部活や学年も様々であり、固定メンバーというわけでもなさそうだ。
「ところで萱は……やっぱり同好会の件でこんな時間に?」
「ああ。例の『女の人の低く震えた声』を直接聞けまいかと思ってな」
「そうか…………」
南川はそう一言呟くと、どことなく気まずそうな表情を浮かべた。
「どうした」
「ああ、いやな。俺もあの後色んな運動部員に聞いてみたんだけど、例のホラー染みた女の人の声が聞こえてきたという話はなくてな……」
南川は、今もなおウォーミングアップを続けているひとりの男子生徒を指差す。
「特に彼は毎日のようにこの時間帯から自主練習を行っているらしいんだが、やっぱり聞いたことがないっていうんだ」
「そうか……」
毎日この時間から朝練を行っている部員の証言。確かにこれはかなりの説得力がある。
そしてその部員の証言を踏まえて鑑みれば、俺がこれからやろうとしていることは十中八九徒労に終わる可能性が高いと言える。南川も同じ考えに至ったからこそ、先程気まずそうな表情を浮かべたのだろう。
しかしながら、こっちとしてもその証言を鵜呑みにして調査を中断するわけにはいかなかった。
「情報ありがとう。だけど一応、自分の足でも調査してみるわ。悪いな」
軽く謝罪の言葉を添えることで、南川の心中を察したうえでの行動であることをアピールする。
南川は再び気まずそうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔へと切り替わった。
「わかった。何か情報が見つかると良いな」
そんな南川の言葉に軽く手を挙げつつ、俺は林の方へと向かった。
★ ★ ★
時刻は五時半。
およそ日の出から三十分といったところだろうが、それでもまだまだ肌寒い。
時折吹くそよ風はひんやりと冷たく、思わず身震いしそうになる。
―――もう一枚中に着込めば良かったか…………。まあこのまま歩いていれば体温も上がってくるだろう。
そんなちょっとした後悔の念と楽観的な思考を抱きながら、俺は林の中を進んで行く。
現時点では案の定、『女の人の低く震えた声』と思しき音は耳にしていない。
それ以前に辺りは静けさに包まれており、強いて言うなら、風に揺れる葉擦れの音が微かに聞こえてくる程度である。
さてさて。ひとまずはこのまま芝生の広場を目指しながら、今一度頭を整理することにしよう。
果たして、『女の人の低く震えた声』の正体は一体なんなのか。
それを考えるうえでやはり外せないのは、当初から度々説として唱えている『幻聴説』である。
今まで調査を行ってきた中で『女の人の低く震えた声』を聞いたことがあるという証言が得られていない以上、当然ながらこの説は浮上してくる。
しかしこの説を立証できたとして、今まで自分が聞いてきた声が実は幻聴だったと知らされたら、白上は少なからずショックを受けることになるだろう。加えて精神的な病を患っている可能性を考慮せざる得なくなり、解決してもなお後味の悪さが残ること請け合いである。
故に、俺としてはあまりこの説を歓迎したくはなかった。だからこそ俺は、南川や朝練を行っている生徒の証言を鵜呑みにして、今回の調査を中断するわけにはいかなかったのである。
ちなみに今回の調査で白上を同行させなかった理由もこれにある。二人が一緒にいる状態で、俺自身が何も耳にしていない中で白上が「声が聞こえた」と発言したらほぼほぼこの説は立証されることになり、俺の反応次第では白上も察することになるだろう。
もちろん、説を立証した暁にはその旨を白上に伝える義務はあるが、それにしたって伝え方やタイミングを計るぐらいの猶予は欲しい。
―――それ以前に、『幻聴説』を否定できれば良いんだがな……。
そんなわけで、俺の希望的観測としてはやはり『女の人の低く震えた声は実在する説』を強く推したい。
もちろん、幽霊のようなオカルト的な存在ではなく、純粋な人の声である。
この説を立証するためには、これまで得てきた証言との矛盾を解消しなければならないわけだが…………そこに関しては現状どうしようもないので、一旦は度外視する。
ここで考えるべきは、声の主はどのような理由でホラー染みた声を上げるのか、である。
例えば、白上を怖がらせるためにわざと聞かせてる…………とかはどうだろうか。
白上が毎朝倉庫裏で乾布摩擦をしていることを知っていれば、狙って聞かせることは容易いだろう。
けど、もし怖がらせるのが目的だとしたら、もっと別のやり方があるのではないだろうか。毎日わざわざ早起きしてやることが、ホラー染みた声を聞かせるだけっていうのは、どうもしっくり来ない。
しかも白上曰く、声自体は倉庫越しに聞こえてくるとのこと。倉庫越しということはすなわち、白上が怖がったり怯えたりする姿を直接見ることはできないということだ。
白上がどういう反応をしているのかを見て楽しむわけでもなく、ただただホラー染みた声を聞かせるだけ…………うーん、どうもその線は薄いように感じる。
かと言って、怖がらせる以外の目的でわざと聞かせる理由というのも正直見当たらない。
