32.ブルーのしるし

2021年 06月01日 18時00分 投稿

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 この人は、薬指にプラチナの指輪。あの人は、ダイヤの指輪。あそこの人は何もないけど、そっちの人はパールのネックレスと、珍しいパターン。


 私には生まれつき、ある人が愛しい人から将来もらう予定の装飾品が見えるという、特別な能力があった。この変な能力に気づいたのは実母で、当時、彼女は私を連れて男の家を転々としていて、ある時私にルビーの指輪を見せびらかした。


「綺麗でしょう?さすが金持ちの男は違うわぁ。あんたもいつか、こういうのをくれる男を捕まえるんだよ」


 しかし、私にはそのルビーの指輪が見えなかった。それだけでなく、本当はもっと様々な装飾品でキラキラに着飾っていたはずの彼女の、ほとんどの装飾品が見えなかった。唯一見えたのは、彼女の首にかかっている淡いブルーのネックレスだけ。


 どれほど自慢しても、私の反応が薄いことに違和感を感じていたからだろう、私が淡いブルーのネックレスに興味を示したとき、女の勘が働いた。


──この娘には、なにか異様な力があるらしい。


 そういうわけで、自分の娘には「ある人が一生のうちにもらう予定のアクセサリー」が見えると早合点して、彼女は私を見世物にしようと画策し、その途中で息絶えた。死因は、よく知らない。


 私はその後孤児院に預けられ、小学校の校外学習で老人ホームに行って、はじめて、私の能力は「ある人が一生のうちにもらう予定のアクセサリーが見える能力」ではなく、「ある人が死に際まで愛した特別な一人に貰うアクセサリーが見える能力」であることがわかった。

 つまり、私の母は、彼女に淡いブルーのネックレスをくれた男のことを、死に際まで愛していたのだ。彼女は大量のアクセサリーとブランド品と、山のような借金を遺して逝った。死後、よく知らない人たちが彼女の遺留品を売り払って処分したらしく、私に受け継がれたのは、残りの借金と淡いブルーのネックレスだけだった。


 そして、孤児院と学校でそれなりに知識を身につけ、バイトもしてコツコツお金を返し、そろそろ本格的に働き出そうと思っていた矢先だった。

 

 その日は珍しくバイトのシフトも入っていなくて、私は家でもやしの炒め物を食べていた。氷を入れた麦茶を飲み込み、ぬるいもやしを噛む。額を流れる汗を拭って、また一口食べようとした時、玄関で物音がした。


 とっさに机の下に隠れた。彼女が遺した借金のせいで、家にはよく借金取りが来ていたのだった。巨体が扉にぶつかったような、ドンドン、と大きな音。くぐもったような男の声を聞きながらも、体を丸め、必死に耐えていた。畳のささくれが、やわらかい太ももをツンと刺した。


 大丈夫、きっと大丈夫。心の中でおまじないを唱え続ける。願った通り、扉を叩く音は小さくなった。だが、ほっとしたのも束の間。鍵を開ける音、扉が開いたらしく、靴音が耳のそばで聞こえるようだった。


 危ない、逃げないと、とその瞬間たしかに思ったのに、私の体は動かなかった。ただ小さめのちゃぶ台の下に体を丸めてじっとしているだけで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 靴音は獲物を焦らすように、じっくりゆっくりと近づいてくる。踏まれるたびに畳がきしみ、捕食者の歩みを一歩一歩演出した。考える間もなく、足音が近づいてくる。


 ──すぐそばまで来た。体がガタガタと震え出した。ちゃぶ台を掴む太い指が三本、小指が欠けていた。ああ、もう駄目だ、捕まった。


 と、思いきや、次に視界に映ったのは男の顔だった。ちゃぶ台の下を覗き込んで、私のことを見ているのだ。この時初めて、私は、鍵が開いてから男の声が聞こえなかったことに気がついた。


