【03】猫のせい


 日野原帆波は橋本茂房との結婚を切っ掛けに、都内から日本海側にある藤見市へと移り住んだ。これが二〇一四年の春先の事で、彼とは大手結婚相談所の仲介で知り合った。

 地方在住というのと、バツイチというのが気にはなったが、年収が六百万で顔も及第点と結婚相手としては申し分なかった。年齢は十も違ったが、元々歳上好きな帆波にとっては願ったり叶ったりであった。茂房の方も乗り気で、二人は特に問題なく結婚までこぎつける。そうして、六年の歳月か流れた。

 未だに子供はいなかったので、帆波の一日は結婚当初と変わらず、一見すると平穏で退屈なものだった。

 夫の茂房を仕事に送り出し、適当に家事を済ませ、自転車で近くのショッピングセンターまで買い物に行き、帰りにおしゃれなカフェでランチを食べたあと、十八時頃まで洋間のソファーでだらだらとスマホを弄る。

 友人知人と離れてしまったので、寂しいといえば寂しかったが、今はインターネット回線と端末があれば、世界中のどこにいる誰とも繋がってられる。家には飼い猫のツナもいる。

 夫の稼ぎがよく、経済的に安定しており、今のこの暮らしに何の不満もない……はずだった。

 その日も、いつも通り昼間から洋間のソファーで、ゴロゴロしながら動画を見たり、SNSを更新していると、いつの間にか寝落ちしていた。

 しかし、その微睡まとろみは、全身の肌が泡立つような感覚に遮られる。

 はっとして、上半身を起こした瞬間、何かが畳の上に落ちて転がるような音が響いた。帆波は警戒した表情で耳をそば立てる。

 音は六畳の和室の方から聞こえた気がした。

 帆波は陰鬱いんうつな溜め息を一つ吐き出し、足をソファーから出した。スリッパを履き、洋間を後にした。

 そして、廊下を挟んで斜向はすむかいにある六畳間の戸板を開けた。すると、それは正面奥の天井付近にある神棚の下だった。畳の上にさかき入れや、お供え物の米と塩が散らばっていた。

 またか……と、帆波は顔をしかめる。

 この家はおかしい。

 周りは田んぼに囲まれていたが、近くを横切る国道沿いには大型の量販店やショッピングセンター、都内にいた頃にも足を運んでいたファーストフード店、おしゃれなカフェなど一通り揃っていた。

 何より隣家とも距離があり、近所付き合いによる気疲れもしない。

 しかし、それでも帆波にとって、この家は居心地が悪く不気味だった。

 こういう事が・・・・・・頻繁に起こる・・・・・・からだ・・・

 不意な物音。視界の隅を横切る黒い影。ここ最近では、家の外でも奇妙な視線を感じる事が度々あった。確実に猫の仕業ではない。ツナを飼う前から、この現象は度々起こっていた。

 原因には心当たりがあり、嫌な想像が頭を横切る。  

 こういう事・・・・・にはもう慣れていたが、やはり良い気分にはならない。

 しかし、帆波はかぶりを振ると、気を取り直す。

 大きく深呼吸をすると、気分を切り替えて、いったん六畳間の戸口から離れる。

 玄関近くの納戸の扉を開けると、乾いた雑巾と掃除機を引っ張り出した。

 そして、再び六畳間に戻ると榊入れやお供え物の器を戻し、濡れた畳を雑巾でふいた。それから掃除機のスイッチを入れる。有名メーカーのサイクロン式掃除機が物凄い勢いで米や塩を吸い込み始める。

 畳が綺麗になると、帆波は舌打ちをして、掃除機を再び納戸へと片付けに向かった。すると、どこからかしっぽを揺らめかせながら現れたツナが足元にすり寄ってくる。

 帆波は「こら。悪戯しちゃ駄目でしょ……」と言って、いつも通りツナのせいにした。しかし、そのキジトラの毛並みには、一欠片の塩も米もついていなかったし、どこも濡れていなかった。




 茂房の前妻の名前は栖美すみといった。茂房とは高校生の頃からの付き合いで、二人が大学を卒業した二〇〇六に結婚したらしい。

 現在は再婚相手と共に室蘭で暮らしているそうだ。因みに彼女との間にも子供はいない。

 茂房によれば二〇一〇年当時、彼の母親であるスガ子が突然家を出て行方不明になった。以来、茂房は神棚にお供え物をして毎日手を合わせ、定期的に地域の掲示板に尋ね人の貼り紙を出しているのだという。

 帆波は前妻との離婚は、この母親失踪の一件が原因ではないかと半ば確信していた。

 母親のスガ子が失踪したのが二〇一〇年の冬で、翌年に茂房と前妻は別れていたからだ。しかし、その一件がなくとも二人は、遅かれ早かれ離婚していたのではないのかと帆波は確信していた。

 それほど、橋本茂房という男との生活は退屈だった。無口で無趣味で何事にも無関心。良くも悪くも刺激のない、面白みに欠ける男であった。

 しかし、だからといっても、帆波としては今さら茂房と別れて専業主婦の座から降りる事など出来るはずがない。自分で働くだなんてまっぴらだったし、現実問題として、さしたるキャリアもスキルもない年増の女がやれる仕事なんて限られている。そうでなくとも、この家から出て行ってしまえば破滅は免れない。

 もう帆波は、一生この家で暮らす以外に道はないのだ。

 だから、帆波はどんなにおかしな事が起こっても、それを“猫のせい”にして、あらゆる疑惑を胸のうちに封じ込めるしかなかった。

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