【01】食後の散歩


 時間は少しだけさかのぼる。

 錬金術師の家での探索を終え、篠原の説教を適当に受け流し、桜井と茅野は帰路に着く事にした。

 すると、関越自動車道にのり、県境を越えたあたりで、桜井の腹が鳴った。

 ただでさえ燃費が悪い事にくわえ、城田吉香に弁当を分け与えた事が原因で、エネルギーの補充が不充分だったのだ。そこで近隣の峠に温泉施設があったので立ち寄る事にした。

 探索でかいた汗を流し、サウナや週代わりの薬湯風呂などを楽しんでから、フードコーナーで腹を満たす事にした。

 空腹の限界まで己を追い込んだ桜井は、天婦羅てんぷら蕎麦とカレー、天丼、山女魚やまめの塩焼きを。茅野はおろしきのこパスタを注文する。それらを堪能して二人は再び帰路に着いた。その途中だった。

 既に太陽は山々の稜線の向こう側に隠れ、わずかに明るかった空は宵闇に染まろうとしていた。車のラジオから、つい一時間前に発生した地震についてのニュースが聞こえていた。

 そんな中で山間の谷沿いの道を進んでいると、サーチライトの中に『蛟谷みずちたに』と書かれた標識が浮かび上がる。その直後に茅野がぽつりと言葉を漏らした。

「そういえば、この辺だったわね」

「何が?」

 桜井がフロントガラスの向こうを見据えたまま言葉を返した。

「この先を少しいった場所に八十上村という廃村があるんだけど……」

「スポット?」

 この問いに茅野は少し間を置いてから「……まあ、そうね」と答えた。

「どんなスポットなの?」

 とうぜん、桜井は興味を持ち、茅野が嬉しそうに語り出す。

「……八十上村は戦後間もなく、住民が途絶えて廃村となったみたい。心霊の噂もある事はあるけれど、ほとんどがどこかで聞いたような眉唾物ばかりね」

「なんか、普通っぽいね」

 と、桜井がぼんやりとした返事をした。そこで茅野は右手の人差し指を立てる。

「ただ、心霊の話ではないのだけれど、この村には軒下や玄関先に鏡を吊るすという、とても奇妙な風習があったらしいわ」

「鏡は、魔除けになるんだっけ」と桜井は、かつて茅野宅にやって来た黒騎士の事を思い出しながら言った。

「そうね。ただ、この八十上村を束ねていた赤目家では“カガミさま”という氏神を奉っていて、それに関係がある風習という話なのだけれど……」

「どんな神様なの?」

 この桜井の質問に茅野は首を横に振った。

「残念ながら、この“カガミさま”についてや、八十上村についての資料の大部分は損失していて、わずかな記録が残されているのみになっているわ。でも、その軒下や玄関先に吊るされた鏡がまだけっこう残っていて、廃墟マニアの間では“鏡の村”なんて呼ばれている。ネット上にもたくさん写真があがっているわね」

「たくさん写真があがっているっていう事は、行ったら帰ってこれないような激ヤバスポットではないと……」

「そうね。どちらかというと、オカルト的な逸話より、鏡が吊るされている奇妙な光景が有名な廃村ね。特に人が死んだり、行方不明になったりというような話は聞いた事がないわ」

「ふうん……」と、桜井はいつものように話を聞いているのかいないのかよく解らない返事をしたあとで、明るい声音で言った。

「……素人さん御用達のスポットっぽいけど、その鏡が吊るされている光景はちょっと気になるね」

「そうね」と、茅野は相づちを返したあと、少し間を空けてから提案する。

「どうせなら、寄り道してみるというのはどうかしら?」

「悪くないね。たまには普通の廃墟探索も」

 こうして二人は、ほんの軽い散歩気分で八十上村へと向かう事にしたのだった。

「……しかし、これが長い夜の始まりだとは、このとき思いもしなかったのである」

「梨沙さん、誰に向かって何を言っているのかしら?」

 と、茅野が突っ込むと桜井は「ふんいきを盛り上げようと思って」と、照れ臭そうに笑った。




 しばらく曲がりくねった道を進むと、沿道の左側の上り斜面と右手の土地に、古びた人家が並び始める。蛟谷集落であった。

 既に周囲は真っ暗だったが、まだ十九時前である。しかし、ほとんどの家の窓に明かりは見えない。

 そんな中で、薄黄色い八手やつでの花を庭先で満開に咲き誇らせている、『前田』という家の前を通過する。すると、住人らしき老人が、窓辺にて外の様子をじっと窺っているのが、桜井の横目に映る。

