収穫
@rwjtd
収穫
そこは一面に広がる小麦畑でした。ゆっくりと波打つ黄金色。その中に立つ、男と女。お互いにどっさりと小麦の束を抱えて微笑んでいる。昼下がりの日差しが黄金色を美しく照らし、柔らかい光が次第に光景を包み込む。博士はいつもそこで目が覚めるのでした。
窓の外には薄い影が渦巻いていました。強い風に灰が巻き上げられて、太陽の光を鈍らせいているのです。曖昧な薄闇はやるせなく、人々の心にも影を落とします。しかしその灰は人々の手によってもたらされたものでした。最後の大きな戦争により、世界は灰で覆われたのです。晴れる日もありますが、またすぐに薄闇はやってくる。そして原因は分からないのですが、灰は少しずつ増えているのです。いずれは闇にすべてを支配される。そんな恐れを抱えて生きることが、いつしか人々の当たり前になってしまいました。その当たり前を変えるために、博士達は集まり、研究を続けています。幾つかの成果が薄闇を和らげるのに役立ちましたが、闇に支配されるまでの時間を先へ延ばしたに過ぎません。本当の解決は生みだされないまま、最近の博士は小麦畑の夢をよく見ます。かつての世界では近くにあった光景。この世界では見ることの出来なくなった光景。博士はそれを、発想を得る兆しだ、と考えました。豊かに実る小麦を発想とするならば、その収穫を待ち焦がれている。しかし、兆しばかりで肝心の発想はなかなか降りてきてはくれません。そんな毎日を、博士達は『今日も収穫を得られなかった』と冗談めかして笑い飛ばしました。そうでもしないと気持ちがめげてしまうからです。そしてまた、小麦畑の夢を見る。目を覚まし、未だに得られない収穫に歯噛みしながら、博士は考えました。他の研究と同様、最善を尽くさなければならない。つまり、ただ待つばかりではなく、こちらから発想を獲りに行くべきだろう。こうして博士は発想が生まれる構造そのものを研究し、未だに降りてこないその発想を自分たちの力で手に入れようと決意します。そしてその研究を『収穫』計画と名付けたのでした。
本来の薄闇対策研究と並行して、『収穫』計画は進められることになりました。しかし実際は具体策につながりやすい研究が優先されるため、『収穫』計画に割かれる資源や労力はわずかです。そして優先されているにもかかわらず、どの具体策も薄闇を和らげる程度にとどまり、いずれ闇に支配される未来を変えることはできません。その状況を繰り返すたびに博士は、『収穫』計画にこそ本当の解決がある、と思うようになっていました。
『収穫』計画の入り口として、まずは思考と意識について研究することにしました。考える、という行為によって脳に反応が出る。そして結論を得る。単純な説明ですが、ここには問題点があります。考えることによって発生する脳の反応を確認することはできる。では考えることを働きかける根本はどこにあるのか。その発露を追って脳の解析を進めていくと、機能を与えられた部分や仕組みがあり、その機能を起動させる上位の機能があり、さらにその上位に機能があり…と、新たな機能がどこまでも発見されます。しかし『考える』という機能を起動させる、根本たる『私』にはたどり着けません。さも当然かのように、追求する先が無限に開放されていくのです。神の作為。驚くべき事実を目の前にして、博士はそう思わざるを得ません。そして『収穫』は、その向こうにある。こちらから越えるにはあまりにも大きな壁であることを、博士達は思い知らされるのでした。
***
ここは霊感の国、血の池の水辺。発想やひらめきといったすべてのインスピレーション、つまり霊感は、赤ん坊としてここから生まれる。そしてまたひとつ、池から這い上がる赤ん坊を抱きあげ、血の池の番人である渕の男は介抱に精を出す。赤ん坊にはまだ血がまとう。男の緑色の肌を伝い、唯一の着衣である腰蓑を濡らす。
「よしよし」
広げた布に転がし、全身を包んできれいに拭う。丁寧に拭い終わると、男は赤ん坊を優しく四つ這いにする。
