【02】呪いの鏡


 明治時代の話。

 その村は、山深い森の中に点在する数十の家々から成り立っていた。

 猫の額のような畑と田んぼしかない、人里離れた何もない村であったが、いつ頃からか村外れにある大きな屋敷に余所者が訪れるようになった。

 美作優理子みまさかゆりこも、その一人である。彼女は隣県の長野からわざわざこの地へとやって来た。

 彼女を乗せた馬車は村内を過り、立派な渋黒くろしぶの板塀に囲まれた屋敷の棟門前に停まった。そして美作は、出迎えに来た猫背で陰気な面の下男に連れられ、独り門の奥へと足を踏み入れる。やがて、美作は三十畳はあろうかという座敷に通された。

 そこは南西の裏鬼門の入り口からしか入る事ができず、鬼門である北東に向かって長細い。

 左右の壁際には大小様々な化粧鏡が無数に掛けられており、最奥に位置する板壁の左側には山水画の掛け軸があった。その右側には、白髪の老婆が正座をしている。

 老婆は黒の袴に白の上衣をまとい、背筋をぴんと伸ばしている。両眼が灰色に濁っており、視力は相当悪いであろう事が窺えた。

 美作は座敷に入ったとたん、この老婆の姿を目の当たりにして大きく息を飲む。何か触れてはいけないような、この世のものとは思えない雰囲気を感じたからだ。

 老婆はまばたき一つせずに、虚空を見つめたまま言葉を発する。

「さて。どういった用件でしょう。お聞かせくださいませんか?」

 その言葉を耳にした瞬間、美作は勢いよく膝を折って土下座すると、少しの沈黙を経て、堰を切ったように語り始める。

「……あの女が憎い。私より若いだけのあの女……早雪さゆきをこの世から消してください。そして、あんな女に心を奪われた情けない夫、裕之ひろゆき、それを知りながら私には秘密にして陰口を叩き、私を馬鹿にしていた使用人ども……みんな、みんな、憎い! あの屋敷に住む私以外の全員をむごたらしい方法で殺してやりたぃいいい……」

 美作は額を畳に強く押し付けながら真っ赤な顔で歯軋りをする。その表情はまるで般若の面のようであった。

「ふむ……」

 老婆は深々と頷く。それを見るやいなや、猫背の下男が奥の壁に歩み寄り、掛け軸を捲る。すると、その裏の壁には十センチ程度の亀裂があった。下男はその亀裂に左手の指先を突っ込み、更に左側に引いた。すると、ガラリと音がして何もなかった壁の一部が開く。どうやら隠し戸であったらしい。

 奥から現れたのは、立派な床の間であった。白木のやしろが置かれていて、床の間の入り口の上部には大きな注連縄しめなわが飾られていた。社の前には漆塗うるしぬりの御供物台があり、そこには人間の顔がすっぽり入りそうな大きさの桐の箱が置いてある。

 下男が後ろに下がると、老婆は矍鑠かくしゃくとした所作で立ち上がり、床の間の社へと向き合って両膝を突いた。そして、御供物台の桐箱を開ける。中には紫の布に包まれた楕円の板状のものが入っていた。

 その紫の布にくるまれた何かを、老婆は取りあげると己の膝上で包みを丁寧に開いた。中から現れたのは楕円の鏡であった。

 それから老婆は膝の上に鏡を乗せたまま、社の扉を両手で開く。そして、その開かれた扉口に鏡を向けた。

 そのままの姿勢で、しばし老婆は何かの祝詞のりとのような文言を呟き続け、再び鏡を膝の上に置くと社の扉を素早く閉めた。

 老婆は鏡を再び紫の布に包む。それから、土下座を続ける美作の元に向かうと、彼女の肩に手をかける。

「この布の中の鏡を、その屋敷に住む誰かに見せなさい」

 美作が顔をあげる。老婆は更に続けた。

「……もちろん、貴女は覗かないように。この鏡を覗き込んだ者は気が狂い、周囲にいる者に襲い掛かる。この鏡を誰かに見せた後は、被害に会わぬように速やかに屋敷を立ち去るように」

「はい」

 と、美作は震える声で返事をして、老婆から鏡を受け取った。

「……半日も経てば、その鏡を覗き込んだ者は狂乱の果てに絶命する。その後、鏡を覗かぬように、檜の箱に一房のよもぎと一緒に入れて寝かせるように」

「ありがとうございます……必ずや」

 美作は鏡を脇に置いて深々と頭を下げた。




 そこは某民法テレビ局の会議室だった。

 白い机に置かれたノートパソコンに向き合うのは、チェック柄のネルシャツにベージュのチノパンを穿いた男だった。口元は黒いマスクで覆われていたが、その目元を見れば、まだ二十代そこそこの年齢であろう事が見て取れた。

 彼の名前は鵜飼寿夫うかいとしおといった。このテレビ局で土曜九時から放送されているバライティ『やっぱりテレビでないと!』で、ADをやっていた。

 そしてパソコンのモニターには、童顔の男が映し出されていた。灰色のジャケットにクリスマスカラーのボーダーニットを着て、大きな丸眼鏡を掛けていた。髪は金髪のボブヘアで前髪を一直線に切り揃えおり、画面手前のテーブルに置かれた右手には、何故か革手袋をしていた。

