36.カウントダウン

2021年 06月20日 17時00分 投稿

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 何かを忘れている気がする。


 二学期最期の授業を受けに行く最中、祐樹は電車に揺られながら思った。

 一般公立高校の生徒にしてはきちっと着こなしすぎているブレザーにシワがよる。右手のスマートフォンは圏外表示が消えないままだ。


 決して特別なことではなかった気がする。日常にちらほらと転がっているような、僕にとってはどうでもいいこと。でも何か、忘れてはならないことだったような気がする。

 頼みの綱の日記アプリを開いても昨日の日記すらなくて、ため息しか出ない。どうして忘れてしまったんだろう。大事なことなら忘れないでいろよ。揺れすぎる電車と自分に内心悪態をつき、ようやく止まった電車から降りて駅を出る。


 祐樹が通う学校は駅から少し離れた位置にある、無名だが悪い評判もなく、悪くはない程度の学校だった。彼は校門を過ぎてようやく、自分がイヤホンをつけっぱなしでいることに気づき、周囲を見渡しながら取り外す。


(あっぶね、これじゃ反省文まっしぐら……)


 ふと、違和感が駆け抜けた。小さな大事な違和感だったが、違和感を捕まえる前にそれは消えてしまった。手のひらにもやもやだけが残っている。祐樹は無視して、とりあえず教室を目指した。


「おはようございます」

「おはよ」


 教室に入ると、先生がいつもと同じように手を振った。教卓の上には掃除で使うようなプラスチックのバケツに、花屋で買ったらしい綺麗な花がわずかばかり入れられていた。


「先生、それは?」


 先生は無言で目の前に広がる机の整列を指差した。彼もつられてそれを見る。そしてちょっと息を飲んだ。

 全ての机に一つずつ、花を入れた花瓶が置かれていた。まるで死人に供えるように。まるで全員が死ぬかのように。


「不謹慎だよ先生」

「思い出しなよ祐樹。今日でみんな死ぬんだよ」


 そんなはずない。そう言おうとした喉に小さなかぎ針が引っかかった。やっと思い出した。そうだ。今日は人類滅亡の日だ。


「月に巨大隕石が衝突、月の軌道が変わって地球に落下してきている。10月23日10時24分、人類滅亡予定」


 言葉が口からついて出た。先生はこくんと頷く。そして改めて教卓から教室を見渡す。月曜日だから、本当なら生徒たちが座って授業を受けているはずだった。忘れて学校に来た祐樹以外は、皆最期の時間を大切な人や思い出と過ごすことにしたのだろう。人生で一番長く過ごした「学校」より大切な場所で。


「祐樹は帰らなくていいの?」


 ふと、先生がたずねた。祐樹はもう、家に帰るつもりはしていなかった。頭の中でわかりやすい理由を添えた文章を幾らか組み立てて、途中でやめた。


「うん」


 先生は僅かに祐樹を見ただけで、何も言わなかった。ただ目の前の花瓶の整列を再び、無表情に見下ろしていた。


 開けっ放しの窓から風が吹き込む。教室の端にある祐樹の席の白いコスモスが、カーテンにひらりと隠され、現れる。もう一度強い風が吹くと、今度はカーテンが花瓶をなぎ倒し、祐樹の花は机上に寝転がった。


 朝の光が窓から射しこむ。祐樹はバケツから一本コスモスを取り出し、丁寧に曲げて輪を作った。誰もが子供の時一度は作ったであろう、草の指輪になった。祐樹は指輪を整え、先生に渡した。先生は無言で指輪を受け取り、シルバーリングの上に重ねた。その大人の指には、祐樹の作った指輪は少し小さくて、先生は切れないように慎重に指輪を整えた。指輪は決してぴったりにはならなかったが、それでも先生は気にしなかった。


「詮索してもいい?」


 祐樹はちょっと迷って、それから返事した。


「いいよ」

「これってさ、桜井にでしょ」

「違うよ」


 自分と同じくらいの背の大人を見て、祐樹はまたちょっと躊躇ってから答えた。


「石塚」

「石塚って祐樹の……ああそっか、妹さんいるんだっけ」

「うん。石塚由依。5歳くらいの由依にこれ作ってた」

「へえ、いいお兄さんじゃん」


 先生はちっとも意外そうではなかった。祐樹の家族や友人を大切にする性格に気づいていたのかもしれないし、興味がなかったのかもしれないけれど、今の祐樹にはどちらでもよかった。代わりに訊ねた。


「先生は旦那さんと一緒に過ごさなくてよかったの?」


 先生はどことなく気まずそうに、ゆっくり話し出した。


「そうだね。私は最期は妻でいるより先生でありたかったからかな」

「へえ」


 祐樹はちょっと冷めた風に返した。絶対に本音ではない確信があった。


「花屋で買ったの?この量は、前から予約してないと買えないよね」

「逆だよ。今朝花屋の店頭に人がいたから、声をかけたら勝手に持って行っていいって幾らでもくれた。バケツも持っていっていいって言われたから、そのまま持ってきたんだ」

「この量の花瓶はどうしたのさ。前日用意してないと持ってこれないでしょ」

「これは……」


先生は何か言いかけて、どもって、話し始めた。


「いや、店員さんに会ったのは昨日の朝の話。明日朝取りに来たいから、明日の朝花を店前に出しておいてくれないかって頼んだんだ。今朝は学校で目が覚めて、まず適当な店に行って花瓶を人数分もらって何往復かして運んで、それから花屋に行ってバケツを持ってきて、花瓶に花を入れてた」

