38.不和
2021年 07月22日 17時38分 投稿
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僕には似合わない、とでも言えば解放してくれるのだろうか。黒と白で統一されたスマートなスーツはハンガーにかかっていれば美しかったのに、袖は余り、首元は緩く、せっかくのスマートさを損わせてしまう素材である自分がちんちくりんで恥ずかしい。けれども、目の前に立つこの人は僕を着飾ることをやめるどころか、嬉々として服のお直しに励んでいた。僕をもっと高身長の見目麗しい男と入れ替えればいいだけの話だろうに、心底、理解できない。
彼女は最近共学になったばかりのこの男子校で働くようになった、音楽の先生である。さすが音楽を教える人だけあって、彼女のテリトリーに入ってしまえば圧倒的な演奏力と歌唱力に揉まれて天国と地獄を交互に見るか、あるいは故郷の川のさらさらと流れるせせらぎを聴くか、時には子犬がグラウンドピアノの周りをぴょんぴょんかけっこする微笑ましい光景を見ることになる。類稀なる演奏力は常に彼女とともにあり、無音と有音の狭間にある神聖な音楽室を訪れる時間は僕にとっての癒しであり、しかし、あまりに繊細で触れることも叶わないショーケースの向こうの飴細工だった。僕は、はなから彼女がいる教室を諦めていた。彼女の空間、時間、音楽、また彼女自身に焦がれるだけ焦がれて、欲しがることはしなかった。だからこそ、白鍵を叩くしなやかな指先が僕の腕を掴むのを振り切ることはできず、授業外の時間に彼女の教室に入ることは、夢物語どころか、望んですらいない桃源郷を押し付けられたような気分だった。混乱した僕にお構いなく、いつのまにか服を着せられていたわけである。
彼女は一言も喋らなかった。歌えば饒舌になる口は僕の腕を掴んだ時から一度も開かれることなく、彼女の教室は無音が立ち込めて普段以上に強い神聖さを醸し出す。かと思えばたまに彼女が布を動かす音が、対照的に家庭的な響きをもたらしていた。
「裁縫が得意でね」
やっと口を開いたかと思えばこの一言である。僕は「はあ」と曖昧な返事を返して、
「この教室、じっくり見て回ってもいいですか?」
などと普段は言えないことを言った。彼女は僕に無表情な横顔を晒しただけで、つまり、どうとでもしろと言われているのだろうと解釈して、部屋を見て回った。授業前後の時間だけでは、この部屋の全てを見て回ることなどできないからだ。
神聖だとは前から思っていたけれど、隅々を見て回ると、より眩いばかりの神々しさを感じる羽目になった。たとえば、ほつれがないマレット、シール跡も落書きもない鉄琴、マラカスが入った缶には埃が溜まっておらず、鍵のかかっていないオルガンは開けてもなんの匂いも埃っぽさもなかった。つい最近誰かに使われて、誰かに大切に手入れをされていると考えれば、この部屋のあらゆる備品を管理しているのは彼女なのだから、きっと彼女がやったのだろう。聖地巡礼に訪れたかのような興奮を抱いたまま、小太鼓を叩いていると彼女がじっとこちらを見ていた。手にはスーツ。完成したらしいので、バチを置いて近寄り、服を受け取る。彼女は僕の襟を正したり、裾を伸ばしたりしてから、少し離れて全身を眺めて一言。
「ばっちり」
「何がですか?」
と聞いてもやはり答えは返ってこなかった。そういえば授業中も、音楽に関すること以外は意外と喋っていなかったなと今更ながら気づいて、質問の仕方を変えてみる。
「音楽に関係がある服ですか?」
「いや、ただの趣味」
おっと、まさかの答えである。彼女は部屋をぐるぐると歩き、僕を様々な角度から見て満足したのか、脱げとばかりに手を差し出した。しかし、脱ごうとすると慌てて止められる。
「違う。この台の上に立って」
「何故?」
「歌って。今から弾くから」
予想外のオンパレードにも程がある。ここまで口下手でわけのわからないところを見せられると、彼女に感じていた神々しさも信憑性を失ってきて、萎れてきたような、そういえば、次の授業もサボってしまっているような。
「早く」
と急かされるので言われた通り台の上に立つと、普段授業を受けているときには決して見えない景色が広がっていて、ああ、これが彼女にとっての当たり前なのかと新鮮さに包まれる。教師は生徒のことがよく見えるのだと聞いたことはあるが、これでは僕の席も丸見えで、窓向こうの僕のホームルーム教室まで丸見えだ。窓際で授業を受けている僕の姿も、もしかしたら、彼女の目に入っていたのかもしれない。
ぽろり、とピアノが鳴り出して、はっと意識を向けると、彼女がグランドピアノを弾いているようだった。授業中に習った英語の民謡だ。彼女の指のようにしなやかでハリのある音が部屋に満ちて、僕の耳から脳内へ駆け抜けた。僕は勢いのままに英語の歌詞を歌い出し、彼女は少し目を細める。「いい子」とでも言うように、甘やかすような丸い旋律が弦から飛び出して反響する。恐れ多いほど素晴らしいピアノの音色の中に僕の声が混じっている。歌うのをやめて彼女のピアノに聴き入ってしまいたい衝動に駆られたが、他でもない彼女の望みであるから、歌い続けた。歌は間奏に入り、今度はしっとりと切なさも含んだ優しさが加わって、それはそれで美しかった。
大して歌も上手くないだろうに、僕の声を所望するのは何故なのか、この服を着せた理由はと考える余裕は、音楽に呑まれている今ほとんどない。最後の一音が奏でられ、余韻がほどほどに抜けるまで、恍惚とした気分は収まることがなかった。ぽーっと頬を染めて呼吸しているだけで幸せだった。やがて余韻も抜けきらぬうちに、チャイムが鳴って、今日の授業の終わりを告げた。ふと、掃除係だったことを思い出して慌てて服を脱いで、彼女に押しつけて、「すみません掃除があるので、では!」と走って逃げた。彼女の顔は見れなかった。ただ、音楽室を出た瞬間に、何か後悔のような苦々しい予感を感じたが、立ち止まれるほど正気ではなかった。否、はじめから、僕は正気でなかった。
顔が熱ったままに掃除を終えて帰宅し、翌朝、また学校に来た。ホームルーム前に窓から隣の音楽室が見えて、あの人の姿を探して、自分の心が恋のように浮かれていることを自覚して可笑しかった。その日のホームルームにて、彼女が逮捕されたと聞くまでは、僕はずっと浮かれていた。
結局、彼女がなんの容疑で捕まったのか、何故僕に服を着せて歌わせたのかはわからない。ただ一つ言えるのは、彼女がいたからこそ神聖だった音楽室は、二度とあの美しさを取り戻すことはないということだ。
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