40.カラメル
2021年 12月13日 22時19分 投稿
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行くところがあって何度か通っている道の脇に、いつも目につくケーキ屋があった。それは本当に小さい、人が2人入ればいっぱいになるほどのスペースしかなく、外からは見えるのはショーウィンドウといちご色をベースにした可愛らしい内装だけの店。ショーウィンドウに並ぶ手のひらサイズのケーキやお菓子が、特別な飾りも何もなかったけれど、通り過ぎる私の目にはおいしそうに映っていた。
「じゃあそれ買ってきてよ。お金は払うから」
話を聞いた母にそう言われて、また機会があればと返事をした。おそらくそこにはもう行かないだろうと感じていたけれど、気になっていたのは確かだったからだ。
そして、その店のあたりに行く機会は案外早く訪れた。暗い夜道にかさかさ鳴る落ち葉を踏みしめながら、私はふとその店のことを思い出した。もしかしてもう通り過ぎてしまっただろうか。振り返ってもそれらしい店はない。過ぎたなら過ぎたでかまわない、と自分に言い聞かせて歩くと、いちご色の店が見えた。私はほっとして、ガラス扉を覗いた。
幸いにも、店内には誰もいなかった。店員の影もなく、しかし明々とした灯りがぽうっと夜道まで広がっている。そのガラス戸を押して、一歩二歩奥へ進んだ。カランと控えめにベルがなる。かわいらしい、と思った。
「ちょっと待ってくださいね」
奥から枯れた声がした。意外にも、男性の声だった。私は大丈夫ですとだけ返事をして、ケーキの値札を覗き込み———そこではじめて後悔した。小さなケーキの値段が、有名なケーキショップのものと同じくらいに高かったのだ。
しかし入った以上は買うべきだろう。私はここまで来て「やっぱりいいです」と言えるほどに豪胆ではない。なるべく少ない数、しかし家族にも行き渡る数買うことを目標に、比較的安くて家族が好みそうなケーキを探していた。
そうこうしている間に男性がレジへとやってきた。彼は鼠色の髪をして、細く頼りない見た目だった。顔に小皺がたくさん寄っているのが目について、50代か60代くらいだろうと思い巡らせた。
「すみませんまた途中でオーブンを見に行くかもしれませんが」
「はい大丈夫です」
適当な返事をして再びショーウィンドウに視線を落とす。待っている無言が焦りを誘う。まだ注文が決まっていない中、躊躇いがちに口を開いて、
「えっと、抹茶のガトーショコラをひとつ。それからバスクチー、すみません、えっと……チョコレートケーキをひとつ」
視線を彷徨わせては、あれは高すぎる、これはチョコレートが被る、これは私が好きじゃない、と理由づけて選択肢を減らしつつ、どうにか最後まで注文を告げ切る。私のたどたどしい、そして迷惑極まりない注文を、彼はメモを取りつつ「はい、はい」と返事をしながら聞いてくれていた。
「わかりました。すみません少しオーブンを見てきますね」
彼が離れている間、私はしばし店内を物色した。後ろには小さな木の机があって、白い椅子が置いてあった。そして目を凝らすとその奥に細長いスペースがあって、椅子と机が隠れている。こんなに小さな店なのに、3人分のイートインコーナーがあるとは。木目を白で塗った椅子が可愛らしかった。
彼は数分で戻ってきて、すぐにケーキを箱に詰め出した。その間も私の視線はうろちょろと飛び回り、ふとステンレス製の鍋が目に止まる。下になにやら数字が表示されそうな、スケールのようなIHコンロのような見た目の台の上に、片手鍋がぽんと置かれている。料理番組で見かけるようなアレだ。お菓子作りの研究でもしているのか、レジ奥のあまり整理されていないところがちらりと見える。メモ用紙などが台上に広げられているようだった。
彼は箱を持ち上げて、ケーキを私に見せてくれた。中には三つのケーキと保冷剤、そしてシュークリーム。
「こちらの三点でよろしかったですか?」
「あの、シュークリームは」
少し間が開いて、
「それはオマケです」
平坦な声が言った。私は変な気持ちになりながらも、「ありがとうございます、すみません」ともう作業をはじめて私の声も聞こえていないであろう彼に言うことにした。
「袋はお持ちでないですね」
「はい」
ショーウィンドウの中の値札を見て、値段を計算する。千円を切った。よかった、その額なら母に請求しやすい。
「1350円になります」
一瞬放心しかけた、がすぐ取り繕ってお金を出す。当たり前のことだった。この並びで千円を切るはずがなかったのに、こんな簡単な計算も間違えるなんて。
幸運にも財布にはその金額が入っていた。お金を置いて、ケーキ屋でよく見る白い柄入りのビニール袋を受け取って、店を出た。狭いことをすっかり失念していて、荷物を机にぶつけてしまったことも、恥ずかしかった。
些細な失敗を繰り返して、自分が情けなかった。家計から相場以上のお金を引き出させてしまうことが、申し訳なかった。合わせる顔がないと思って意識がはっきりしていなかったのだろう。間違えて改札にICカードをつっこんだり、ホームの車両の長さが届かない位置で電車を待ったりしながら家に帰った。自分はお金を使うのが下手だと再認識し、すっかり気が滅入ったように弱々しかった。
帰宅すると、母は素直に喜んでくれた。それがいっそう罪悪感を引き立たせるなど知るはずもない。家族たちも喜んで食べてくれて、ケーキは全てしっかりおいしかった。いくつかのケーキをフォークでつつき、分け合って食べた。
「じゃあ精算しようか。レシートは?」
「なかった」
「そうなんだ。金額は?」
私は予め用意していた嘘を、白々しくも吐いた。
「1300円」
50円玉一枚分軽くなった荷物。誰も知らない一滴分の苦味を、ブラックティーで流し込んだ。
なろうの短編小説集 蜜柑 @babubeby
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