17.物語の結末

2020年 05月14日 04時00分 投稿

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私は、ロマンの世界に生きているのではないかと思う。

そうでなければこんな風に、誰かを殺したいほど憎く思うこともなかったはずだ。

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 私は、ロマンの世界に生きているのではないかと思う。

 そうでなければこんな風に、誰かを殺したいほど憎く思うこともなかったはずだ。




 はじめは何の感情も抱いていなかった。私は彼女の義理の妹で、彼女は私の義理の姉で。歳の離れた兄の奥さんだというのに、やけに若々しい肩だな、と思っただけだった。彼女はきっと何の表情も浮かべていない私を見て、にっこりと笑った。

「よろしくね」

 薄紅色の唇から流れた言葉はごく一般的な言葉で、私も「こちらこそ」なんてことしか言わなかったと思う。


 だから、それが悪夢の始まりだなんて気付かなかった。


 彼女が私の家族に紹介されたその日から、私は彼女とひとつ屋根の下で暮らすことになった。家族は小柄で世間的には可愛い系に分類される彼女を「愚息にはもったいないほどできた子」と即座に受け入れ、兄は彼女を一目も構わず溺愛した。兄は朝から恥ずかしがる彼女を連れて食卓につき、うるさいと文句も言えないほど甘々なトーンで言葉を投げては彼女の反応を楽しんだ。『行ってきますのちゅー』を毎朝強請り、帰ったら彼女の姿を認めてふにゃふにゃの笑みを浮かべ、「ただいま」と感動の再会のようにおアツい抱擁を交わした。突然「今日は2度目の初デート記念日なんだ!」とか意味のわからないことを宣言して私たちをサプライズに付き合わせることもあれば、「俺の知らないイヤリングをつけていたんだ……まさか、他の男が⁉︎」と不安がったり、「絶交だっ!もう二度とキスしてやらない!」と緩い喧嘩をして私を巻き込むこともあった。


 兄はもう、目も当てられないくらい彼女の虜になっていた。


 それは彼女も同じことだった。


 兄が彼女を溺愛するたびにポッと頬を染め、慌てふためいたり、俯いたり、顔を隠して真っ赤な耳を指摘されて逃げたりしたけれど、その仕草は兄を嫌がっているようではなく、むしろ彼女がそれを喜んでいるようにさえ見えた。兄ほどではないにせよ、彼女も度々家族を巻き込む騒動を起こし、いつも兄とのハグかキスかその両方でハッピーエンドを迎えた。

 料理が苦手で、ちょっとドジで、でも兄のためならなんでも頑張った。


 そんな彼女を、私は徐々にいい人として認識し始めた。私が勉強していれば、時々お菓子を持ってきてくれて。私が夜更かししていれば、一緒にカップラーメンを啜ってくれて。誕生日には、私が欲しいと一度だけ呟いた恋愛小説を、こっそりとプレゼントしてくれた。彼女は優しかった。私は簡単に彼女に絆されていた。


 だから、彼女を愛するあまり家族が壊れてしまうなんて、考えられなかった。



 ある日、一本の電話がかかってきた。

 固定電話の受話器を持って、バネ状の線をいじりながら呑気に構えていると、電話向こうで兄が叫んだ。

「お願い……お願いだから、どうか神様助けて……死なないで!」

 パニック状態の兄を放ってすぐさま警察と救急車を呼び、自分の心臓を押さえて「落ち着け私」と言い聞かせた。煩い鼓動を掻き消すように、兄に必死に呼びかけた。大丈夫、死なないから大丈夫、すぐに救急車が来るから、大丈夫だから、と。そのまま兄が彼女と一緒に病院に着くまで、電話で兄に呼びかけ続けた。救いまで行かずとも、これが兄の心を少しでも紛らわせられたと、片時も受話器を離さず呼びかけ続けた。



