【06】実験動物


 頭が重い。

 眼球の奥がごろごろとする。

 城田吉香はどうにか目蓋を押し上げると、壁際のベッドで上半身を起こした。見慣れない部屋だった。

 クリーム色の味気ない壁紙に長細い蛍光灯。小さな冷蔵庫に古いタイルの床。サイドボード。ロッカー。空のゴミ箱。昔学校の保健室で見たような、大きな体重計。静かに時を刻む壁掛け時計。

 そして、窓がどこにも見当たらない。扉はベッドのある反対側の壁と左手の壁に一枚ずつ。

 左手の扉は磨りガラスで、もう一方の扉は錆の浮いた金属製らしく、小さな鉄格子の窓がついていた。その向こう側から冷たく暗い空気が染みだしてきている。

「何これ……」

 まだ状況が飲み込めなかった。

 ベッドから床に足をつけて、その部屋の中央へと歩み寄る。そこで扉に向かって右側の天井の角に監視カメラがついている事に気がついた。

 そのカメラのレンズを見上げるうちに、次第にぼんやりとしていた意識がはっきりとし始める。

 自分は高柳光貴に誘われて、最新の美容機器のモニターになるために、研究所へ向かっていたはずではなかったのだろうか。

「ここが、その研究所……? いつ着いたの?」

 しかし、到着したときの記憶がまったくない。最後の記憶は、光貴が思い出し笑いをして、元妻の話をし始めて……その後はシーンが飛んだように、今へと繋がっている。

「何なのよ……何なのよ……これ……」

 はっ、として自らの全身を確かめる。着衣に乱れはなく、身体に違和感もない。頭が異様に重い以外には……。

 城田はカメラを見上げながら叫び散らす。

「何なの! これはいったいどういう事なの!?」

 答えはない。次第に現状への不安が怒りへと転換する。

「おい! ふざけてないで誰か出てきて説明しろ!」

 すると右側から足音が近づいて来る事に城田は気がつく。じきに、扉の鉄格子の窓の向こうに高柳が顔を出す。

「……あんた、ちょっと、これどういう事なのよ!」

 城田は高柳に向かって怒鳴る。しかし、彼は意に介した様子もなく淡々と言葉を紡いだ。

「途中で君が寝てしまってね。起こそうとしても起きなかったので、勝手に運び込ませてもらった」

「テメー、一服盛っただろ!?」

 城田が疑念をぶちまける。すると、まるでそれが真実であると肯定するかのような沈黙の後に高柳が言う。

「すまない」

「すまないって……」

 流石の城田も、すでに確信していた。

 これが単なる美容機器のモニターではないという事を。そして、彼は通常ならば倫理的に忌避されるような事を行おうとしているのだと。

「賢者の石って、何なのよ……」

 再び数秒間の沈黙をへて、高柳が口を開く。

「妻と娘を助けたい。協力して欲しい」

「だから、いったい、何なんだ! 説明しろ!」

 城田の怒声に顔色一つ変えず、高柳は鉄格子の向こうで指を一本立てた。

「一千万」

「は?」

実験が成功したら・・・・・・・・、一千万の報酬を渡そう」

「一千万円……」

 悪くない金額だが、実験の内容による。城田は黙り込んで考える。リスクとリターンを。やはり実験の内容が解らない事にはどうにも答えられない。

 すると、鉄格子の向こうで高柳が人差し指だけ立てた右手をすべて開いた。

「では、五千万。実験の詳細については、必ず後で説明する」

「もしも、断れば?」

「君はここから帰る事ができなくなる」

 城田はぎょっとするが、同時に腹をくくった。いずれにせよ、実験に協力する以外にないようだ。それに五千万という金額も悪くはない。

「本当に五千万は貰えるんでしょうね?」

「それは信用してもらうしかない」

「じゃあ、解った。協力する」

 内臓を一つか二つ取られる程度で五千万なら悪くないかもしれない。

 城田は賢者の石の実験に協力する事にした。




「何が衣食住は保証するだよ……」

 城田は舌打ちをして毒付くと小型の冷蔵庫の扉を開けた。そこには五〇〇ミリのミネラルウォーターのペットボトルとローファットのゼリー飲料がぎっしりとつまっていた。

 城田はミネラルウォーターを一本手に取って、足で乱暴に扉を閉めながらキャップを捻った。ラッパ飲みをして喉を潤す。

 すでに監禁されてから数日が経過していた。しかし、これまでに城田は冷蔵庫の中のものしか口にしていない。

 食事は九時と十九時の二回で、このゼリー飲料を一つだけ。そして、食事を終えた後には、必ず体重計に乗って体重をカメラに向かって報告しなければならない。やる事はそれだけだった。

 着替えはサイドボードの中の下着と、ロッカーにピンク色の検診衣があったので不自由はなかった。シャワーも自由に浴びれたし、トイレもある。空調も利いていて、気温も快適に保たれていた。

 しかし、まともな食べ物がまったくない。そろそろ空腹が限界だった。頭がぼんやりとして、少し動くだけでも目眩がした。何より退屈で頭がおかしくなりそうだった。何度かカメラに向かって、いつまで続くのかと問い掛けてみたが返答はいまのところない。

 因みに鉄格子の向こうを覗いてみると、そこには薄暗い廊下が横切っているだけで、他には何も見えなかった。

「本当に何なのよ! くそっ」

 城田は空になったペットボトルをクシャリと握り潰した。そして、頭の中で、五千万……五千万……と念仏のように唱えて、苛立ちを沈める。

 すると、その瞬間だった。

 部屋の前を右から左へと横切るように、パタパタと廊下を駆け回る音と子供たちの笑い声が聞こえた。

 はっとして城田は扉の窓を覗いてみたが、城田の視界には誰の姿も映らず、そこには薄暗い廊下があるばかりであった。

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