「ほら、頑張って辿りつくんだぞ」
まばらに草の生える血の池のほとりで、地面の踏み固められた跡が一筋続いている。やがて緩やかな坂になる道で、先ほどから取り上げられていた赤ん坊たちがそれぞれのペースで這っている。それに続くように、渕の男は今取り上げた赤ん坊をはなったのだった。赤ん坊は無邪気に笑いながら、まだその行く先も知らない。それでもひとまず道に沿って進む。赤ん坊が振り返るたびに面倒を見てやりたくなるが、それは役割を超えた行為なので堪えなければならない。頑張るんだぞ。そう心で呟き、精いっぱい見送る。髪の毛のない頭に尖った耳、ぎょろっとした黄色い目と緑色の肌。そして腰蓑ひとつというその容貌から誤解されがちだが、渕の男は愛情に溢れた存在なのであった。血の池の水面は再び穏やかになる。しばらく誕生が続き、ようやくひと段落したようだった。先ほど赤ん坊を拭った布で、髪の毛の全く生えない頭皮に噴出した汗を拭う。その時だった。音を立てて、中央で大きな気泡がはじける。はじけた気泡のあたりが霞み、向こうにゆらりと影が見えた。徐々に現れていくその影は、よほど巨大な手だった。
「これは」
拭った布を持ったまま、しばらく呆気にとられる。
襲撃。
渕の男の脳裏に、その言葉が過る。
三度目の襲撃。危惧していたことが起ってしまった。
我に返り、渕の男は赤ん坊達が這っていった道を、ひた走ったのだった。
***
『収穫』計画は研究を中断していました。これ以上、発見を続けることは意味をなさない。それは苦しい決断でした。薄闇は濃度を増し、具体策も残す数が少なくなり、現状を和らげることさえままならなくなりそうです。なす術がない中、博士は考えました。
我々の住まう、物理によって形作られる世界。そこからの追求では到底たどり着くことのできない高次の世界がある。根本たる『私』、つまり『私』という意識は、その世界からやってくる。いや違う、やってくるのではない。私の意識はここに『ある』。つまり、高次の世界も既に『ある』のだ。この物理の世界と表裏を成している。だとするならば、意識こそが高次の世界そのものであり、その証明でもある。だが物理の世界からの追求では捉えられない。追求した分だけ結果は物理に則って用意され続け、たどり着くことはできない。だが本当に意識が、つまり『私』こそが高次の世界の証明だというのならば。博士はそこまで考えたのちに、静かに目を閉じます。視覚動物である我々が、物理の影響を最も受けるその視覚を遮断する。目を閉じた状態、この暗闇は、もっとも意識を体感できる状況なのではないか。しかし、そうだとしても、その状況を受け入れる以上のことはできないものか。そして、再び目を開けます。自然と窓の外へ目をやり、しばらく晴れた空を見ていないことを思うのでした。
***
赤ん坊である霊感が進む道の先、緩やかな坂の高台に荒れた様子の城がある。この城にたどり着くと、霊感達は『門の男』と呼ばれる兵士にひとりひとり抱えられ、『発火の門』と呼ばれる最上階の広場へと運ばれる。
「今日はまた多いねえ。次」
広場の玉座に座る女性が、愚痴を漏らしながら次を促す。それが女王であり、霊感の国の主でもあった。燃え上がるような赤い逆毛、そして小柄でありながら丸々とした体。たっぷりとした灰色の布で包み込んで、さらなる貫禄を得ている。広場には円形の模様が描かれていた。その中央に、門の男が霊感を座らせる。女王が指を弾く。すると、最も外郭の円からゆらゆらと光が立ち昇る。やがていくつもの不安定な光の筋が現れる。先端は落ち着かず、しばらくは城の内壁を破壊したり、門の男が構える盾を焼いたりした。そのうちまっすぐと立ちあがり、次第に円の中央へ倒れこむようにして先端が集中し、その集中点が次第に降り、赤ん坊である霊感へと注がれる。まるでくすぐったいように笑いながら、霊感は光を受け入れる。光の出力は高まり、頂点に達する。閃光。門の男達はもちろん、女王でさえも目を眩ませる。
「無に帰ったか」
