【04】妻の思い出
十一月最初の土曜日だった。
東京都内は晴れ間が覗き穏やかな気候であったが、関越自動車道を下るにつれ、頭上に鱗のような暗雲が立ち込め始めていた。
そんな陰鬱な空模様をランドクルーザーの助手席シートに深々と腰を埋めながらじっと眺めるのは、城田吉香であった。ハンドルを握るのは高柳光貴である。
この日、朝から新宿で待ち合わせをして、例の美容機器の開発を行った研究所へと向かうという話になっていた。泊まり掛けになるとの事で、帰りは明日の昼頃になるらしい。
泊まり掛けという話は前日まで聞いておらず、拘束時間が長い事が気になった。しかし、翌日が日曜日である事すら忘れるほど労働から遠ざかっていた城田にとっては、特に問題はなかった。
休日を共にするような恋人や友人はおらず、家族とも絶縁状態の彼女は、適当に着替えなどを詰めた旅行鞄一つを持って、待ち合わせ場所に現れた高柳のランドクルーザーに乗り込んだ。
一方の高柳は車を走らせると、城田が退屈しないようにと、様々な話題を絶え間なく口にし続けた。
彼の話は、おおよそ城田くらいの年代の女子が興味を持ちそうにないスポーツや時事関連の話題ばかりで、退屈極まりなかったが、それでも城田はどうにか会話が途切れないようにと、的確なリアクションや相づちを打ち続けた。すべては彼の妻の座を手に入れるためである。
一度結婚してしまえば、あとは彼の金で好みの若い男を囲ってもいいし、何ならDVでもでっち上げて、離婚して慰謝料をふんだくってもいい。
兎も角、今は輝かしい未来のために努力と我慢を続けるときであると、城田は引き
そんな彼女の思惑など知らぬはずの高柳は、終始上機嫌な様子で喋り続け、ときおり目を細めて微笑んでいた。
対する城田は、だんだんと込み上げてきた眠気と戦いつつ欠伸を噛み殺し笑顔を作り続ける。
そうして、月夜野CIにずいぶんと近づいた頃、ドライブインで休憩を取る事になった。
ランドクルーザーが停車すると、城田は小用を済ませるためにお手洗いへと向かった。そして車へと戻ると、高柳が湯気のあがった珈琲カップを二つ持って立っていた。
「はい、吉香ちゃん」
と、高柳が満面の笑みを浮かべて、左手のカップを差し出してきたので、城田は遠慮なく受け取る。
「ちょうど、飲みたいと思ってたの」
と、言って、珈琲を口に含むと、助手席に乗り込んだ。ドリンクホルダーにカップを置きシートベルトを締める。
同じタイミングで高柳は運転席に乗り込んで出発の準備を整え始めた。まもなくランドクルーザーは走り出す。すると、高柳が何やら急に鼻を鳴らして微笑んだ。それに気がついた城田は珈琲を一口だけ飲んでから彼に向かって訊いた。
「何?」
「ああ。思い出し笑いだよ」
城田は少しだけ興味を引かれたので聞き返す。
「何を? 気になる。話してよ」
「妻の事だよ」
「ああ……」
他の女と一緒にいるときに、元妻の事を考えるなどデリカシーがないにもほどがあると、内心で鼻白んだが下世話な好奇心が湧いた。このまま、興味のない話を耳にし続けるよりマシだと思ったので、城田は高柳を促した。
「……奥さんって、どんな人だったの?」
「ああ……」
高柳は遠い目をフロントガラスの向こうに向けながら語り始める。
「何から何まで、君と
「そっくりって事?」
「そうだね」
高柳は頷く。そして、しばらく記憶を
「体重はちょっと妻の方が軽かったかな?」
「何よ、失礼ね……」と、流石に城田は不機嫌な声をあげた。しかし、続く彼の言葉にはっとさせられる。
「妻は末期癌だったからね」
「あ……」
「
「ごめんなさい」
神妙な心持ちで謝罪したつもりだったが、ふわりと欠伸が出た。眠気覚ましに城田は珈琲をまた一口だけ飲んだ。
高柳は寂しげな微笑を浮かべたまま話を続ける。
「
「そうなんだ……」
城田は再び欠伸をする。何だか頭が少しだけ重い。手に持ったままだった珈琲カップに口をつけてからホルダーに戻した。
「妻が
その高柳の話を聞いて、城田はまた欠伸をした。
「それは、そうなんじゃないの? 六歳といったら、まだお母さんが恋しい年頃だもの……」
と、言ったあとでふと気がついた。高柳の妻は彼と離婚した後、離れた場所で娘と共に暮らしているのではなかったのだろうか。それとも、今も病床にいるという事なのか。それなら、娘の世話は誰がしているのか。
それとも、以前聞いた話は何かの勘違いだったのだろうか。城田は己の記憶を探ろうとするが、頭がぼんやりとして思考がまとまらない。目蓋が恐ろしく重くて、視界がぼやけ出した。
眠い。
城田はホルダーから珈琲カップを手に取った。眠気覚ましに、少しだけ温くなった珈琲を一気に飲み干した。
高柳はずっと喋り続けていた。しかし、その声は頭の中で反響し、良く聞き取れない。
「……そこで、僕は“賢者の石”を使って、妻の病気の進行を滞らせて、沙莉愛の悲しみを癒す事にしたんだ。ただご先祖様の残した“賢者の石”の製法は不完全なものだった」
「何の……話を……しているの……?」
城田の手から珈琲カップがこぼれ落ちる。少しだけ残っていた珈琲が彼女の右太股を濡らした。しかし、城田は項垂れて、そのまま動かなくなった。
「……そこで、妻と身長が同じで体重も近い君には、実験台として協力して欲しいと思ってね」
その言葉は城田の耳には届いていなかった。
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