 彼はノロイという名前で、一昨年ぐらいから活動し始めた怪談師であり、YouTuberであった。呪物のコレクションも行っており、彼の背後に映り込んだ雛壇には、怪しげな人形や木彫りの像、奇妙な仏像や木箱などがみっしりと並んでいた。

 その画面の向こうの彼に向かって、鵜飼は「それじゃあ、今からカメラ回すから」と言って、右斜め後方に体を捻り、そこに設置された三脚の上の小型カメラの録画スイッチを押した。

 これから、番組内で使われるインタビュー映像を撮影しようというのである。鵜飼は再びノートパソコンに向き合いキュー出しをする。ノロイと定型的な挨拶を交わしあったあと、さっそく本題を切り出した。

「それで、問題の鏡なんですけど……」

 すると、ノロイはテーブルの下から十二インチのタブレットがすっぽり入りそうな木箱と、ぼろぼろの和本を取り出した。そうして、まずは木箱の蓋を開ける。

『これですね』

 中に入っていたのは、乾燥した植物の茎と、紫色の布に包まれた平たい楕円形の何かであった。ノロイは手袋に包まれた右手で、茎をそっと摘まむと木箱の脇に置いた蓋の裏側に載せる。鵜飼が質問する。

「それは、何なんですか?」

『たぶんよもぎですね』

 と、ノロイが答えると、紫の布包みを取り出して画面に向かって掲げる。

「それが、見たら発狂するという呪いの鏡ですか……」

 その鵜飼の言葉に頷くと、ノロイは語り出す。

『この鏡は、長野県のさるお寺の蔵から発見されたんですけど、こちらの当時の住職の日記によると……』と、言って、和本を手に取ってページをパラパラと捲る。

『鏡は美作家という豪農の……って、名前を出しては不味かったですかね?』

 ノロイが申し訳なさそうな顔で笑う。すると鵜飼も苦笑しながら、素の言葉で応じた。

「大丈夫。あとでピー音入れるから」

『すいません』と、ノロイは言ってから咳払いを一つする。そして、再び語り始める。

『……その美作家の奥方である優理子という人物が隣県の呪術師から譲り受けたものらしく、この鏡を覗き込んだ使用人の一人がとつぜん奇声をあげて暴れ出し、当主の裕之を含めた計八名を惨殺したとあります』

「その使用人は……」

『日記によれば美作邸での凶事の後に逃亡したのですが、後日行われた山狩りにて彼の死体が発見されたそうです。死因は心臓麻痺とありますね』

「なるほど……」と鵜飼は頷き、次の質問に移った。

「では、その奥方は、どうして、そんな鏡を?」

『実は当主の裕之は、女中の一人であった早雪という女性と浮気しており、その事は周知の事実で、知らぬのは奥方のみだったらしいんです。それに気がついた彼女は腹を立て、夫や浮気相手のみならず、それを知っていて黙っていた屋敷に住む者全てに復讐をしようと考えたらしいのです』

「なるほど」

『……以上の話は、優理子本人から直接住職が聞いたらしいのですが、彼女はかなり後悔していた様子だったと、この日記にはあります。よほど、酷い有り様だったのでしょうね』

 そこで、ノロイがヘラヘラと笑う。すると、鵜飼は当然の質問を発する。

「それでは、ノロイさん自身は、その鏡を見たりは……」

 ノロイは笑う。

『ええ。見ました』と言って、紫の包みを開け始める。鵜飼がぎょっとした顔になる。中から現れたのは、古びた楕円の化粧鏡であった。その鏡面を画面の方に向けてノロイは言う。

『大丈夫ですよ。この日記によれば、もう鏡は力を失っているらしいので』

「そうなんですか……」

 そう言って鵜飼は笑い、別な話題を切り出す。

「では、その呪術師についてですけど……」

『あー、この日記にも詳しい事は書かれていませんが、八十上村の赤目という家系によって代々受け継がれてきた呪術らしいです』

「八十上村……」

 鵜飼はその地名を繰り返した。すると、ノロイがやや興奮した様子で語り出す。

『廃墟マニアには有名な場所ですね。この村では軒下や玄関に鏡を吊るすという風習があって、写真家たちに人気のスポットとして知られていますが、そういった呪術師や呪いの鏡の存在は、これまでにどこかで言及された事は僕の知る限りでは一度もありません。まさにインターネットでも未出の情報って訳です』

「はあ……」

『……それで、僕は、この話の信憑性しんぴょうせいを確かめるために、当時の記録をあさってみたところ、明治初期に、この地方で出回っていた手書きの回覧板を運良く見つけまして、そこには“美作家の敷地に熊が出て計八名を食い殺した”とありました。日記にある日付とも一致しますし、たぶんこの事件の事なんじゃあないかと。きっと、この一件は、その地方では、禁忌タブーとなっており事実とは違う形で……』

「あ、ごめん、もう大丈夫だから。こんなもんで」と鵜飼が話をさえぎる。

 ノロイはきょとんとした表情になって言う。

『だ、大丈夫って?』

「あ、もう充分だから」

 そう言って鵜飼はカメラを止めた。そのときパソコンの画面には、不満げなノロイの顔が映し出されていた。

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