35.灰色の池

2021年 06月17日 19時21分 投稿

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 古池や蛙とびこむ水の音。


 彼のことを思い出すと、私の脳裏にはいつもその歌の情景が思い浮かぶ。どこかの霞がかった灰色の池に、青蛙が一匹、とぷんと飛びこんでは姿を眩ます。彼はまさしく、そんな人だった。

 いまや彼を知る人物は一人もおらず、私も、あくまでネットを通した間接的な関係でしかない。それでも、とても短い期間だったけれども、彼は確かに存在していた。

 私と彼との間には、ただのゲーム上の友人という繋がりの他に、特別な二つの関係があった。ひとつは、私が彼に執着していたこと。もうひとつは、彼がかつて誰かに深く執着していたこと。明るい顔の裏にちらつく未亡人特有の闇が、私を彼へと傾倒させた。蛙のアバターの向こうに隠した、かつての姿を知っているからこそ、蛙面の彼が愛おしかった。




「また何も言わずに消えて。絶対に許さない」


 蛇のアバターを通して私が呟けば、パーティーメンバーの一人が言った。


「愛だね」


「そんなのじゃないよ」


とか、そんなことを言おうとしたのだけれど、実際愛だとわかっていたからやめた。彼女が言うような綺麗な愛ではなくても、歪でも、たしかに愛していた。

 彼はしばしばゲームのいつもの場所から姿を消した。例に漏れず今度もそうで、特に春のドタバタ忙しい時期だったから、彼がいつも以上に不安定になるのも理解できて、何もしなかった。彼がいない間、戦闘ゲームの結果は散々だった。九人編成のパーティーとはいえ、主戦力が抜けて痛い目を見ない方がおかしい。かつてないほど散々な結果になったので、私はひどくイラついていたけれど、彼が悪くないことはわかっていた。帰ってきてくれさえすれば良いとも思っていた。帰ってきてくれるだろうと楽観して待てば、案の定帰ってきた。


「おひさしぶりです。只今もどりました」

「行ってきますも言わない奴におかえりと言うと思うなよ」


 礼儀もへったくれもない。事情も聞かない。けれど、私たちはそんなくらいでよかった。あくまで画面を隔てた交流であり、立ち入りすぎてはむしろ逃げられてしまいそうだった。すなわち、私は彼という蛙を探す蛇だった。蛇は、蛙がいなければ生きていけないのだ。

 一方で、彼もまた蛇だったことがあった。執着して追いかけた恋人は、もう元の形で存在してはいない。ゲームのチャット機能を通して、彼が断片的に語った過去を、私のこの蛇の舌で話そう。



 少年は、はじまりの村で生まれた。村人たちは優しかったが、義父は彼に優しくなかった。傷だらけの体を見て、村の子供たちは少年に石を投げた。


「化け物!」


 彼の体には常に傷があった。義父といじめっ子から受けた暴力のせいだ。


「どうして……」


 辛い日々が続いた。そんなある時、ひとりの少女が彼に手を差し伸べた。


「うちの家に来ない?」

「……だめだよ。僕が帰らないとお母さんが殴られるんだ」

「じゃあ、格闘技を習うのはどう?私のお父さん、格闘技のプロなんだ!ねえ、やってみなよ!」

「……うん!」


 こうして、少年は少女の家に通い、格闘技を習った。少女の両親は優しく、いつでも彼をあたたかく迎え入れてくれた。


「うちの子と仲良くしてくれてありがとう。けど、無理に来なくてもいいのよ?」

「大丈夫です!無理なんてしてません!」

「そう……」


 格闘技を習得して、義父に対抗できる力を手に入れて、少年は義父から母を守れるようになった。やがて少年は少女と共に大きくなり、二人は恋人になった。村でも評判になるほど、二人は仲が良かった。

 しかし、そんな幸せな日々も、長くは続かなかったのだ────


「ッあぶない!」


 伸ばした手は少女に届かず、彼女の体は階段に叩きつけられた。白い段に赤いものがじわじわと広がっていく、その光景が少年の脳裏にしがみついて、鮮明なまま離れなかった。以来、意識を失った彼女のもとへ、来る日も来る日も訪れて、付きっきりで看病したが、やっと意識が戻った時、彼女は、


「あなた、だれ?」


 少年のことを、覚えていなかった。

 ショックで呆然としていた彼に、彼女の母が真実を打ち明けた。


「ずっと隠していてごめんなさい。実は、娘は幼い頃から、凍結病という特別な病を患っていて、ちょっとしたことで記憶がなくなってしまうのよ。娘がかかった凍結病は、感染すると白目が氷のように透き通ってしまう病で、粘液感染しかしないからこれからも怖がらないでこの子と仲良くして欲しいのだけど────」

 凍りつくように胸が苦しくて、少女の母の話を彼は理解することが出来なかった。ただ、彼女を失ったのだと頭の片隅で理解していて、それでもなお信じたくはなかった。





 かくして、彼は恋人を失った。少女の母の願いを聞き入れ、今も少女の良き友人として関わりを持っているが、彼女と彼が再び恋仲になることはない。なぜなら、彼女には新しい恋人がいて、彼は彼女の恋人であったことを一生話さないつもりでいるからだ。不毛な恋心を押し殺して、ただ献身的に与え続けるだけの彼。これほど優しい男に、神はどうして残酷なのだろうか。


 

 彼女を失った悲しみを紛らわすためにゲームに手を出し、格闘技で身につけた闘争心に火がついてとあるゲームにのめり込み、偶然、私たちパーティーと出会った。戦闘スキルに惚れ込んだ私がスカウトをかけると、彼はすぐさまOKしてパーティーメンバーに加わり、今やパーティーの主要戦力である。戦闘センスはピカイチなのに、アバターは目がクリクリ大きい蛙で、チャットでは陽気にケロケロ話す、そのギャップもいつも私を楽しませてくれた。