 彼女は手術を受けた。兄は常に付き添っていたと聞いている。命の危険が去り、意識を取り戻し、彼女は順調に回復していったらしい。らしい、というのは私が一度も彼女の見舞いに行かなかったからだ。兄は毎日病院に通い、遅くに帰ってきた。両親も暇があれば彼女のもとを訪れた。彼女の好きな蜜柑をたくさん買って、手を黄色くさせて帰ってきた。


 受験シーズンだったために一度も会いに行けず、連絡を取る暇もなく、ただ家族が彼女のことで毎日一喜一憂しているのを横目で見ながら、私は冬を走っていた。そしてその間に、彼女も家は家に帰ってきた。


 異変に気づいた時には遅すぎた。

 受験が終わり、ようやく一息ついて、ふと目についたものはリビングの棚の上に置かれた写真立てだった。前までは写真が入っていた。でも今は。両親と兄と、彼女の姿。


 私はそこにはいなかった。



 そしてそれは、あっという間に現実になった。彼らはそれを口にすることはなかったが、その代わりに私を避けるようになった。リビングで一緒にいても、しばらくすると普通を装って部屋に戻られたりした。帰りが遅れると、ご飯が忘れられていたりした。

 当たり前だったものが、簡単に崩れていく。私の心はだんだん傷んでいった。


 私が何をしたというのか。ずっと何年も夢見た学校に入るために、死ぬほど勉強してきたのだ。兄だって、父や母だって、私がどれほどその学校に行きたかったかわからないわけではなかったはずだ。解けない問題があれば古い教科書を出してまで教えてくれた。テストで良い成績を取れば自分のことのように喜んでくれた。模試の結果が悪ければ次があると慰めてくれた。特に兄なんて、私が夜遅く塾から帰ってきてもご飯を食べずに待っていて、「今日はどうだった?」と私が一日あったことを話すのを楽しそうに聞いてくれて、本当に嬉しかったのだ。だからこそ、私が寝る間も惜しんで勉強していて、お見舞いに行く暇がなかったことも、わかってくれると思っていたのだ。


 日に日に悪くなるその状況に耐えきれなくなって思わず、

「私の何がいけなかったの」

と問うてしまえば、辛うじて持ち堪えていた壁は壊れ、私は家族という枠組みの中には情けで入れてもらうこともできなくなった。存在を無視された私は、まだ未成年でお金もなく、家を出ていくこともできず。ひとつ屋根の下の他人の家族から逃げるように、息を潜めて暮らしている。

「私じゃなくて、他所者のその女を選ぶんだ」

 誰が、とは言えなかった。家族と呼んでしまえば、未練がましい心が痛む気がした。いや、実際痛かった。家族だと思っていた人たちが、家族でなくなっていくのは事実として受け入れ難かった。だから悪足掻きとして、彼女を憎んだ。言葉にならない憎しみは募って、殺意にすら変わっていった。「殺したいほど憎い」。そんな言葉の意味が、その時初めてわかった。でも、そうやって自分の中で恐ろしい感情が育っていくのは、誰にも相談できなかったけれど、一人では抱えきれないほど重く苦しく、はちきれそうだった。


 私は思う。これはきっと物語だと。ロマンが編み出す、傍観者にとっては暇つぶしの娯楽でしかない物語。でなければ、こんな醜い自分を見ることなんてなかったはずだ。

 まるで恋愛小説だ。ヒロインは愛された。ヒロインは真実の恋を見つけた。そんなヒロインを邪険にする悪者は、成敗された。ごく当たり前の、王道の展開。そしてその先もまた、王道のまま進むのだろう。

