【07】イルミナティ

 

 二〇〇〇年の事だった。

 アナウンスが鳴り響きドアが開くと、気だるい空気と共に乗客が吐き出された。

 その日、勝浦信二かつうらしんじは出先から直帰しようと、半蔵門線・田園調布線のホームから乗り換えのために移動していた。

 四号車から降りると、すぐ近くにあったエスカレーターを下る。それから道なりに進み、真っ直ぐ伸びた通路を進んだ。

 この日は何かのイベントがあったのか、いつものこの時間よりも若者の姿が目についた。漏れなくイベントグッズのティーシャツを着ている。

 そういえば、娘の智花ともかも、最近は軽薄なファッションに身を包み、化粧をしてライブだとかクラブだとかに出掛ける事が多くなっていた。それに加えて自分の言う事をあまり聞かなくなった。

 妻に相談しても「そういうもんでしょ」と、酷くつまらなそうに言われてしまい、とりつく島もない。

 憂鬱ゆううつな気分が胸を過り、勝浦は眉間にしわを寄せた。眼鏡のブリッジを右手の人差し指で持ち上げて溜め息を吐く。

 そうするうちに通路の突き当たりが見えてくる。二本の柱があり、それぞれ左右の斜め下を指した矢印があった。奥に下りのエスカレーターが二つ並んでいる。

 その五番、六番線ホームの方へ向かうエスカレーターの前だった。妙な人だかりが出来ている。

 怪訝に思いながらも近づいてみると、女が何かを叫んでいた。

 根元が黒くなった汚ならしい茶髪に、まるで道化のようなアイシャドウと真っ赤な口紅、腰元にリボンがあしらわれたノースリーブのA型ワンピースを着ている。脚には毛玉の浮いた白タイツ、スニーカーは焦げ茶色に汚れ、元の色が良く解らない。

 関わりたくない。それが勝浦の第一印象であった。

 女は道行く人に何かを必死に訴えている。しかし、行き交う人々の反応はとうぜんながら冷たく、彼女を避けて足早に通り過ぎて行く。

 そのお陰で群衆の流れが滞り、人だかりのようになっていた。

 近づくに連れて、女の声が聞こえてくる。

「……行かないでください! この下で、もうすぐで、人が死にます! 包丁で刺されます! 行かないで! 男の人と女の人が死にます! 夢で見ました! 本当です!」

 どう聞いてもまともではない。勝浦はうんざりした。

 すると、彼の後ろから人混みを掻き分けて駅員が二人やって来る。女に話し掛け、その両肩を掴んだ。女は身を捩って叫び散らす。勝浦はなるべくそちらの方を見ないように脇を通り抜けて、五番、六番のエスカレーターへと向かう。

「……そこの男の人! そこの眼鏡の! あなたは行っちゃ駄目! 戻ってきて!」 

 女はまだ叫び続けている。

 勝浦はホームに着くと、次に電車が到着する五番線の方を向いて並んだ。このときにはもう、さっきのイカれた女の事など忘れていた。

 やがてアナウンスが鳴り響く。もうすぐで電車がやって来る。俯いていた勝浦は視線をあげた。

 その瞬間だった。

 どん……という衝撃が首の後ろを突き抜けた。

 彼の意識は、そこで途切れた。




 そのとき、有田江梨子ありたえりこは、さっき別れたばかりの友人に向けてメールを打っていた。親指を高速で動かす度に、ぶらさがった大量のストラップが揺れ動く。

 すると、構内に電車の到着を報せるアナウンスが鳴り響いた。有田は手元から視線をあげた。すると、右隣の銀縁眼鏡をかけたスーツ姿の男がとつぜん膝をついた。そのまま、ぐったりと倒れ込む。彼の首からは包丁の柄が生えていた。

 周囲が騒然としだす。その包丁の柄を抜いたのは、五十過ぎの男だった。

 痩せぎすで浅黒い肌。左右を残して禿げ上がった頭。顔色は不健康そうであったが、その目だけは爛々らんらんと輝いていた。もうずいぶんと気候は蒸し暑くなっているのに長袖の薄汚れたジャージを羽織っている。

 有田は携帯電話を取り落とし悲鳴をあげた。

 すると、男が有田に向かって包丁を振るってきた。

 その直後、有田の足元に落ちた携帯電話のバッテリーの蓋に貼られたプリクラが血飛沫ちしぶきで汚れた。 




 ローライズデニムにピンクのキャミソールを着た若い女の首筋から血潮が吹き出る。それを浴びながら、甲本良治こうもとりょうじは笑顔を浮かべて、歯茎を大きく見せた。

 怒号と悲鳴。

 彼の周囲は狂乱と混沌の坩堝るつぼと化す。それを打ち消すかのように甲本は叫んだ。

「……ついにミレニアムが到来した! 資本主義は終わりを告げ、真の平等がもたらされるときが来たのだ」

 甲本は近くでつまづき、立ち上がろうとしていた女の左手を強引に引っ張り、無造作に切りつけた。女は右手を咄嗟に掲げる。結果、彼女の右掌に深い傷が刻まれる。

 甲本が女の腹を蹴飛ばし、雄叫びをあげた。

「うおおおおお……」

 女は腰が抜けたのか、右手を抑えたまま立ち上がろうとしない。

 甲本は右手の包丁を振り上げて、更に朗々と言葉を続けた。

「この六の月の六日目、六番線ホームで六人の命を捧げる。これは、世界を次の位階へ導きし闇の支配者への供物である!」

 その支配者とは秘密結社イルミナティ。

 堕天使ルシファーを信仰し、西欧的な価値観から逸脱した真のユートピアの成立を目指す解放者の集団。

 かの組織のメンバーは世界のあらゆるところに潜んでおり、全員が精神ネットワークで繋がっている。彼らの仲間になる方法は、世界中に潜むメンバーが発する精神ネットワークの電波を受信する事のみ。

 もちろん、すべてが覚醒剤でトリップした甲本の妄想であった。しかし、彼はそれが真実であると頑なに信じ込んでいる。

「……これは、人類進化の尊き犠牲なのだ! だから喜べ、愚民ども! 我こそは支配者の指令を受け取りし、資質を持った者なのだ!」

 甲本が唾を飛ばしながら叫び散らし、包丁をうずくまったままの女に振りおろそうとした。しかし、左右から警官が飛び掛かり取り押さえられてしまう。

 けっきょく甲本は目的を達成する事ができずに逮捕されてしまった。

 この一件は新聞やニュースなどで大々的に報道されたが、事前に犯行を予知していたかのような事を叫んでいた女がいた件については、まったく触れられていなかった。

 しかし、この女の存在はその場にいた多くの人々の記憶に留まる事となった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る