深いため息とともに、女王は少し疲れた表情を覗かせる。発火に成功すれば、霊感は一条の光となったはずだった。絞りを開いた天井を抜け、光は灰色の雲へと突き刺さる。雲がすべてを飲み込めば、あとは人々の脳裏へ授けられるだけだった。しかし、霊感は閃光となって消えた。無に帰るとは、霊感にとっての死だった。どれほど霊感の国の主として徹しようとしても、どこか感傷を持ち込んでしまう。そもそも赤ん坊の姿で生まれるなんて。
「創造主も人が悪いね」
誰ともなくこぼした愚痴に、門の男達は首をかしげ、またざわめく。
「何でもないよ、次」
その時だった。
「大変です」
広場に渕の男が駆け込んできた。城に姿を現すことは滅多にない。それだけに非常事態であることは伺えた。息を切らしながらも、渕の男は声を絞り出す。
「『収穫』が、現れました」
「なんだって」
***
「どうだい、はかどってるかい」
休憩室で窓の外を眺めていると、博士と同じ施設の同僚が話しかけてきました。彼は具体策の研究を進めているチームでありながら、博士の研究の動向を気にしてくれるひとりでもありました。
「相変わらず『収穫』は得られないよ。そっちはどうだい」
合羽のような出で立ちからすると、彼は表に出て実地調査をおこなってきたようでした。
「こっちもだよ。新しい具体策どころか、最近は迷走してしまっている」
そういうと、彼は髪の毛を掻きむしりました。行き詰っている時に彼が見せる癖でした。
「どうやらつまずいているようだね。いったい何があったんだい」
「何が、というよりも、何も、だね。何もなくなってしまったんだ」
「何も」
「そう。戦争直後の灰には、分かりやすい成分があった。我々がもたらした、あの罪深い成分だよ。それが今や、その成分さえ定かではない」
同僚のいうことが理解出来ず、博士は聞き返しました。
「灰は確かにある。目の前にね。でも、その成分を打ち消す成果をもたらすと、また新しい成分が発見される。それを打ち消す成果をもたらすとまた新しい成分が発見されて…と、どこまでもいたちごっこなのさ。こんなことってあり得るかい。成分が灰を形成しているはずなのに、まるで灰という存在を維持するために新しい成分が発見されていくみたいだよ」
似ている、と博士は思いました。根本たる『私』を、脳の中にどこまでも求めていた状況と。薄闇の灰の成分はまるで、根本たる『私』と同じ立場を取っている。それでは、普通の灰と異なり、根本たる『私』と共通するものは何なのか。
もう少しで何かがかみ合う感覚を、博士は自分の中に覚えたのでした。
***
城から軍隊を率い、女王は血の池まで出向いた。
血の池を這い出した『収穫』に対して、『門の男』の軍隊が二千程度。行く手を阻もうとしていたが、成す術なく押し込まれている。二度目の襲撃までは辛うじて攻撃が効いていた。それで、どうにか血の池に押し戻せたのだ。しかし今回は、大きさからして前回の比ではない。
「姉貴、下がらなくちゃ」
前線から退こうとしない女王を、渕の男が促す。霊感の国では二人が最も古い存在であり、渕の男はその昔から女王のことを姉貴と呼んでいた。
「ええい」
地団駄を踏むもののどうにもできず、女王は前線を下げる指示を出す。躍起になって退治しようとする女王を傍らに見ながら、渕の男はふと思う。
そういえば『収穫』だって、巨体であるにしても血の池から生まれた霊感だ。かつては霊感の国を襲う脅威として、『欠如』と呼ばれる黒い怪物が発生することがあった。『収穫』ほどの大きさではないが、霊感を食い散らかし、国を破壊するためだけに生まれた。しかし『収穫』は違う。その巨体ゆえに国を破壊してしまうが、悪意はない。あの笑顔を見るたびに、渕の男の親心がうずく。そして二度も無に帰しているのに、こうしてまた生まれる。
「姉貴、こいつは霊感なんでしょう。しかも生まれてくるのは三度目だ。授けられるべきだから何度も生まれてくるんじゃ」
「分かってるよ、そんなこと」
『収穫』を睨みながら、存外静かな調子で女王が答えた。
