39.シングルマザー
2021年 09月27日 20時00分 投稿
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古い友人から辞書をもらった。
それは昔彼女が使っていたとかいうもので、見た目も機能も十分良い状態の電子辞書だったから中古品という雰囲気はなかったが、たとえば検索履歴のようなものや、サブ機能として入っている本の栞は挟まったままだった。
その辞書は時計がずれていた。
彼女は充電池を使っていたそうだから、その入れ替えのたびに時計の修正する手間をサボったのだろう。たしかに辞書の時計が少々ずれていても生活に不便はあるまい。そういうわけで、電子辞書は20年も昔の月日をいまだに刻々と刻んでいた。
タッチペン式のものであるはずなのに、物持ちのいい彼女らしくペンは綺麗に本体に差し込まれていたのに、どういうわけかモニターの反応が悪くて、タッチペンで字が書けなかった。もしかしたらはじめからうまく書けないものだったのかもしれない。そうだとすれば、彼女がやたらと漢字が得意だったことにも納得がいく。
そのことを古い友人に尋ねたところ、彼女は元から漢字が得意だったと言われた。特に読みが得意だったから、タッチペン機能など必要なかったらしい。
カフェの窓際の席で向かい合って座って、注文を待っている間にこの電子辞書を渡された。その人が徐に取り出した電子辞書は皺の少ない茶色の紙の袋に入っていた。私におずおずと差し出して、これはあなたのものだと告げて、私が驚いているのにも疑問を感じているのにも構うことなく紙袋に手を添えていた。
彼女より若いその人は彼女から譲り受けた電子辞書を大切に保管していたのだという。譲り受けてから全く使わなかったと説明をしている間、その人の視線は紙袋に落とされたままだった。
私は、きっと嘘だと思った。
この人はきっと、彼女から辞書を譲り受けた時、すでに辞書を使わないことを決めていたのだ。はっきりと確信が立ち上がっていたけれど、それにしては動機が見当たらなくて、結局黙って受け取った。数年ぶりに開かれた電子辞書は、型落ち製品とは思えないほどに状態が良かった。
彼女の古い友人は、ほんの数年年上の彼女のことを思い出して、懐かしむように名前を呼んだ。その人の口から語られる彼女の大昔の姿を聞いても、つい先日までの彼女とそう変わらなかった。後輩だったというその人は、何度か物言いたげに口を開いては閉じることを繰り返した。言いたいことはいくらでもあったのだろう。彼女は自分で自分を説明することを好まなかった。そしてそれが、私についても当てはまることを、出会って数時間の相手はよく理解していた。
紅茶を飲んで、パンケーキを食べて、冷たいアイスクリームでお腹を満たして、一時間程度で外は少し暗くなってきていた。彼女の友人はお勘定を終えて店を出る前に、名残惜しそうに言い添えた。履歴を見るといいよ。貴女は本当にあの人に似てる。
その言葉の意味はすぐにわかった。
静かな自宅のリビングで、言われた通りに電子辞書の履歴ボタンを押す。現れた履歴は彼女がどの辞書で何を検索したかを示す検索履歴で、山のように溢れかえる言葉の中にはきっと勉強のために調べたのであろう言葉に埋もれて、たびたび現れる単語があった。数えてみれば、それは30回に一回ほどのペースで検索されていた。
いつのまにか外は随分暗くて、お香の匂いが漂うリビングに電子辞書を閉じる音が鳴る。まだ始まったばかりの一人暮らしが、きっと何年か経てば二人暮らしになるのだろうと、私は彼女のエプロンを着た私を思った。
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