「じゃあ予約してないっていうのは嘘だね」


 祐樹がサラッと言った。先生は開き直って肯定した。


「嘘だよ。さらに言えばこの指輪も嘘」


 先生はトントンと草輪の下のシルバーリングを叩いた。表情には一片の曇りもうかがえなかった。


「わかった先生、旦那の浮気でしょ」

「正解!最期は浮気相手と過ごしたいから家に帰ってくんなって、一昨日追い出されちゃってね。ひどいでしょ」


 先生は軽く口を尖らせて、ぶーぶーとそれっぽい声を出した。


「全然。むしろそんなクソ男と最期に会わずに済んだってラッキーじゃん」

「そう?」

「うん。旦那の浮気、気付いてたんでしょ」


 先生はちょっと驚いた顔をして、「あらま。バレてた?」と言った。祐樹はニヤッと笑って「バレバレ」と返した。


「えーショックなんだけど。うまく隠せてると思ってたのになぁ」

「最近の生徒って結構怖いんだよ。何先生がどこに引っ越したとか、浮気して奥さんに叱られたとか、すぐ出回るからね。新米の先生の情報なら尚更だよ」


 祐樹は切っていたスマホの電源をつけて、クラス連絡の画面を見せる。先生は目を丸くして、小さく悲鳴を上げた。


「これ現実?最近の子供怖っ」


 そのままスマホをいじりつつ、祐樹は面白がって言う。

「よかったね先生。先生自身は浮気してなくて」


 先生はしんみりと頷いた。


「本当によかったかも。学校中に浮気した先生だって知れ渡ったらもう教師でいられない気がする。もしかして浮気の話っていろんな先生のが出回ってる?」

「うん。いろんな先生の浮気話聞くよ。ついこの間もその関係で学級崩壊しかけたみたいだし」

「ああ、森田先生のところね。奥さんにこっぴどく叱られたって」

「へえ、森田先生浮気してたんだ」


 祐樹の平然とした声に先生は驚いて見、ようやく一杯食わされたことに気づいた。声にならない悔しさを噛み締める先生と対照的に、祐樹はケラケラっと笑った。


「あっはは、そんな気にすることないよ先生。どうせ今日で全人類が死ぬんだから」


 祐樹はしばらく笑い続け、面白くって堪らなそうにスマホから手を離した。プラスチックのスマホカバーが重い音を立てて机に落ちたのを、拾おうともしなかった。

 先生は暫く悔しげに見ていたが、徐々に表情が変わって最後に残ったのは、生徒への愛おしげな眼差しだけだった。先生は暫く黙って、風の音しか聞こえなくなって、徐に口を開いた。


「あのさ祐樹」


 何かの告白が始まろうとしているような、そんな気配があった。


「最期は妻でいるより先生でいたいって言ったの、嘘じゃないよ」


 祐樹はもう笑っていなかった。一人の人間の言葉を聞いて、一人の人間として答えようとしていた。


「うん」

「こうやって教室にいて生徒分の花瓶と花を集めたのだって、全部今日の、生徒のためにしたことだよ。とりわけこの教室にやってくるであろう、君のために」


 祐樹は少し訝しげに、先生の表情を見た。


「僕のためってのはサービストークじゃない?」

「違う、来ると思ってたよ。確証はないけど、この日を忘れていてもいなくても、祐樹は来ると思った」


 先生は窓に近づいて、カーテンを開けた。祐樹も近づいて空を見る。空いっぱいを覆うほどに大きな月の、クレーターひとつひとつまでよく見えた。


「死ぬ前に海が見れるなんて贅沢だね」

「月の海?たしかに、こんな光景見るのは最初で最後だろうな」


 灰色の月は、明らかに近づいていて、もう少ししたら太陽の光も遮ってしまいそうだった。祐樹は秋空の眩しさに目を細めた。


「落下地点はここよりずっと南らしいけど、月が地球に触れた衝撃波でみんな死ぬんだって。触れただけでだよ。悲しいと思わない?」


 ちらりと先生の方を見れば、台詞に似合わず彼女は微笑んでいた。一瞬どきりとして、目が離せないでいた。


「…どうして?」

「だって、もしかしたら月と地球だって、恋人同士の逢瀬がしたかっただけかもしれないでしょ」


 空を見たまま、先生はクスクス笑う。


「冗談」


 そうして、ずっと月から目を離さなかった。祐樹は、少し苦笑いをして、このかわいい人から視線を逸らした。


 月はまるで空を覆う風船のように大きくふくらんでいた。二人はずっと、月から目を離さなかった。


 やがて大きく膨らんだ風船が、小さな太陽を覆い隠すと、大きな黒い光がカーテンを通り過ぎて、祐樹の机上に降り注いだ。白いコスモスの花びらが、黒く染まった。

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