となると、白上がホラー染みた声を聞いたのはあくまで偶然ということだ。
偶然ということはすなわち、声の主は白上のことを認識していなかったことになる。
だが、白上が毎朝声を聞いているのは、人が歩くことを想定していないような雑草だらけの道を歩いた先にある、言わば荒地に鎮座した倉庫の裏である。それこそ白上があそこにいることを知っているか、あるいは白上のように人目が付かない場所を探す目的でも持っていない限り、あの荒地に踏み入る機会はないだろう。加えて、白上が人影を目撃したという証言をしていないことも踏まえて考えれば、声の主が荒地に踏み入ってホラー染みた声を上げている可能性はほぼないと言って良い。
しかし白上は、体感的には声の出処は近いと言っていた。
荒地に声の主はいない。だけど声の出処は近い。
一見すると矛盾にもとれるふたつの情報。これでは『女の人の低く震えた声は実在する説』を立証することは不可能かと思われた。
だが、そんな中で一筋の光明が差し込んだ。
それが、例の芝生の広場である。
林の中を歩いているときは気付かなかったが、芝生の広場と荒地は思いの外近い距離に位置していることがわかった。また、荒地から視覚的に捉えられる程度には遮蔽物が存在しないことも加味すれば、芝生の広場から倉庫裏まで悠々と声も届くはず。
しかも荒地と違って、芝生の広場は舗装された林道を道なりに進んだ先にあるため、誰が踏み入ってもおかしくない。
そう。俺の推理はまさしく、『声の主は芝生の広場から声を出している』である。
後は今日の早朝に芝生の広場に行き、その人物を突き止めればすべて解決…………すれば良かったのだが、そう簡単にはいかないわけで。
「まあ、そりゃあそうだよな」
いざ芝生の広場に到着したは良いものの、そこには人っ子一人いなかった。
当然と言えば当然か。そもそも俺の考えは推理と呼称するにはあまりにも根拠に乏しく、あくまで希望的観測に基づいた憶測に過ぎない。
依然としてこれまで得てきた証言との矛盾も解明できていない中で、声の主がいることに期待するのはいくら何でも都合が良すぎるってものだろう。
でも、せめて何か情報のひとつでも転がっていないだろうか。そんな期待を胸にして、手近なベンチへと歩み寄る。
しかし残念なことに、ベンチの座面には砂埃が薄く積もっていた。しばらく誰も利用していない証拠である。
―――やっぱり、希望的観測は所詮、希望的観測ってことか。
そんな諦念に近い心情を抱きながら芝生の広場を外周に沿って歩いていると、遠くからリズムの良い張りのある声が聞こえてきた。
先程の運動部員達の、ランニングの掛け声か何かだろう。
それにしても結構なボリュームである。この時間からこれだけ大きな声を出して問題ないのか疑問だが、まあ大丈夫なんだろう。少なくとも俺自身は、迷惑を被った覚えはない。
―――……あれ?
そのとき。ふと、違和感のようなものを覚えた………気がした。
曖昧な物言いになってしまったのは、違和感の正体を掴めなかったからである。
けれど、運動部員たちの声を耳にしていると、どことなく引っ掛かりを感じる。
声自体は溌溂としているため、白上がこの声をホラー染みていると表現したとはさすがに考えづらいが……。
―――何だろう。この感じ……ん?
そんなモヤモヤした心情を抱きながら歩いていると、ふと気になる光景が目に飛び込んできた。
これまで俺は三つのベンチを尻目に見てきたが、いずれも座面に砂埃が薄く積もっており、人が利用している形跡が全く見当たらなかった。
しかし、四つ目のベンチに関してはその限りではなかった。
―――これは……。
荒地から最も遠い場所に位置するそのベンチだけは、やけに座面がきれいだった。
いや、それどころか、まるで砂埃を払ったような跡まで見受けられる。
―――誰かいたのか?
そして気になる光景はそれだけではなかった。俺はわずかに視線を落とす。
この辺りの地面一体は『芝生の広場』と呼称しているだけあって当然ながら芝生が広がっているわけだが、ベンチの下とその周りだけは芝生は植えられておらず、土が露わになっている。
そこに残っているのだ。足跡が。
…………背もたれの後ろ側に。
―――なぜこんな所に?
通常のベンチの使用用途を考えれば普通は座面の前に、あるいはこのベンチはひじ掛けが設置されていないため、寝転がるような体勢になればベンチの側面に足跡が付くことはあるだろう。
けれどなぜか、背もたれの後ろ側に足跡が残っていた。それもまるで地団太でも踏んだのかと言わんばかりに、何回も踏み鳴らしたような跡が残っている。
その理由は正直わからない。わからないが―――
―――ここに人がいた痕跡が残っていること自体、俺にとってはありがたい情報だ。
心なしか、少しずつ『女の人の低く震えた声は実在する説』に近づいている気がしてならない。
俺は目の前の光景を忘れぬようにしっかりと目に焼き付け、倉庫の方へと向かった。
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