15.雨に濡れた薔薇

2020年 03月11日 00時00分 投稿

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「レイラ、俺との婚約関係を解消してほしい」


 お気に入りの深紅の瞳が、私から少し視線を逸らして告げる。その端正な顔はどこか気まずそうで、私は呆然と、同時に諦めのような寂しさのような気持ちを覚え、彼の言葉を飲み込もうとした。



 彼、アルヴィンとの婚約が決まったのは私が7つの時だった。彼の家主催のティーパーティーに参加し、何を言ったか知らないが、初対面の彼に言った言葉がどうやらお気に召したらしい。公爵家から婚約を持ち掛けられて、気づいたら私はアルヴィンの婚約者になっていた。

 それから可もなく不可もなく、政略的な婚約者として当たり障りのない関係を続けてきた。すれ違った時に一言二言話したり、婚約記念日や誕生日には花を贈ったり、家族同士の付き合いも良好で、私も婚約者としての彼には好感を持っていた。自分から婚約関係をなくすつもりもなかった上、彼が他所に女を作ることを疑ったことだって一度たりともなかったのだ。

 だからこそ、セシリアという美術科の先生がある男子生徒に気があるらしい、という噂が流れ出した時も、どうせどこにでもあるくだらない噂話だと思ってあてにはしなかった。ましてや彼に関係があるなど、疑う余地もなかった。


「セシリアって女の噂、知ってるよね?」


ある日のランチタイム。食事を終えたばかりの私のもとに、何かと構ってくる残念な第二王子、キールが開口早々訊いてきた。これがいつもの彼のペースでいつも慣れなくて、いつも鬱陶しい。


「その話はこの間、キール様から聞きましたけれど」


早めに帰ってくれないかな、という思いと鬱陶しい気持ちを一ミリも隠さず態度に出したけれど、この男の様子は変わらなかった。


「じゃあこっちの噂は?セシリアが懇意にしている男子生徒の噂」

「興味がありません。どうして私が知らない先生の信憑性の低い噂話に興味を持つと思われるのですか?」


このキールとかいう第二王子、私の友人の婚約者であるためよく顔を合わせるのだが、会うたびに胡散臭い噂話を披露するのだ。お陰で初めは王子が入ってくるとざわついた教室も、今は「またか」と誰も王子のことなど気にしていない。私もそちらの傍観者側がよかったわ。

なんて苛々と考えていると、教室に凛とした声が響いた。


「その通りよレイラ。こんな噂好きな男の言葉なんて聞かなくていいわ。無視してもいいのよ」


優雅に歩いてきた令嬢が、そっと私のそばに立った。

彼女こそ私の友人でキールの婚約者のイリスだ。少し垂れた緑の瞳に白い肌。ふんわりと結われた髪は肩にかかって、見る人にほんわかとした印象を与える。その可愛らしい顔が、今は王子を睨みつけていた。


「あら、イリス」

「ひどいなぁイリス。それが君の婚約者に対する態度?」

「大切な友人に変なことを吹き込む婚約者に優しくする理由はありませんわ。レイラ、ランチタイムに用事があると言っていなかった?」

「ちょっっとイリス!今俺は結構大事な話をしてるんだけど!」

「まあキール様、そのどうでもいい噂話のどこに多忙なレイラの時間を割くほどの価値があるというのですか?レイラ、早く用を済ませに行きましょ」


イリスがぐいぐいと肩を押すので、彼女に任せて王子の目の前から退散しようと、押されるがままに行こうとしたが、キールが続けた言葉に思わずイリスが立ち止まった。


「その男が君の婚約者だとしても?」

「────どういうことです?」

「だから、アルヴィンが美術室でセシリア先生と会っているのがよく目撃されてるんだって。信憑性のない噂も多いけど、今回ばかりは本当だよ。なんせ俺も見たからな」


ちょっと得意げな第二王子にはもうなんとも思わないが、その噂には私も興味が湧いた。いつも胡散臭い噂ばかり言うキールだが、実はこの男、婚約者には滅法弱いのだ。イリスの前でキールが嘘を吐くことはなく、イリスもまたキールのことを信用しているため、キールが言った「アルヴィンとセシリア先生が美術室で会っていた」というのはきっと本当なのだろう。

