29.場所
2021年 01月09日 23時47分 投稿
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彼女には、僕しか見えない。正確には、僕らの生きる現実の世界のことを考えたとき、彼女には僕以外が見えない。
薄汚れた白の病棟で、その中の奥の方にある一室で、僕はいつものように椅子に座った。部屋にいるのは僕と彼女だけ。彼女はごく普通の椅子に座って、街中で見かけるようなごく普通の服装をしていた。別に、体調や足が悪いわけではない。彼女の異常さはその普通の女の子めいた見た目に現れるわけではない。しかし、彼女はここ2年間病院を出ていないのだ。
「尾崎さんもそう思います?やっぱり。私も、きっとそうだろうなーとは思っていたんです。嘘じゃないですよ」
彼女は延々と喋り続ける。とても楽しそうに喋っている様子を見ると、僕は時々ここが病院であることを忘れる。けれど、彼女の目の前には誰もいない。そう思うとやっぱり、彼女は異常だと僕は感じる。
「そうそう、私もそうです。ねえ涼太?」
「…何?」
話をふられて、僕は首をもたげた。彼女はにこにこと笑っていた。
「もしかして、もうそろそろお昼だったりする?」
「いや、もう10分くらい後だよ」
「そう?あ、ではまた」
彼女は見えない誰かに向かって会釈した。僕はまたすぐに下を向いた。
「いやぁ悲しいよねぇ、私は向こうの世界の住民なのに、こっちの食事を摂らないといけないとかさぁ。そろそろ私も向こうの世界の住民になりたいんだけどなぁ」
これは彼女の口癖だ。僕は内心、じゃあなればいいじゃないかと毒を吐いた。そして口先からは、僕が毎日繰り返す定型文がさらりと出てくる。
「まあ、そう言わずに。今日はどんなことがあったの?」
彼女は楽しそうに答えた。
「尾崎さんと遠くの国の話をしたよ。山向こうの大陸の話はもうしたよね?これは今日聞いた話なんだけど、その巨大大陸を越えたらさらに向こうには塩湖があって、世界中の塩はそこから取られているんだって。それで……」
彼女の口は軽やかにくるくると回る。僕は相槌を打ちながら彼女の話が一通り終わるのを見計らって、「それはよかったね」と言った。ちょうどのタイミングでノックが鳴った。
「橘さーん、お食事の時間ですー。あ、涼太くんも来てたんだ。ここ置いとくね」
看護師さんはトレーを置いて部屋を出て行った。僕は軽く会釈をした。彼女はノックにも看護師さんの声にも反応しなかった。
「ちょうど十分経ったらしいよ。これ、夕飯」
僕は椅子から立ち上がり、彼女の手を取って机の位置へと連れて行って、椅子に座らせた。それから机にトレーを置いて、彼女の手をトレーのふちに触れさせた。柔らかくて冷たい手だった。
この世界にあるものは僕を除いて、触れたものしか見えない彼女は、トレーが手に触れると、今日の夕飯のメニューを見て顔を綻ばせた。何か好物が入っていたのだろう。
「私このヨーグルト好きなんだ。ぐるぐる混ぜてとろっとさせるのが美味しいよね」
彼女は時々しゃべりながら口に食べ物を運んでいった。僕はそろそろ暇になってきて、彼女を横目にスマホをいじり出した。
「涼太」
気づけばもう7時になっていた。彼女は食事を食べ終えてご満悦そうに僕の名前を呼んだ。
「何?」
「今日はもう帰るんでしょ?ご飯おいしかったですって看護師さんに伝えておいて」
こんなことを彼女が言うのは珍しかったけれど、僕は気に留めず適当に返事をした。
「うん」
「あとね、明日のことなんだけど、明日は私のとこ来なくていいから」
「……え、なんで?」
一瞬、ようやく解放されると喜んだ。僕はもうずっと彼女の世話を焼いてきたから。彼女の世話をやけるのは、この世に僕しかいないから。
彼女は、なんでもなさそうに言った。
「尾崎さんがね、私を向こうの世界の住民にしてくれるんだって。だから、明日からはこの体はいらないんだ」
「そんなことできるの?」
「できるんじゃない?」
僕は口元がにやけるのを隠して、俯きながら何度も頷いた。そして最後のトレーを両手でつかんだ。
「そっか、わかった。じゃあ」
「うん。さようなら」
僕はまっすぐ部屋を出た。ガタンと閉まった扉を見て、ようやく肩から力が抜けた。もうここには来なくていいんだ。明日のまぶしい朝日ですら今の僕には見えるような気がした。
その日、僕は彼女に頼まれた伝言も忘れて家に帰り、明日病院に行かない幸福感で浮かれていた。電話がかかってきたのは、夕方5時ごろのことだった。
「橘さんが自殺しました。部屋の窓から飛び降りました」
病院の先生の声は硬かった。電話の向こうからは、救急車のサイレンが小さくうるさく聞こえてきた。先生が淡々と話している間、僕はずっと黙っていた。自殺の原因を知っているかと訊かれたときも答えなかった。そして、それ以降僕は病院には行かなくなった。
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