「最初から分かってたよ。あいつは無に帰るような霊感じゃない。でも、そう簡単に授けられないのさ」
女王が口の端を歪め、挑戦的な笑みを見せる。
「奴は、意識の世界と物理の世界の境目を吹き飛ばす引き金だ。博士って奴に授けた途端、ぶつかるはずのない二つの世界が衝突する。そうなれば、意識の亜世界でしかないこの国は、ひとたまりもなく吹っ飛んじまう」
笑みとは裏腹に、女王のこめかみに冷汗が滲む。突然告げられた国の滅亡に、追いつかない渕の男は気の抜けた様子で女王を見つめていた。
「で、でもまたどうして」
淵の男がようやく問い掛ける。
「さあね、『収穫』を覗いたら、そんなイメージがあったんだよ。そして厄介なことに、意識の世界の力がそれを求めてやがる。つまり、その時点で意味なんてないのさ。力はいつも方向を示すだけで、その意味を語らない」
「力ってのは、創造主のことですかい」
「そう、残念ながらね」
淵の男は再び『収穫』を見やる。飛んでくる矢をくすぐったそうにして、『収穫』は無邪気に戯れていた。
***
博士は同僚と別れ、自室に入りました。そしてまた窓の外を見る。
薄闇の灰と、普通の灰。主に視覚と触覚で、人々はいずれの存在も認識することができる。つまり、どちらの存在にも普遍性が与えられていることには間違いない。しかし普通の灰は成分によって存在するのに対して、薄闇の灰は存在を維持するために成分が発見される。崩れているのは、因果律だ。物理世界における原因と結果が、薄闇の灰には失われている。そして、根本たる『私』を脳の機能に求めたときも、因果律が失われていたと言える。結果をもたらす原因を求めているはずが、結果に合わせて原因が用意される。失われるはずのない因果律が失われ、物理の世界からは追うことが出来ない。
物理の世界から追えないと言うなら、意識の世界から考えてみたらどうか。
『私』は意識であり、意識の世界とは『私』そのもの。私の意識は私のみが認識する。それに対して、普通の灰と薄闇の灰は、私だけでなく他の人々もまた認識する。捉える主体である意識と違い、灰は捉えられる側、つまり客体だからだ。客体としての物体であり、物体として意識に認識を与えている。だがここに、違和感を覚える。薄闇の灰は物体なのだろうか。物体が物理の法則によって成立するならば、物理の法則を担う因果律が薄闇の灰には失われてしまっている。物体として成立し得ないのだ。
前提を大きく間違えている。
まず物体がある、のではない。意識だ。
物体が認識を与えているのではない。意識が、その内側から認識を与えられている。『そこに存在する』という認識を与えられることで、物体は客体として存在する。その対象が、物体として成立しないものであっても同じだ。『存在する』という認識が、意識の内側から与えられるのならば、客体として存在し得る。
しかし、まだ足りない。
物体とも言えない薄闇の灰が幻覚でもないのは、すべての人が疑うことなくその存在を認識できるからだ。つまり一個の意識だけではなく、すべての人の意識に対して『存在する』という認識が与えられている。例えば、やはりまず物体があり、物体がそれぞれの独立した意識に『存在する』という認識を与えるのならば、それは容易に想像できる。しかしそれぞれの全く独立した意識に対して、その内側からまったく同じ認識が与えられる、なんてことは…、一体、どう想像すれば…
博士はいつの間にか座り込んでいました。そして目を閉じて考え続けていましたが、やがてそのまま眠りについてしまったのでした。
***
「姉貴、あれを」
淵の男が、『収穫』を指さす。体の輪郭から、ゆらゆらと光が立ち昇っている。
「自ら発火するつもりか」
もう止められない。女王がそう思った瞬間、『収穫』の体からいくつもの光の筋が発し、強力な熱量とともに衝撃が襲ったのだった。
光の中で、女王は立ち尽くしていた。目の前に、男が一人立っていることに気付く。見覚えのある顔。
「あんた、博士かい」