 私の脳裏を生まれて初めて「婚約者の裏切り」言葉がよぎった。


「だからまぁ、気をつけた方がいいよ。君らの仲が悪くないことは俺も知ってるけど、だからっていつまでもそうとは限らないし」

「キール様。レイラに失礼ですよ」


レイラが窘めているのも耳に入らず、私はただその事実を噛み締め、胸がちくりと痛むのを振り払うように恭しく頭を下げた。


「ご忠告、痛み入ります」


 それから2ヶ月の間、私は徐々にアルヴィンに対する不信感を募らせていった。

 セシリア先生とある男子生徒の噂はいくら経ってもなくならず、むしろ「男子生徒は先生を『セシリア』と呼び捨てにしていた」「二人が手を繋いでいるのを見たことがある」「男子生徒とセシリア先生が異様に密着しているのを見た」など、噂はより具体的になり、男子生徒がアルヴィンであることも周知の事実となっていった。

 しかし何よりも私の心を抉ったのは、彼の誕生日の日のことだった。毎年誕生日は放課後に、相手の教室に迎えに行って花とプレゼントを贈るのが私たちの間でお決まりになっていたのだが、その日私が彼の教室に行くと、そこに彼の姿はなかった。その足で、まさかと思って半信半疑で美術室を覗いた私は、そのまま暫く放心してしまった。

 以来、私は婚約者のことが信じきれなくなってしまった。あの日渡せなかった花は一度自室に飾ったが、目に入った時にあまりに嫌な気分になったので侍女にあげてしまった。じっくり選んで決めたプレゼントも見えないように仕舞って鍵をかけておいた。

 キールもはじめは面白がって情報を伝えてくれたが次第に頻度が減り、とうとうその噂のことは言わなくなった。

 イリスは変わらず私のことを励ましてくれたけれど、だんだんイリスの言葉が信じられなくなってきてしまって、遂に私の方から「励まさないで」と言ってしまった。イリスは一瞬寂しそうな顔をしたけれど、その通りにしてくれた。

 そうしてなるべくアルヴィンのことを考えないようにと過ごしてきたけれど、またアルヴィンのことを考えないといけないイベントが差し迫ってきたため、私はイリスと休日に会う約束をした。

 雲の多い、少し蒸した日だった。私たちは街の喧騒の中を、お喋りしながら歩いていた。


「それで、婚約記念日のプレゼントは何にするつもりなの?」


彼女は少し躊躇って、私に訊いた。


「彼の誕生日のプレゼントは、あの人意外と寝起きが悪いから、目覚まし時計にしたの。でも渡せなかったから今回も同じでもいいかもね」


イリスは「それもそうね」と笑ったけれど、結局別のものを用意することにして、あれこれと2人で見て回って、ハンカチ専門店に辿り着いた。


「ハンカチ専門店ですって。ちょっと覗いてみましょうよ」

と言ったのは私だった。好奇心もあったけれど、どこか遠くの国の風習で、ハンカチを渡すのは別れの意味があると聞いたことがあったから、という理由もあった。


「素敵ね。ハンカチだけでこんなにたくさんの種類があるなんて」

「見て、イリス。三角のハンカチですって。どうやって使うのかな」

「こっちには丸いハンカチもあるわ。レースの縁取りが綺麗ね」


感心したようにハンカチを見つめるイリスに目は輝いていて、私は暗い気持ちがイリスにバレていないことに内心ほっとため息をついた。


「アルヴィン様には何が似合うかな。男性らしい、シンプルで力強いデザイン?」

「寡黙な方だから、明るい色より暗い色の方が似合うかしら」


店の隅から隅までハンカチを手にとり、あっちがいいのこっちはどうだの言い合って、まだしっくりくるものが見つけられずにいた。


「これだけたくさんあるのにアルヴィン様に合ったものが見つけられないだなんて、私のハンカチへの理想が高すぎたのかな」


誤魔化すように言ったけれど、イリスは私を慰めるのがとても巧みだった。


「それだけレイラがアルヴィン様をよく見ていて、彼に合うものを真剣に選んでいたということだと思うわ」

「でもアルはセシリア先生のことが好きなのよ。こうして私がアルのプレゼントをどれだけ真剣に選んでも、アルはそんな物のこと、大して気にしないに決まっているのに」


弱気になってしまう自分が情けない。思わず強く握りしめた手を、イリスが両手で包み込んだ。


「大丈夫よ。貴女の思うままにするのが、きっと一番いいわ」


そしてイリスは店主に声をかけて、一枚のハンカチを持ってきた。


「あのねレイラ、私はこのハンカチがいいと思うの───────」




 ハッと意識が引き戻され、チャイムで授業が終わったことを悟る。気持ちは依然、アルヴィンからの婚約取消の提案のことで暗く沈んでいて、今日はイリスすら私に話しかけるのを躊躇っているようだった。

