青春の始まり


「以上でホームルームを終わりにする。みんな、気を付けて帰れよー」


 担任のその一言で、教室内は一気に喧騒に包まれた。

 授業という拘束時間から解放され、放課後という自由時間を手に入れた生徒たちが、思い思いに行動を開始したからだ。

 そそくさと部活に向かう者。友人と談笑を始める者。担任のもとに行き授業でわからなかった箇所を聞きにいく者。各々が好き勝手に動き回る姿を見ると、皆がいかにこの時間を待ち望んでいたのかがよくわかる。


 俺は……この時間が大嫌いだった。


 自由時間というのは、やりたいことに思う存分時間を費やすことができるから魅力がある。

 逆に言えば、やりたいことが一切ない空虚な人生を送っている人からすれば、ただの退屈な時間の始まりに過ぎない。

 そして、俺も空虚な人生を送っているひとり。故に、この時間が大嫌いだった―――


 ―――と、先週までの自分はそう思っていた。


「……行くか」


 俺は帰り支度を終えると、小さい声でそう呟く。それから席を立ち、誰とも言葉を交わすことなく教室を出た。

 三年生の教室は校舎の一階にあるため、教室を出ればすぐに昇降口が視界に入る。今までの俺なら、そのまま昇降口に直進し帰路に就いていたのだが……先週からその習慣は変わっていた。

 昇降口とは逆の方向……すなわち廊下の奥へと進んでいくと、渡り廊下がある。

 その先に繋がっているのは、旧校舎だ。

 新校舎と並んで建っている旧校舎は現在部活棟として使用されており、文化部を中心にいくつかの部活が活動拠点としている。そのため、旧校舎と言えど放置されているわけではなく、人の手で管理が行われていた。

 なので、歩を進めるたびにギイギイと床が鳴ったり、一部窓ガラスがひび割れていたりと木造校舎らしい古めかしい雰囲気こそ漂ってはいるが、清掃はしっかりと行き届いている。

 しかし、それはあくまで一階と二階の話だった。


「んー……相変わらず埃臭い……」

 

 旧校舎の最上階である三階に突入すると、打って変わって不衛生な空間が広がっていた。

 窓から差し込む陽の光は、廊下に無限に浮遊している埃ひとつひとつを正確に捉えている。壁際には所々に蜘蛛の巣らしきものも見受けられた。あえて探そうとは思わないが、虫の死骸が落ちていてもおかしくない。

 旧校舎の本来あるべき姿を映し出さんとばかりの惨状である。

 この光景が物語っている通り、三階に関しては全くと言っていいほど人の出入りがない。

 旧校舎の昇降口も渡り廊下も一階に設置されているため、距離的に近い一階と二階に部室が集中している。しかも空き教室はまだまだ確保されているため、仮に新しい部活が創立されても、一階か二階に部室を構えることができる。

 そのため、距離的に遠いうえに、汚らしい空間が広がっている三階に好んで足を運ぶ人なんて、普通はいないわけだ。

 ……そう、普通は。


「なんでこんなところに部室を構えたのか……」


 階段で三階に上がり、さらに廊下の最奥……つまり距離的に最も遠い場所に足を運ぶたびに、そんなことを嘆いている気がする。


『お悩み相談会』


 部室の窓いっぱいに貼られたポスター用紙に、黒のマジックペンでそう記されていた。引き戸のそばには、段ボールで作成された簡易的なポストが設置されている。

 すっかり見慣れた光景を尻目に、俺は部室のドアを開けた。すると……


「やあ、わらべ


 気軽な挨拶の声が飛んできた。

 部室の中央に、まるでグループワークのように四つの席が向かい合って並べられている。そのうちの一席に、肘を付きながらこちらを見つめる少女の姿があった。

 彼女の名前は黒田くろだゆう。俺と同じ高校三年生。

 彼女こそ、この『お悩み相談会』の創立者であり、そして俺の自殺を食い止めてくれた命の恩人である。


「ん」


 俺は黒田の挨拶に対して軽く返事をし、彼女の斜向かいに当たる席に腰を下ろす。

 黒田は俺の姿を一瞥すると、読書に耽った。

 一方俺は、彼女に背を向けるようにして机に肘を付き、窓外の空の景色をなんとなしに眺める。

 こうして、穏やかな時間が流れ出す。

 いつも通りの、代り映えのしない時間が……。


 ★   ★   ★

 