博士のほうで見覚えがあるはずもなく、自分を知っているような女王を前に、ただ戸惑う。
「こんにちは」
突如として、脇に青年が現れる。驚く間もなく、はあ、とだけ反応し、それが精一杯の挨拶となった。
「あんたは、誰だい」
「私が『収穫』です」
博士と共に、その青年を見入る。先ほどまで桁違いに大きい赤ん坊だったのに、適正な大きさの青年になっていた。そして今度は、博士が口を開く。
「『収穫』って、それは私が計画につけた名前で」
「そう。そして幾たびもあなたの夢に現れては降りなかった発想、つまり霊感です」
「それじゃあ、とうとう降りてきてくれたというわけか」
博士の言葉に、青年が微笑み返す。
「それにしてもここはどこなんだい」
女王が業を煮やして言う。
「たった今世界の衝突が起きた、ここは中心です。つまりここはどこでもあり、どこでもない」
「どういう意味なんだい」
理解できない言葉が並ぶ苛立ちを、女王は隠そうとしない。
「衝突の中心点では境目が崩れ、すべての世界が交錯しています。すべての世界に通じていながら、どこの世界にも存在し得ない。本来会うことのない我々が、こうして顔を合わせているのはそのためです」
顔をしかめ、それは理解の追いつかない部分があることを示していた。
「そしてまた、我々すべてが一つだったことも示しています」
「一つ」
「そう。全てはそもそも一つだった。しかし発展のために意識は分化することを選び、分化したそれぞれの意識の先で共有する物理の世界が現れた。その世界で人々は衝突と調和を繰り返し、さらに発展を試みた。深い傷を何度も負いはしましたが、そのたびに乗り越えてきたのです。しかしそろそろ、一つだったことを思い出すべきだ。そうじゃないと乗越えられない。分化発展してきた世界が、よりよい次の世界を築くために必要な事だったのです」
「そのために、私達の国は滅びて当然だったってわけかい」
女王が仇を前に、憎しみを込めて言う。
「いえ」
『収穫』の澱みない笑顔に、女王は憎しみを維持できない。滅びてしまった事実さえ、大したことではないように思えてしまう。
「意識の世界にありながら物理の作用をもち、数多の意識に迸る霊感を放つ。その究極の変数をもたらす存在が、分化発展の作用には重要です」
「つまり、どういうことなんだい」
「あなたがたの国は、やがてまた生まれる。ただ、今は少し待ってほしい。この衝撃が収まるまで」
「それが、『創造主』の思し召しかい」
「力は方向を示すだけです。その意味を語らない」
「そうだったね。わかったよ、それならもう、とにかくアンタに任せたよ」
対峙する気持ちがすっかり萎え、女王は少し疲れた気がした。
「さて、博士」
『収穫』が博士に向き直る。
「あなたはこのあと目を覚まし、ひとつの発想を得ます。それは、全ての意識がそもそも一つだったとしたら、という仮定です」
そうか、と博士が手を叩く。
「個々の意識が全く独立している、というのは物理の世界から見た場合だ。そもそも物理ではなく意識が先にあるとするならば、物理の世界での前提など必要ない。まずは意識が一つであり、そこから分かれ、分かれた先に物理の世界が生まれた。つまり分かれた意識がそれぞれに物理世界の認識を与えられていて、それによって物理の世界が成立している。では物理の法則では成立し得ない薄闇の灰はどうか。同じことだ。意識の世界から個々の意識へ薄闇の灰の存在を認識させることで、薄闇の灰は存在を与えられている。物理の世界に反映されながら物理の法則を超えているのはそのためだ」
博士の理論は勢いを増し、女王でさえも呆気に取られていた。待てよ、と博士の思考は足踏みを見せる。
「意識の世界に認識を与える力が働いているとして、物理世界の認識を与える力と薄闇の灰の認識を与える力は別なのか」
「そうです。物理の世界を成立させる力は従来のものです。しかし、薄闇の灰を認識させている力は、実は人間の手で生みだしている」
顎に指を添え、博士は深い思考に入っている。しかしすぐ答えに行き着く。