 それもそのはずだ。あのアルヴィンと私との会話は、その場に突如現れた複数の男子生徒によって打ち切られ、そのまま噂として学校内に広まっているのだから。きっと噂好きのキールならばその情報をいち早く得ているだろうと考えていると、ちょうどそのキールが教室を訪ねて来たところだった。


「やあレイラ。この度はおめでとうと一早く伝えにきたよ」


随分な物言いに面食らう。まさか笑顔でこんなことを言われるとは思っていなかったけれど、そもそもキールと私との関係は「友人の婚約者」以上でも以下でもなく、そんな彼に期待するのもおかしいように思われる。それに、今の私にはそんなキールに反論するだけの気力もなかった。


「そう。ありがとう」


ただそう返せばキールは何故かきょとんとした顔になり……すぐさまイリスに口を押さえられて喋れなくなった。


「ごめんなさい、レイラ!キール様が無神経なことを言って……」

「ううん、構わないの。……少し、休んでくるね」


 好奇の視線を感じつつ立ち上がり、教室を出て校内を彷徨った。貴族令嬢の矜持が、無様な姿を見せるわけにはいかないと背筋を伸ばさせたけれど、足取りはいつもよりふらふらとしていたと思う。

 もちろん、考えたことがなかったわけではない。なんなら婚約破棄すらあり得ると思っていた。アルヴィンは一見無口で無愛想な人だけれど、意外と感情的なところもあるのだ。感情に任せて婚約破棄をされることも想定して、婚約がなくなっても良いように色々と用意もしてきた。むしろ婚約取消で済んで、まだずっと良かったのだ。けれど。


「……本当は私、好きだったのかな」


 初めて婚約記念日を祝ってくれたときは、泣くほど嬉しかった。誕生日に贈られたルビーのネックレスは、ずっと私の宝物だ。記念日でもないのに急に屋敷に来て、ピクニックに行こうと言いだしたこともあった。料理長に手伝ってもらって弁当を作って、料理が美味しいと言ってもらえたのが嬉しくて、密かに料理の練習をしてきた。いつか、アルと一緒に、私が作ったお弁当を食べたいと願ってきた。

 思い出せば思い出すほど、アルへの好きで溢れてきて、涙を堪えるように上を向くと、丁度教室名を書いたプレートが目に飛び込んできた。

『美術室』

と同時に扉が開いて、小柄な女性が私の胸にそのまま飛び込んできた。


「わっ、えっあの、その、ごめんなさい!」


小柄な女性は慌てて、その場で頭を下げ、それからオロオロと私の言葉を待っているようだった。


「……セシリア先生、ですか?」


女性は「は、はい……」と返事して、再び頭を下げた。

セシリア先生は思い描いていた妖艶なイメージの女性ではなく、むしろ可愛らしい、素朴なイメージの女性だった。アルヴィンはこのような女性が好みなのかと、働かない頭でふと思った。


「あの……大丈夫ですか?私、思いっきり当たってしまって……。……あの?」


ちっとも喋らない私を不審に思ったらしい、先生が私の顔を覗き込んだ時、私の中で醜い感情がふつふつと湧き上がって、先生のことを打ってしまいそうになっていた。慌てて衝動を抑え込み、自分の右腕を握りしめ、先生から一歩離れる。


「ごめんなさい。近づかないでもらえますか?」


思ったより言葉はするすると出てきた。先生は不思議そうに、要求を飲んだ。


「セシリア先生は……アルヴィン様と親しいのですか?」


俯いて先生の顔を見ないように訪ねる。


「はい。そうですけど……」

「先生は、アルヴィン様とよくこの部屋で会っているとの噂がありますが、あれは……」

「本当ですよ。最近はよく、アルヴィンと会っています」


ピクリと自分の頬が揺れたのを感じた。先生が彼を呼び捨てにした事実が、私の黒い感情をもっと黒くさせていく。気持ちを抑えるように、胸に手を置いて呼吸を整える。「だ、大丈夫ですか……?」とセシリア先生が言うのに被せるように、私は尋ねた。


