暁に響く怨念の声-5
乾布摩擦―――それはいわゆる民間療法、健康法のひとつであり、乾いたタオルで直接肌を擦る行為のことを差す。詳しいメカニズムは知らないが、身体の免疫力を上げたり体力を向上させるなどの効果をもたらすとか何とか。
俺自身、知識としては知っているものの、実際に乾布摩擦を経験したこともなければこの目で見たこともない。
故にあくまでイメージに過ぎないのだが、乾布摩擦と聞くと上半身裸になって後ろ手で背中を擦る画がどうしても思い浮かんでしまう。
そして俺は無意識に、そのイメージを白上に置き換えて想像してしまった。
「…………」
気まずい沈黙が部室を支配する。
白上は回答を終えたと言わんばかりに口を閉ざして俺たちの反応を待っていた。
俺は良からぬことを想像をしてしまったことに対する罪悪感と、白上の無頓着さに対する不安感が綯い交ぜになり、どう反応すれば良いのかがわからなくなってしまう。
うまいことこの微妙な空気感を収めてほしい。そんな願いを込めつつ、俺は隣の人物に視線を向ける。するとその人物……黒田と目が合った。
彼女はすでにこちらに視線を向けていた。意味ありげに微笑みながら。
「童、白上さんが乾布摩擦するところ想像してたでしょ。変態だねー」
「いや、ちがっ」
黒田のおちょくるような発言に反論しようとしたが、すぐに口を噤んだ。想像してしまったことは事実なので、反論するのは憚れたからである。
だが、そんな中途半端な反応が却って黒田の嗜虐心を煽ってしまったらしい。彼女はさらに笑みを深めた。
「ほら、やっぱり図星なんでしょ! 白上さん、気を付けた方が良いよ。この人、こう見えて結構ムッツリスケベだからねっ」
俺を揶揄うだけに留まらず、あまつさえは白上に変なイメージを植え付けようとしていた。
「ムッツリスケベ!」
「……ムッツリスケベ?」
何とも不愉快なコールアンドレスポンスである。
ただでさえ初見で良いイメージを持たれないのに、変な誤解を生んでしまった暁には完全に信頼を失うことになってしまう。今後とも白上とは適宜コミュニケーションを図るのは必至であるため、それは避けなければならない。
黒田もそれはわかっているはずだが…………あるいはお前の出る幕はない、ということだろうか。
「ムッツリ!」
「……ムッツリ?」
「スケベッ!!」
「スケベ」
…………いや、単純に後先考えずに楽しんでいるだけだなこりゃ。
そしてコールアンドレスポンスが徐々に様になってきた。白上の表情とテンションは相変わらずだが、彼女も意外とノリが良いらしい。
と、何度か黒田とのコールアンドレスポンスを行った白上が、ふとこちらに目線を向けてきた。
「……ムッツリスケベなんですか?」
何ともストレートな問いである。
だが、ここでようやく否定するチャンスが貰えた。黒田が余計な口を挟む前に、俺は慌てて彼女の問いに答えた。
「俺はスケベかもしれないが少なくともムッツリじゃねえ!」
…………
再び沈黙が場を支配した。
最初は何事かと察することができなかった俺だが、今今自分が発した言葉を脳内で繰り返したことで、その原因を突き止めることができた。
―――逆じゃないかっ!
自分は他人と積極的にコミュニケーションを図るタイプではないため、ムッツリな点については否定しまいと思ったのが仇となってしまった。
つまるところ、俺はこういう発言をしたことになる。
「俺はめっちゃ感情豊かで口うるさいうえに変態だ!」
あまりに酷すぎる告白である。自虐ネタにしたって笑えないレベルだ。
案の定、白上は呆然と固まってしまった。いや、普段沈黙しているときと変わらぬスタンスなのかもしれないが、胸中に焦燥感を抱いた今の俺ではどうしても良い方向に捉えることができなかった。
十数秒ほど経っただろうか。白上はゆっくりと動作を開始した。
両手で自分の身体を抱き、半身となって椅子の背もたれに寄り掛かる。
そして、はっきりと口にした。
「変態」
瞬間、俺の中の何かが崩れ落ちる音がした。
白上から放たれたシンプルな罵倒の言葉が、確実に俺のメンタルを傷つけた。
世の中には異性から罵倒されたり貶されることに快感を覚える人がいるらしいが、少なくともそいつらとは分かり合える気がしない。
隣を見ると、黒田が机に突っ伏しながら肩を揺らしていた。彼女としては堪えているつもりなんだろうか、思いっきり笑い声が聞こえている。
この悪女のせいで、俺の信頼は失墜したのだが……わかってるんだろうかこいつ。
と思った矢先、別の人間からも笑い声が聞こえてきた。
「ぷっ、くく……うふふふ」
今この場にいるのは、俺と黒田を除けば当然一人しかいない。
「うふ、ふふふ、あはははははっ」
今までの無機質さはどこへやら。そこには幼げな見た目相応に、楽しそうに甲高い笑い声を上げる白上の姿があった。
「あはは、はー、おっかしーっ! 変態、くく、萱先輩って変態……なんだ、あはっ」
あまりにも今までとのギャップが凄すぎて、驚愕をせざる得ない。
思わずぼーっと白上の姿を眺めてしまう。しかし、彼女は俺の視線何かそっちのけで目に涙を浮かべながらなおも笑い続けていた。まるで、今まで押し込めていた感情を思いっきり発散するかのように。
「ねー。ほんとおっかしいね!」
黒田は顔を上げて、白上にそう声をかけた。その目は優しくて暖かで、まるで慈愛に満ちたような眼差しだった。
―――もしかして……。
俺は再び白上に視線を向ける。今こうして天真爛漫な笑顔を浮かべて笑い続けている姿が本来の彼女の姿なのだとしたら、それを導き出したのは黒田ということになる。あるいはそれを意図してやったのだとしたら―――
―――この人は……また見抜いたのかというのか。
俺に続いて、白上の心情も看破して見せた。やはり彼女の慧眼っぷりは凄まじいものがある。
最初は俺と同じ人種なんじゃないかとも思ったが、それは単なる勘違いだったらしい。彼女は恐らく、上級生との対峙に緊張してしまっただけなんだろう。そしてその緊張を黒田は見事解いて見せた。
俺は改めて思い知らされた。
―――やはり……この人には叶わないな。
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