 私は彼の優しさにのめり込み、様々な点で彼に頼るようになった。その所為だろう、私はいつしか、彼と私の間にある二枚のモニターの存在を忘れて、蛙が吐く言葉を彼そのものと勘違いしていた。目の前にいるのは、常時顔が青いままの蛙だったのに。





 彼がゲーム上に戻ってきて、一、二週間経った頃、私的な理由で少々忙しく、それを言い訳にパーティーメンバーとのチャットを疎かにした。そのため、彼の様子に違和感を感じたのも、ずっと遅くなってしまった。


『懐かしい感じがする』


 はじめはただこの一言だった。違和感はあったが、私はたいして気に留めなかった。

 次に感じたのは、チャット上の口調がなんとなく畏まっているように見えることで、これもさして気に留めなかった。

 しかし、敵からの攻撃を彼が盾で防いだ時に感じた強い違和感に、急に焦りが湧いた。いつもの彼なら攻撃を避けてすぐ反撃に出るはず。後方にいる私たちを信じているからこそ、盾など使う必要はなかったのだ。胸騒ぎがして、嫌な予感に駆られて個人メッセージを送ると、返信は早かった。


「もしかして、何か変化でもありましたか」

「すみません、実は記憶がとびまして」


 これが全てであった。彼は、私たちのことを忘れていた。





 呆然として、まだ言葉の意味も理解できない、否、理解したくもなかった私に、あっけらかんと彼は全てを打ち明けた。それはそうだ。今の彼にとって、これまでの彼は他人も同然なのだから。


「私にはかつて恋人がいて、彼女は凍結病という病に侵されていました。凍結病は、何かのショックで記憶を失ってしまう病で、凍結病にかかると白目の部分が氷のように透き通ることからその名がついたと言われています。私の恋人だった人も、思えば白目が人より透き通っていたような気がします。階段から落ちた衝撃で記憶を失ってしまい、彼女は私のことも忘れました。その時に彼女の母から凍結病のことを聞かされ、自分の白目が透き通りだしていることに気付きました。……ええ、私は凍結病に感染していました。

 知った時には絶望しました。彼女に忘れられた悲しみだけでも耐えられないのに、自分も彼女と同様に、誰かを忘れて悲しませてしまう恐れがあると知って、怖くてたまらなくなりました。現実で人と関わるのを避けて、一人で暮らそうと決心して、親元も離れてゲームばかりして暮らすと決めたことまで覚えています。今にして思えば、一人で生きると決めたことは正しかったと思います。おかげで家族や友人を悲しませずに済みましたから。

 かつて恋人だったあの人は、私を友人として、新たに恋人を作りました。私は彼女の恋路を陰ながら応援していたのですが、今回ばかりはダメでした。先日、彼女が結婚したのです。結婚式の招待状が届き、あまりのショックに、記憶が途切れました。だからすみません、あなたのことは覚えていません。

 また、このゲームも、悲しみを紛らわせるために始めたもので、記憶を失う前の私が十分にショックを受けた所為か、今の私は彼女に想いを抱いていないので、もう一人で生きる必要も、このゲームをする必要もなくなってしまいました。きっとあなたにも長くお世話になったのだろうと思います。今までありがとうございました」


 いまだにぐるぐると回って理解しない頭は低スペックPCのように低速で、部屋に立ち込めた渦巻き蚊取り線香の煙と香りに仏間の線香を連想した。座布団に座った金属のお椀を叩くと、遺族の心を代弁するかの如き甲高い金属音が痛々しくて、俯いた白百合は今にもはらりと涙を溢すかと思えた。黒い写真立には蛙のアバターがおり、引き攣ったように口角を押し上げている不気味な様子がパッと思い浮かんで消えていった。妄想の後に残ったのはカーテンを閉めきった部屋の黒いモニター、私の顔がぼんやりと映っている。ひどい顔だった。


「彼はもういない」


 口に出しても実感は湧かなかった。再び蛙の遺影が思い出されたが、それでもやはり実感が湧かなかった。

 そのまま意識を失ったように過ごしていたらしい、いつのまにか日も沈み、蚊取り線香は燃え尽きていた。思い出して部屋の明かりをつけて、PCを起動させると、蛙のアバターがパーティーメンバーに別れを告げており、個人メッセージには彼から、記憶を失う前の彼が遺したとかいうメッセージが届いていた。


「記憶を失う前に書いたらしいメモを見つけたので、最後にその内容だけ伝えておこうと思いまして。

 メモによると、過去の私はあなたにパーティーに誘ってもらったことを感謝していたようでした。最後まで信じてくれてありがとう、ゲームに疎い私に、懇切丁寧に教えてくれた、あなたがいたからこそ楽しくゲームができました、と書かれていました。過去の私の心を守ってくれて、ありがとうございました。さようなら」


 その日の夜、彼から送られたすべてのメッセージを見返して、私は一つの決心を下した。彼がいない今、もうゲームを続ける意味はなかった。その旨をメンバーに伝えて、別れの挨拶をして、用済みになったパソコンを机から撤去させた。何年ぶりだろうか、パソコンの向こうにあって見えなかった窓を開けると、夏の夜風がさらりと涼やかに吹きぬけた。目を凝らせば遠くに、灰色の池が見えるような気がする。月光の下に、鮮やかな青色の蛙が一匹、こちらを振り向いたかと思えばとぷんと池にとびこんだ。私の腕からするりと尾を解いて、一匹の蛇が蛙の後を追った。水面に浮かんだ月影がゆらぎ、やがて、ただの小さな輪になった。

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