「先生は……アルヴィン様とどういう関係なんですか?」


一瞬、先生が固まったのがわかった。もう私は抑えられなかった。気づけば先生の肩を掴んでいて、先生に矢継ぎ早に言葉を投げかけていた。「アルにセシリアと呼ばれているという話は本当ですか」「アルと密着して何をしていたのですか」「どうして貴女がアルに愛されているのですか」

「どうして──────────


「レイラ?」


 ふと声がして、振り返ればアルヴィンが呆然と立ち尽くしていた。私は自分の両手がセシリア先生の肩にあり、先ほどまで彼女を問い詰めていたことを思い出し、頭の中が真っ白になって逃げるように走った。行き先は考えていなかった。後ろから追いかける足音と私の名を呼ぶ彼の声が聴こえるけれど、聞いていられなかった。幸い生徒にはほとんど会わず、雨の降る裏庭に出た。濡れるのも気にせず走って、泥に足をとられて体勢を崩し、そのまま泥だらけの地面────ではなく彼の胸の中に落ちた。たくましい胸元のネックレスがキラリと青色に光って、不意に涙がこみ上げてきて、私は泣くまいと思わず顔を上げてしまった。

 彼の真紅の瞳と目が合った。と同時に、ふいと逸らされてしまう。


「……やっぱりアルヴィン様は、セシリア先生が好きなのですか」


悲しくなって俯き、涙を隠すように両手で顔を覆う。早くこの温かい身体から離れないと、と心では思っていても、離れることができずにいた。


「違うッそんな噂が流れているようだけど、俺は決して……」

「でもっ、先生と美術室で二人でお会いなさっているではありませんか!」

「あれは彼女に相談に乗ってもらっていただけで」

「それならっ」


涙で濡れた顔を上げた。もう我慢できなかった。ぼやけた目でも彼が息を飲んだのが見えた。


「それなら誕生日の日、教室で待っていてほしかった!」


咳を切ったように涙が溢れ出す。ずっと言えなかった言葉も溢れ出して止まらなかった。


「楽しみにしていたんです!アルヴィン様に喜んでもらえるものを探して、包んで……お会いできるのを楽しみにしていたんです!……なのに貴方はいなくいて!哀しくて!偶然覗いた美術室で貴方はセシリア先生と一緒にいて!どれだけ寂しかったか、わかりますか⁉︎っ私がどれだけ、アルヴィン様に会いたかったか、わかりますかっ⁉︎」


 止まらない涙は拭わずとも雨で流れていく。ぼんやりとしか見えなくても、彼が困惑して動かないのがわかって、離れようとすると腕を回され逃げられなくされてしまった。離して、と泣く私を彼は強く抱きしめて、それから急に横抱きにしてしまった。びっくりして涙が止まった。けれど顔は見られたくなかったので、両手で隠していた。

 横抱き状態から開放されると、どうやら私は屋根の下にいるようだった。雨が当たらないように運んでくれたらしい。顔を覆い続けている私を彼はまた抱きしめて、「ごめん、言葉が足りなかった」と言った。


「セシリアとの噂、レイラに何も伝えずに放ったらかしにして、ごめん」


彼が「セシリア」と呼んだことに心がざわつく。また涙が溢れそうになる。


「セシリアは俺の叔母なんだ。俺の、母の妹」


ピタッと悲しみが止まった。確かに、考えてみればセシリア先生の顔や小柄な体は、彼のお母様によく似ていた。


「よく美術室に行っていたのは本当に相談のためで、セシリアのことは好きだけどそれは家族としての好きで、恋愛感情じゃないから……」


わかってくれた?と優しい声に、思わず頷く。


「それから、密着してたって噂は、多分相談に乗ってもらってる時のことだと思う」

「でも密着しなくたって……」

「それはそうだけど……でもレイラだって、お兄さんと手を繋ぐことも、密着することも、ないわけじゃないだろ?」


ない、と言おうとしたが、何かと過保護な兄はよく私の手を握って心配したり、ダンスのレッスンの時はかなりの距離で踊ると思い出して言葉に詰まる。辛うじて言葉を絞り出し、癇癪のように反論したのは我ながら子供っぽかった。