 王子様に愛され、新たな家族を得たヒロイン。彼女は慈悲深くも、悪者が成敗されるのをよく思わなかった。

「どうしてそんなことするの?!」

「こんな薄情者、!」

 決定的な言葉を吐き捨てたのは兄だった。


 私はシンデレラじゃなかった。彼女がヒロインの物語の、悪役。

 ならば悪役らしく振る舞ってやろうと、スイッチが入った。


「そうだよ。家族じゃない」


 兄の少し傷ついたような目を、彼女の驚いたような顔を、睨まない程度に鋭く見返した。

 散々私を無視しておいて、家族じゃないと肯定されたらそんな顔をするのか。

 全ての元凶のヒロイン様は、王子様に守られて家族でない人間の区別もつかなくなったのか。

 悪役らしく嫌味に笑って、ツカツカと部屋に戻った。戸に鍵をかけてすぐ荷造りを始めて、手当たり次第友人に連絡して、なんとか今晩の寝場所は確保できた。

 一部始終を聞いたであろう両親が、扉を殴るように叩く。怒鳴るような声も、暴力的な音も、聴きたくないと布団を被った。今日だけだから、今日我慢すればそれで終わるから。

 鳴り止まない心臓を押さえるように握りしめると、あの日のことが思い出された。あの日も、片手で受話器を、片手で高鳴る胸を握りしめて、取り乱す兄に「大丈夫」と言い続けた。今日は私のために、大丈夫と繰り返す。だんだん頭が痛くなってきた。心なしか、お腹までキリキリ言ってるような気がする。ギュッと布団を握りなおした。悪夢は全く終わりそうになかった。



 

 夜、私は布団から静かに抜け出した。置き手紙も何も残さなかった。伽藍堂になった部屋を見渡して、二度と変えることはないと心に刻んだ。物音を立てずに家を出て、連絡の取れた友達の部屋を訪れ、後足濁さず連絡も取れなくした。

 学校にはもう行けないかもしれない。それが一番恐ろしかったけれど、だからといってあの家にずっといることはできなかった。

 部屋主の友人は一部始終を聞いて、好きなだけいていいと言ってくれた。ありがたくその言葉に甘えることにした。久しぶりの人の優しさは、涙が溢れそうなほど温かかった。


 物語はまだ、きっとあの家で続いていることだろう。ヒロインは王子とその家族に愛され、悪役は姿を消した。消えた悪役はどうなってしまうのだろう。罪を償うか、罰を受けるか、死にでもするのか。

 物語の未来になど、期待はできなかった。ただの悪役でしかない私は諦めたように目を閉じて、終わらない物語に身を委ねた。















 大切な人が傷つくのは、心が痛む。


 限界まで耐え続けて、ようやく最後の最後に頼ってくれた友人は、簡素な布団の上で静かに眠りについていた。よっぽど疲れていたのだろう、起きる気配の微塵もない彼女からは、すぅすぅと穏やかな寝息しか聴こえない。


 彼女は自分の生を、義姉の物語だと言った。

 義姉の幸せのために邪魔者として出てくる、ちょっとした悪役だと。悪役は家族に成敗され、家を追い出されるありふれた展開を迎えたのだと。


 彼女は小さな声で、こうも溢した。

「私はシンデレラじゃなかった」

 意地悪な継母と義姉に虐められて、魔法使いに助けられて王子に見初められるシンデレラのような、悲劇の主人公ではなかったと。ヒロインに夢見ただけの、小役でしかなかったと。


 だから、私はこれから彼女の物語を作る。

 彼女をシンデレラにするための、いや、彼女をにするための物語を。

 私は彼女の魔法使いになってみせる。彼女の傷を癒し、少しでも苦しみを取り除けるように。王子様なんて不確かな存在が、不用意に彼女を傷つけないためにも。


 彼女の元家族の家の物語は、もう結末を迎えた。ヒロインが幸せになり、物語は終わった。

 これからは、新しい物語が始まる。何も恐れることはない。物語を作るのは彼女で、私はその手伝いをするだけだ。希望を取り戻して、これからを作っていく。ハッピーエンドに向けて動き出す。


 その最初の一歩として、彼女が起きたら朝ご飯を食べよう。温かいご飯と好きな食べ物、驚かせる工夫を仕込んでおこう。

 どんな顔で驚いてくれるだろう。どんな風に楽しんでくれるだろう。笑って「美味しい」と言ってくれるだろうか。


 夜明けは近い。青く淡くなり始めた空がカーテンの隙間から覗いている。私はカーテンを引いて、ぐっと伸びをした。


 一日が、新たな物語が始まる。

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