 老人はミラジーノが通過する瞬間、さっと窓枠の外に身を隠すように姿を消した。

「……今、住人がこっちを見てたけど」

「きっと、余所者がこんなところに来るなんて珍しいのね。もしくは、また廃墟探索の馬鹿が来たと呆れているのか」

「そか」

「万が一、警察に通報されたら、キャンプ場に行く途中で道に迷った事にしましょう。ちょうど、近くに泥月ぬかづきキャンプ場という所があるみたいだし」

「そだね」

 それほど気にしない二人であった。

 そのあとすぐに、谷間に架かった橋が見えてくる。幅は軽トラックが一台通れる程度で、端に縁石のようなブロックがならんでいるだけだった。谷底からの高さは十メートル以上はありそうで、落ちたらひとたまりもないだろう。

 橋のたもとの両脇には道祖神の祠があって、萎れた仏花が供えられていた。

 その橋を渡り切ると、そこから扇型に広がる空き地へと辿り着く。左奥には山深い森を割って延びる未舗装の道が続いており、右奥にぼんやりとした灯りがあった。それはミニバスの室内灯の光だった。

「あら……?」

 そのミニバスは空き地の奥に、フロントを左へ向けて停車していた。後部座席の窓はスモークガラスで、車内の様子は窺えない。しかし、運転席には人の姿があった。

「寝ている……訳ではないよね?」

 そのミニバスから五メートルぐらい離れた位置にミラジーノを停めると、桜井は怪訝な顔つきになった。助手席の窓越しに見える運転席の人物は助手席の方に上半身を倒すようにして、ぴくりとも動こうとしない。

 桜井と茅野は神妙な表情で顔を見合せ、ミラジーノを降りる。茅野がポケットから取り出したペンライトをつける。助手席の窓を照らすが、運転席の人物は動かない。

 桜井が剣呑な目付きで周囲を警戒しながら、フロントの方に周り込む。そのまま運転席のドアへと向かう。その後に続いた茅野は懐中電灯でナンバープレートを照らす。

「……都内から来たみたいね。テレビ局か何かのロケバスかしら?」

「循、行っていい?」

 と、桜井が運転席のドアの取っ手を掴んで言った。茅野はフロントガラス越しに運転席を照らす。

 やはり、ぴくりとも動かないが、単に突っ伏しているようにしか見えず、目に見える異変はないように感じた。しかし、茅野は運転席と、その後ろの座席を隔てるカーテンに付着した赤い飛沫に気がつく。

「カーテンに血痕があるわ。用心して」

「らじゃー」と桜井は答え、運転席を覗き込む。

「あのー、大丈夫ですか?」

 桜井が肩を揺すった。そして、運転席の人物の首筋に指を当てて脈を計った。

「この人、死んでる。血が出てる」

 その言葉に茅野が息を飲んだ。桜井が運転席の人物の頭部を持ちあげる。

 すると両眼がえぐられており、潰れた梅干しを捩じ込んだかのような状態になっていた。その眼窩がんかからは、涙のような血の跡が頬を伝っている。

「検死したいわ。代わりましょう」

「らじゃー」

 と、桜井が茅野に返事をして、バスから降りようとした。そのときだった。

「む?」

 彼女の野性がカーテンの裏から迫る存在の気配を察知した。カーテンを割って、勢いよく突き出てきた血塗れの左手を桜井はかわし、その手首を掴んで引っ張る。すると、カーテンの向こうから、まるで野獣のように歯を剥きだした男の頭が飛び出してきた。

 黒いマウンテンパーカーを羽織っており、眼鏡を掛けていた。目が血走っており、言葉にならない唸り声を上げている。明らかにまともではない。

「ぐあああああ……ぎいいいぃい……」

「ほい」

 桜井は軽い調子で男の鼻を裏拳で打った。眼鏡が吹き飛び、鼻血が噴き出す。そのまま、運転席の死体の背中の上に、その男の上半身を引っ張り出して、首を脇に抱えるようにして締め上げる。

 じきに襲い掛かってきた男は意識を失った。

「何、この人」

 その桜井の質問に茅野は肩をすくめて首を横に振った。

「とりあえず、その男を拘束しましょう」

「そだね」

 桜井が返事をして意識を失った男を運転席から引きずり下ろした。

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