「でもッ……初めからそう仰らないと、わかりません……」


アルヴィンは「あー……」と少し躊躇って、


「……ごめん、その通りだ。言うべきだったのに、レイラなら大丈夫と勝手に思い込んで、伝えなかった。ごめん。後悔してる」


と謝った。きっと彼のことだから、見えないけれど頭も下げているのだろうと思う。「……許してくれる?」と躊躇いがちな言葉には、もう頷くしかなかった。

 すると、身体を抱きしめていた両手が離され、ごそごそと何やら音がして、なんとなく寒くて顔を覆っているままの私に、「レイラ、こっちを見て」と彼の声がした。

 恐る恐る両手の隙間から覗いて、跪く彼の姿がまず見えて……私は思わず泣いていた。


「結婚してくれますか?」


訊ねた彼の手の中には、ルビーの結婚指輪があった。

 また泣き出した私を前に驚いたらしい彼は、「えっと……ごめん、嫌だった?」なんて訊くので私は勿論首を振って、「嬉しい」と呟く。こんな幸福初めてで、どうしたらいいか分からなくて、ただただ泣くしかなくて。彼は私の顔が見えるよう両手を外して、そっと指輪をはめる。彼の瞳と全く同じ色の指輪が嬉しくて、私はそっとルビーを撫でた。


「気に入ってくれた……?」

「ええ、もちろんです。とっても素敵」


彼は緊張が解けて安心し、大きく一息ついた。


「今朝のことで俺が君に婚約取消を提案したとかいう噂を小耳に挟んだものだから、君には信じられないと言われてしまうかと思っていたんだけど、よかった」

「私も婚約取消を提案されたとすっかり思い込んでしまいましたけれど……貴方に会って、そんなことはすっかり忘れてしまいました。ところで、こちらの指輪のデザインはもしかして……?」

「セシリアにデザインを手伝ってもらったんだ。急だったから、すごく怒られたけど、石選びから削り出しまで、全部彼女に手伝ってもらって、いい職人も教えてもらって作った。喜んでもらえて、本当によかったよ」

「……噂が出回りしたのはここ2ヶ月ですよね。どうしてそんなに急に指輪を作ることにしたんですか?」


ふと思った疑問をぶつけてみると彼はまた「あー……」と言い出して、ゆっくりと話しだした。


「実は、2ヶ月前に俺が正式に公爵家の後継になることが決定して……公爵になるのはもう少し先だけど、それまでに結婚しておいたらレイラを『婚約者』ではなく『妻』として紹介できるから……」

「まあ、おめでとうございます!妻として紹介した方が、いろいろとややこしくなくて済みますものね」

「あ、いや、それもあるんだけど……」


言いにくそうに視線を逸らして話す。今日のことでこの仕草は彼が照れている時にするのだと分かった。


「……妻として紹介した方が、レイラに虫がつかないから」


思っていた以上に可愛らしい答えが返ってきて、驚いてクスクスと笑った。


「私のような美人でない小娘に近づいてくるのは、詐欺師か身分狙いの貴族だけでしょうに」

「そんなことはない!君は可憐で……確かに女神のように美しいわけではないが、とても愛らしい」


 素直で彼らしいけれど彼らしくないキザな物言いに、いつのまにか一通りお世辞が言えるようになったのかな、と母のような気持ちを抱き、ふと、もしかしたらそれは彼の本心かもしれないと思って、自分の気持ちも曝け出そうと決心した。


「あの、アルヴィン様。今日は婚約記念日だから、プレゼントを用意したのですが、花は教室に置いてきてしまって……今あるのはこれだけで、ちょっと濡れてしまったのですが……」


ずぶ濡れになったドレスのポケットから刺繍入りの白いハンカチを取り出して渡した。彼はそれを心底大切そうに受け取って広げ、嬉しそうに笑ってくださった。


「これは薔薇の刺繍とイニシャル入りの……もしかして、君が?」


ちょっと恥ずかしくて頬を赤らめて、小さく頷く。ハンカチ専門店でイリスにおすすめされた真っ白の無地のハンカチに、彼の瞳の深紅の糸で刺繍を入れたのだ。子供のようにハンカチをしばらく見回した彼は、ある一箇所を見て手を止めた。不安な私をよそに、赤い瞳が大きく開かれる。


「……本当?」


ポツリと小さな呟きに、私は一生分の勇気を込めて、彼の手を握りしめてそっと愛を囁いた。この世で一番の幸せを二人で噛み締め、唇を寄せ、胸元に互いの瞳色の宝石が光った。

 なんの変哲もない学校の裏庭の片隅にたたずむ影二つ。誰も知らない恋物語は、降り止まない雨のカーテンで優しく隠された。

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