 先週のことである。


「ねえ、部活入らない?」


 当時、自殺願望を抱いていた俺に対し、黒田はそんな一言を投げかけた。

 そのたった一言だけで、俺は心のつかえが取れたような気がした。

『自殺』という単語はすっかり脳内から消え去り、『部活』という単語に興味津々になっている自分がいた。

 俺の人生に全くと言っていいほど縁がなかった、青春っていうやつを味わえるのではないかと、期待に胸を膨らませている自分がいた。

 どんな部活なんだろうか。どれくらい部員はいるんだろうか。ちゃんとコミュニケーションを図ることができるだろうか。

 期待と不安が入り混じった複雑な感情を抱きながら、彼女に案内されたのが……、


 殺風景で埃だらけの部室だった。


 『お悩み相談会』。設立日はわずか一週間前。部員は黒田夕のみ。実績ゼロ。あまつさえは正式に部活として認められはおらず、いわゆる同好会という立ち位置。

 後出しで次々発覚していった部活……もとい同好会の情報に、俺は溜め息が出た。

 自分が描いていた理想の部活動とは、あまりにも程遠かった。

 まあこんなもんだよな。心の中でそう呟き、諦念を覚える。

 ひとまず、一度入部の承諾をしてしまった以上、このまま立ち去るのはさすがに後味が悪い。

 せめて数日程度は在籍し、あとは適当な理由をつけてやめよう。そして、今度こそ人生を終わらせる。そう自分に言い聞かせた。

 それからしばらく、惰性で部室に通った。

 案の定、ただただ何もない日々が過ぎていくだけだった。

 同好会としての活動は皆無。清潔感のない空間で、時折彼女と言葉を交わすのみ。下校時間になったら即解散。 

 何をしに部室に通っているのかと聞かれたら何も答えられないぐらい、無意味な時間を過ごしていた。

 だけど……そんな無意味な時間に、俺は充実を感じていた。

 そもそも今までの退屈な人生を鑑みれば、こうして同級生の女子と談笑すること自体、俺にとっては新鮮なことだった。

 そして何より、俺は同好会に入るというをした。 

 例えそれが成り行きによる選択だったとしても、生理現象と義務感に従うだけだった俺にとっては大きな意味がある。


 ―――俺は部室に通っているんだ。自らの意思を以て。


 それを自覚してから、放課後が待ち遠しく感じるようになった。時の流れに身を任せるだけの退屈な時間はさっさと過ぎ去って欲しい。早く自らの足で部室に赴きたい。そして彼女と他愛のない会話をしたい。そう思うようになった。

 彼女との関係性も少しずつ変化していった。

 最初はたまに彼女に話しかけられるだけだったのが、自分からも話しかけるようになった。世間話だけではなく、冗談を言い合うようになった。いつしか下の名前で呼び捨てで呼ばれるようになった。

 どれも俺にとっては新鮮な出来事ばかりで、故に鮮明に記憶に残っていた。

 次はどんな変化が訪れるんだろうか。そんな心持ちで部室に通い続け……。


 ★   ★   ★


 気が付けば、もう一週間が経過していた。

 

「どうしたの? ぼおーっとしちゃって……」


 と、ついここ最近の自分を省みて、感慨に耽ってしまった。

 声のした方に視線を向けると、彼女……黒田は怪訝な表情を浮かべながらこちらを見ていた。


「体調でも悪いの?」

 

「あーいや。この同好会に入ってからもう一週間が経過したんだなーって思って」

 

 嘘は言っていないのだが、感慨に耽っていたことは知られたくなかったので、思わず誤魔化すような物言いになってしまった。

 黒田は特に気に留めることもなく、俺の言葉に素直に同意してみせた。


「そうだね。もう四月も下旬に入るもんね」  


「高校生でいられるのも、あとたったの十ヶ月ちょっとってことか……」


「……うん。まあそうなるね」


 の十ヶ月。

 黒田と出会う前の俺ならその言葉を聞いてもピンと来なかっただろう。

 平凡で退屈な毎日が続いていく中で、あえて十ヶ月という期間を切り取る意味がわからなかったはずだ。

 だが、今は違う。こうして同好会に入って彼女と出会ったことで、少なくとも高校生活というものに価値を見出すことができた。

 だけど……、高校生でいられるのもあと十ヶ月だけ。

 それは即ち、十か月後にまた平凡で退屈な毎日がやってくるということでもある。

 そのときの俺は、どうなっているんだろうか……。

 再び、退屈な日々からの脱却を試みて、自殺を―――


「こらこら、先のことを考えるのは止めな」


 無意識に暗い表情でも浮かべていたのだろうか。黒田は俺の顔を覗き込む。

 そして、同級生であることを忘れそうになるぐらい大人びた笑顔を浮かべながら、彼女は優しい口調で囁いた。


「せっかく同好会という新たな活動拠点を手に入れたんだからさ。十ヶ月、目一杯楽しもうよ」


 まるで俺の心の声でも聞こえてたんじゃないかと思うぐらい、黒田は的確に俺を励ましてくれた。

 彼女の言う通りだ。未来のことばかり考えてダウナー思考に陥るのは、今まで散々と経験してきた。

 どうせなら、今までやったことないこと、今しかできないことに全力を注いだ方が良いに決まっている。

 俺は黒田の言葉に首肯した。


「そうだな。んだもんな」


「そうそう。んだよ!」


 先ほどまでの大人びた雰囲気はどこへやら。黒田はニカっと無邪気に笑った。


「まあ、同好会って言っても、毎日だらだら過ごしているだけなんだけどな」


 俺は揶揄の意味も込めて、大袈裟に肩を竦めて見せる。

 黒田もそこは否定できないようで、首肯した。


「うんうん、そうだよね。ただただ、のんべんだらりと過ごしていただけだよねー」


「?」


 俺の言葉に対して同意を示した黒田だったが、その物言いと仕草は妙に演技じみていて、何やら意味ありげな雰囲気を醸し出していた。

 何だろうと首を捻ると、ふと気になるものが視界に入った。


「ん? それなんだ? パソコンか?」


 今更気付いたが、黒田が着席している目の前の机の上に、折り畳まれた状態の黒のノートパソコンらしき物が置いてあった。

 俺がそれを指し示して疑問を呈すると、黒田は待ってましたと言わんばかりに声を張り上げた。


「その通り! 先生から許可をもらって借りたんだよ」


「何のために?」


「それはもちろん、本格的に同好会としての活動を始めるためだよ」


 と、ここで黒田は席を立つと俺に笑いかけ、そしてはっきりと言い聞かせるように言った。


「だらだら過ごすだけの放課後は、今日で終わりだよ」

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