「お前、かわいそうにな」


 開口一番、そう言われた。私は不思議と意識がはっきりしていて、いつのまにか指先の震えも治っていた。


「あんな女の子供に生まれて、借金取りが家に来て。まあ、この世じゃそう珍しくもないのかもしらんが」


 男の顔には、唇、左頬、右の耳たぶに傷がついていた。いかにも悪そうな人相をしていて、でも、私はこの人を見たことがあるような気がした。

 男がちゃぶ台の下からさっと顔を消すと、急に開放感が襲ってきた。男がちゃぶ台を持ち上げたのだ。彼は私に座るよう良い、ひとり台所へ行った。その間私は部屋を見回し、男の他に誰もいないことを確認した。


「はい水」


 溢れそうになっているコップを受け取って、彼の様子を見た。ごくりと水を飲んで、彼は私の視線に気づき、飲めと言った。


「まあ、そう身構えんな。俺はたしかに借金取りだが、今すぐ金を返せ言う気はない。どちらかというと、あんたが今生きてて、どれくらい金持ってんのか確認しにきただけだ。やっぱり、金はなさそうだな。金目のものも特には──」


 そこまで言ってふと私を見、男は言葉を途切らせた。私は、なんだかよくわからなかったので、水を飲んでから話し出した。


「えっと、今持ってるお金は、このアパートの先月分の家賃三万円と、明日のご飯代千円しかないから、今持っていかれたら困るっていうか……ごめんなさい?」


 しかし男は一向に口を開かなかった。立ったまま、私の首元をじっと見下ろすので、言いたいことがわかってしまった。


「ああ、この首飾り、プラスチックなんです。そんなじゃお金にならないからって売られなかって、だから、本物の宝石じゃなくて」


 言っているうちに、だんだん言い訳みたいに思えてきて顔が赤くなった。彼はようやく口を開いて、

「ああ、知ってる」と低い声で呟いた。それから、何度か首を振って、何事もなかったかのように声を張った。


「生きてることが確認できたんなら、いい。お前の身柄さえあれば、お前は逃げないだろうし、とりあえず貸した金は返ってくるだろうからな。返す金と返す相手は知ってるのか?俺は鈴木ってやつだ。あの女に40万貸した。俺に返すのは後でいいから、さっさと他の借金なくしちまえよ。でないと、俺が困るんだ」


 言うだけ言って、男は帰って行った。私は、変な人だと思った。



 #



 それから一ヶ月ごとに男が来るようになった。かといって何をするわけでもなく、ただ私の生活を覗いて、金の確認をして、一時間もせず帰るだけだった。私は少しずつ借金も返して、ついに鈴木さんへの借金だけが残った。しかし、鈴木さんは私がお金を返そうとすると、その度に私の家賃の滞納、食事の粗末さについて説き、半分も受け取ってくれなかった。


「いいか?利子込みで45万、俺が死ぬまでに返してくれたらいい。急いで返さなくていいから、まずは生活をちゃんとしろ」


鈴木さんはいつも言った。そして付け加えて、


「ただしそのネックレスだけは無くさないでくれよ。お前がそれを身につけるのをやめたら、俺は即座に残り全額の返済を要求する。お前がアパートを追われようが、体を売ろうが、必ず返してもらうからな」


と口すっぱく注意した。やはり彼は変な人だと思った。そんな彼の薬指には、彼には似合わない、淡いブルーのおもちゃの指輪がはまっていた。



 #



 結局、私が彼の「ほんとうのこと」を知ったのは、体が成熟して、大人の恋を知ってからだった。その頃にはとっくに彼と会うこともなくなっていて、ただ電話番号ひとつ、繋がらないのに残してあるのが未練がましい。


 借金をちょうど返済し終わった日、彼はいつもより長く家にいてくれた。私のこれからのことなどを、幸せそうに聞いていたのをよく覚えている。もう話すこともなくなったのか、彼にも次の仕事があったのか、最後の最後に、小さなプレゼントを私の手に握らせて、彼は静かに扉の奥へ消えていった。


 今も私の首元と親指には、淡いブルーが光っている。

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