【08】不審者フェスティバル


 その日、帆波はいつも通りに茂房を送り出し、家事を済ませると昼前に家を出た。

 カーポートの自転車を引いて車道に出ると、ちょうどそこにスウェットを着た三十代半ばの女が、リードに繋がれたチワワを連れて現れる。

 近所に住む米崎安美よねざきやすみだ。彼女はいつも橋本家の前を横切り田んぼ道の方へと向かう。定番の散歩コースらしい。

 帆波は彼女と挨拶を交わし合うと、自転車を走らせて国道へと向かう。それから、いつも買い物をしているショッピングセンター裏に広がる住宅街を目指した。

 そこは帆波が暮らす住宅街とは違い、比較的新しい家々が建ち並ぶ区域だった。その一画にある『ハウオリ』というハワイアンカフェの軒を潜り抜けた。

 この店は菊池勇夫きくちいさお杏子ももこという夫妻が営んでおり、旦那の方が茂房と幼馴染みの同級生らしい。

 田舎特有のものなのか、茂房の人間関係は同年代の横の繋がりが強固で広い。菊池夫妻は前妻の栖美とも懇意こんいであったらしいが、後妻の帆波にも友好的であった。帆波の方も、何年か前に茂房に連れられて店に行って以来、ずっと行きつけにしている。

 この日も店の扉をカウベルの音と共に開けると、正面に見えるカウンターの中から杏子がほがらかな笑みを浮かべて帆波を迎え入れてくれた。

 定型的な挨拶を済ませると、そのままカウンター席に腰を下ろす。すると、奥のキッチンから勇夫が顔を出す。彼にも挨拶をして、ロコモコランチセットを注文した。

 ご時世に加え、平日の昼間なためか店内には、帆波の他に客はいない。ゆったりとしたウクレレのBGMに耳を傾けながら、カウンター越しに杏子と雑談をかわしていると、やがて肉の焼ける香ばしい音と匂いが漂ってきた。

 思わず鼻を鳴らすと腹が鳴り、食欲が込みあげてきた。すると、そのタイミングで、杏子が話題を切り出してくる。

「……そう言えば、家、建て変えるの?」

「は?」

 思わず帆波は目を丸くする。そのリアクションは予想外だったと言いたげな様子で、杏子は苦笑する。

「いや、うちの旦那から聞いたんだけど、茂房さんが、そんな話をしていたって」

「ええ……いや……」

「新居を建てて、今の土地と家は売り払うかしたいけど、帆波ちゃんが引っ越しには消極的だから、反対されたら大幅にリフォームしたいって、ちょっと顔を合わせたときに言ってたみたいだよ」

「あー、あははは……」

 帆波は笑って誤魔化す。そうやって願望を吐露するという事は、茂房はかなり本気で引っ越したいのだろう。これは、いよいよ不味いかもしれない。

「私は、別に今の家で良いんだけどね。正直、面倒だし」

「解るわー」

 と、杏子が笑う。

 そんな会話をするうちに、ロコモコランチセットが運ばれて来る。

 そして、それを食べ終わった頃、急激に雨が降り始めた。帆波は食後の珈琲を片手に窓の外を見て顔をしかめる。

 この日はたまたま出掛けにスマホで天気予報を確認しておらず、傘を持ってきていなかった。それを言うと、杏子は「傘、貸そうか?」と申し出てくれた。しかし、相当酷い雨足だったので、どのみち傘があっても濡れてしまう事は避けられない。更にスマホを確認してみると、十四時過ぎには天候が回復しそうだった。

 そこで、帆波はこの店で雨宿りをしてゆく事にした。そう杏子に告げると、彼女は店内を見渡して溜め息混じりに言った。

「暇だから良いけど、何かもう一つ注文してよ」

「解った」

 帆波はメニューを広げて、マンゴータルトと珈琲のおかわりを頼んだ。




 けっきょく、そのまま三時間近くも杏子とおしゃべりに興じてしまった帆波は店を出る。既に雨は上がっており、遠くの雲間からは淡い陽光が漏れていた。自転車に跨りショッピングセンターへと向かう。

 そこで夕御飯の買い出しを済ませてから帰路に就く。雨上がりのためかより肌寒く、冬の気配が色濃く感じられた。そろそろ自転車での移動がきつくなる季節に突入する。

 もう慣れたとはいえ、日本有数の豪雪地帯の冬は、首都圏生まれの帆波には驚くべきものだった。おまけに公共交通機関の乏しい田舎でもあるので、雪が積もった後の移動は、ほんの近所に買い物へ行くだけでも一仕事だった。

 この地で暮らすようになって、運転免許を取ろうかと何度も考えたが、怠惰な彼女はずっと先伸ばしにしたまま、今日まで来てしまっていた。

 そろそろ限界かもしれない……。

 そんな事をつらつらと考えながら、自転車を漕いでいると、家の近くまで辿り着いていた。碁盤目状の宅地の間を縫うように進み、住宅街の端に位置する自宅の前へと到着する。カーポートの隅に自転車を停めて鍵を開け、家の中に入った。すると、ツナの鳴き声が聞こえてくる。

 それはいつもの甘えたような鳴き声ではなく、剣呑けんのんなものだった。その鳴き声は六畳間の方から聞こえる。

 帆波は玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の先にある六畳間の戸を開けた。

 すると、まず目に入ったのはツナだった。裏庭に面した掃き出し窓のカーテンの隙間を覗き込むようにしながら、鳴き声をあげていた。帆波の脳裏に嫌な予感が込みあげる。

「ツナ……?」

 帆波が恐る恐る六畳間に足を踏み入れると、ツナが振り返って、鳴きながら足元にすり寄ってきた。

「裏庭に……何かあるの……?」

 とうぜん、猫は何も答えない。

 帆波は恐る恐る掃き出し窓に近づく。そして、カーテンの隙間を覗き込んだ。その瞬間、ぞっとする。

 見知らぬ誰かがそこにいた。フードを目深に被っており、マスクをしていたので人相はよく解らない。裾の長い黒のレインコートを着ており、体型はかなり小柄だった。その何者かは花壇のあった草むらにスコップを突き立て、右足を掛けていた。

 そして、裏手の竹垣の向こうに、トランクが開けっぱなしになった黒い軽自動車が停まっているのが見える。

「何を……してるの……?」

 覗き見ている帆波には気づいていない。しばらく一心不乱に穴を掘り続けていたが、不意にその視線が彼女の方に向いた。その瞬間、帆波はあらん限りの力を振り絞って絶叫した。

 すると、レインコートの人物は手に持っていたスコップを持って逃げ出す。そのまま、竹垣を乗り越えて黒い軽自動車のトランクにスコップを放り込み、トランクを閉じて運転席に乗り込んだ。帆波は腰を抜かし、その場にへたり込んで動けない。そうするうちに、黒い軽自動車が急発進する。

 その直後だった。どたどたと足音がして、六畳間に何者かが雪崩込んできた。帆波は窓際で座ったまま、後ろを振り返った。

「大丈夫?」

 見知らぬ少女が自分を見下ろしていた。小柄で癖のある栗色の髪を後頭部で結っており、市内の女子高の制服を着ていた。その後ろには、同じ制服を着た背の高い黒髪の少女が神妙な顔つきをしていた。

 帆波は首を傾げる。

「あなたたち、誰……?」

 二人の少女は何とも言えない表情で顔を見合せ、自己紹介を始めた。

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