「恐怖か」
「そうです。あなた方が生み出した灰によって、全員が等しく恐怖を抱いた。それはかつてないことであり、その恐怖は意識の世界さえも支配しようとしている。そして恐怖は意識の世界の力に迫り、今度は個々の意識へ認識を与えだした。それが薄闇の灰です。初めは物理の世界によって生み出された灰でしたが、今確認できる灰のほとんどが恐怖の産物であり、既に物理の範疇外にあるのです」
「物理的作用から生み出された恐怖が意識の世界を蝕み、今度は意識の世界から物理の世界に侵食し始め、さらに与えられた恐怖が意識の世界で増殖し続ける」
博士は自ら行き着いた言葉に寒気を覚えた。
「この先は二つに一つです。恐怖にすべてを飲み込まれるか、恐怖に打ち克つか」
なるほど、と博士は依然として顎に指を添えながら唸る。
「しかし、理屈は分かっても解決は簡単ではない。なんせ、全ての人に理解してもらい、ともに恐怖に打ち克つ必要がある。それは、途方もなく粘り強い作業だ」
「そうです。皆が同じ方向に向き、協力して解決するより他ない。だけど乗り越えた先にはより豊かな世界が待っている」
ふむ、と博士は目を閉じ、深く息をつく。
「そしてもし、その未来がやってきた暁には私達が生まれます」
「何だって」
久々に女王が会話に入る。
「私は霊感であり、生命でもある。そして私達は、この世界と融合できる新人類です」
ふん、と女王が鼻をならす。
「道理で規格外なわけだよ。まったく創造主ってのは本当に人が悪いね。でもそれなら、とっととあんたが生まれて向こうから意識の世界を動かしてやればいい」
「人類はまだ未成熟なのです。今私が生まれていっても、彼らは異質であることに更なる恐怖を抱くだけです」
「まったくややこしいね」
ええ、と『収穫』は答え、静かに微笑む。
「では、そろそろ時間のようです」
その一言を合図に、光は強烈に明るさを増し、『収穫』達を包んだのだった。
***
博士は目を覚ましました。なんだかとても奇妙な夢を見た気がして、しかし何一つ憶えていません。目の前の窓には、今まで幾度となく見た光景がありました。薄闇の渦巻く空。
その時です。
闇を割く一条の光のように、発想が博士の脳裏に撃ち込まれたのでした…
***
一面に広がる小麦畑。黄金色が、ゆっくりと波打つ。その中に立つ、男と女。お互いにどっさりと小麦の束を抱えて微笑んでいる。昼下がりの日差しが黄金色を美しく照らす。別の男が、畑の外から呼んでいる。収穫、とその男は呼んでいるようだった。小麦畑の中で、『収穫』と呼ばれた男が手を振って応える。男と女は抱えた束を運び出し、やってきた男と会話を交わす。
「今年も豊作じゃないか」
ああ、と答えながら、束をならして寝かしている。
「まったく、昔に灰が覆ってたなんて、考えられねえな」
「そうだな、俺やお前のひい爺さんたちのお陰さ」
「まったくだ」
そういうと、やってきた男が『収穫』の脇に寄ってくる。
「それでさ、今日はお願いがあってきたんだけど」
「お願い?」
「そう。お前さ、『声』が聞こえるだろう。それでさ、隣村に気になる子がいてな、その子が俺のことをどう思ってんのか、ちょっと聞いてみて欲しいんだよ」
「だめだ」
むげに断り、『収穫』は作業に勤しむ。そこをなんとか、と食い下がる男。だめだ、と改めて断ると、男がむくれる。ケチ、と拗ねるその様子を見て女が笑う。
「そんなことより今夜の収穫祭はいくのか」
「ああ、行くよ、行く」
既にむくれていることも忘れ、男はワクワクした様子を隠さない。その単純な変わりようを、女がさらに笑うのだった。
それはある日の昼下がり。何気ない平和に満ちた日常。畑のそばに男と女の家がある。祭壇には、亡くなった祖父と曽祖父の写真があった。曽祖父として飾られている博士の表情は穏やかで、まるで昼下がりのその光景を、暖かく見守っているかのようだった。
(了)
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