【04】憂鬱な食卓


 十九時頃になると、表で車庫入れの音が聞こえた。茂房が帰ってきたのだ。彼は、このご時世においてもほぼ毎日仕事場へと出掛けて行く。それが彼の業種によるところなのか、会社が古い体制のままなのかは、世間知らずな帆波には解らなかった。

 さておき、エンジンの音が鳴り止むと、すぐに玄関の戸がガラガラと開く音が聞こえた。

「ただいまー」

 と、いう声が聞こえたので、パタパタと廊下を駆けて、帆波は夫を出迎える。

「お帰りなさい」

 茂房はあまり特徴のない塩顔で、身長もさほど高くなかった。しかし、その年相応に平凡な容姿は大人びて落ち着いているように見えた。

 そんな夫から取り繕った笑顔で鞄を受け取る。すると、ぼそりと呟くような声が耳をついた。

「そう言えば……」

「何?」

 帆波が相づちを返すと、茂房は靴を脱ぎながら言った。

「朝、向かいの空き地の前に見た事のない黒い車が停まってたけど、あれ何だろうな? ナンバーは一応、控えておいたけど」

「さあ。知らないわよ」

 帆波は苦笑して、さして興味の湧かない話題を終わらせた。

 それから、茂房が入浴を済ませたのち、ダイニングテーブルを挟んで夕食を取る。

 もう十一月にもなると日が落ちるのも早くなり、虫の音も聞こえない。窓の外は暗く静まり返っており、食卓を照らすLED電球の青ざめた光はどこか陰鬱だった。テレビから聞こえるバラエティー番組の笑い声が、よりいっそう白々しく聞こえる。

 因みに帆波の料理の腕は、レパートリーこそ少ないが、それなりであった。ずっと実家ぐらしだった彼女は料理などほとんどやった事はなかったが、元カレの心を射止めるために肉じゃがや味噌汁、カレーなどの定番料理を必死に習得した。

 さておき、テレビを見ながら、もそもそとご飯を食べていると、茂房がその話を切り出す。

「……なあ」

「ん? 何」

 帆波はテレビへと視線を向けたまま返事をした。そして、この日の午前中にショッピングセンターで買ってきた銀たらの西京焼きの身を箸でつまんだ。

「……そろそろ、この家も古くなってきたから……」

 帆波は苦笑する。

 この後に続く言葉は決まっていた。


『この家を売って引っ越そうか』


 ここのところ、何度となく定期的に繰り返された会話だった。

 帆波は畳の上に転がった榊入れや、散らばった盛り塩を思い出しながら、精一杯の笑みを浮かべた。

「嫌よ。お金も掛かるし、面倒臭い……」

「じゃあ、リフォームするか? だいぶ、この家も古くなってきたから不便だろう」

「だから、今のままでいいってば」

 茂房の収入は安定しており貯蓄も充分で、新居を建てる余裕はある。ここよりも彼の職場に近い町に土地も持っているらしい。

「……私はこのままで充分に幸せよ」

 茂房は「ふっ」と鼻を鳴らして笑う。

「……本当にお前は欲がないな」

 帆波はその言葉に答える事なく、ショッピングセンターの糠漬けを摘み、テレビの方へと視線を戻した。

「それに、せっかく、お庭、綺麗にしたのに、もったいないし」

「ああ……」

 茂房は苦笑する。

 庭は以前、元妻の栖美が手入れをしていたそうだが、彼女が家を出ていって以降はずっと放置されていた。見かねた帆波が前庭をどうにか綺麗にしたのだが、裏庭までは手が回っていなかった。

「そう言えば、裏庭の雑草、だいぶ伸びてきたけど」

「ええ」

「今度の休みに草刈り、やるか……?」

 普段は家の事に興味を示さない茂房であったが、ときおり妙にやる気を出す事があった。以前、荒れ果てた前庭を綺麗にしたときも、急に業者を呼んで玄関の左側に冬青を植えたりしていた。しかし、大抵、そういった茂房のやる気は長続きする事はないのであるが……。

 ともあれ、気まぐれな夫と草刈りなどまっぴら御免であった。帆波は首を横に振る。

「いや、大丈夫。私が独りでやるから」

 もちろん、やる気などなかった。会話はそこで途切れる。

 咀嚼音そしゃくおんとCMの音声が沈黙の間を満たす。

 帆波はこっそりと、夫の顔を横目で盗み見る。

 夫は鈍いのか、この家で起こっているおかしな事には何も気がついていない。これまでは、そういう認識だった。しかし、昨年ぐらいから急に引っ越しの話をし始めたのは、何か気がついたのかもしれない。

 帆波は探りを入れる事にした。

「ねえ……」

「何だ?」

 茂房が返事をしてから味噌汁をすすった。帆波は質問を続けた。

「最近、その……おかしな音が聞こえない?」

「……おかしな?」

 茂房は少し考え込んでから笑う。

「ああ。猫だろ? もういい歳なのに、夜になると騒がしいよな」

 彼の表情を窺うが、とぼけているのか、本気で言っているのかは良く解らなかった。

「そう」

 とだけ言って、帆波は再びテレビに視線を戻した。

 すると、どんどん……という音が二階から聞こえた。それは、まるで子供が跳びはねているような、そんな音だった。頭上を見あげると、蛍光灯が少し揺れていた。

「……言ってるそばから。あの猫は何をやってるんだ」

 茂房が苦笑する。そして、椅子から腰を浮かそうとしたところで帆波が止めに入る。

「後で私が見てくるから、先にご飯を済ませて」

「ああ……」

 茂房は座り直す。すると、唐突に思い出し笑いをして、言葉を発した。

「……そう言えば、お前って、動物、嫌いだったよな」

「そうだっけ」

 帆波が惚けると、茂房は怪訝けげんそうに笑う。

「いや、付き合い始めの頃に、そう言ってただろ」

「あー、うん」

 帆波はご飯を頬張ったあと、水を飲んで微笑んだ。

「やっぱり、独りで家にいると寂しくて……」

「そうか……」

 夫はそう言って、茶碗を持ち上げ、もそもそとご飯を食べ始めた。

 帆波は腰を浮かせると、二階へ様子を見に行く事にした。すると、ツナが不機嫌そうな鳴き声をあげながら、ダイニングキッチンに姿を現す。

 帆波は猫の頭を撫でると、引きった笑みを浮かべる。

「駄目でしょ。本当に悪戯好きね」

 そう言ってツナを抱えあげ、他所の部屋へと運ぼうとした。しかし、茂房が声をあげる。

「餌が欲しいんじゃないか?」

 帆波はダイニングキッチンの隅に置かれた猫の餌皿の方へ視線を向けながら言った。

「この子、最近、食べ過ぎだから……」

「そうか……」

 茂房は興味なさげにそう言って、味噌汁をすすった。

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