【02】This house


 桜井と茅野はそそくさと帰り支度をして部室棟を後にする。

 グラウンドで練習にせいを出すソフトボール部の生徒たちを横目に、駐輪場へと向かった。

 その途中で桜井は両腕を組み合わせ、難しげな表情で声をあげる。

「でも、けっきょく、あのブログの目的って何なんだろうね」

「まだ何とも言えないけれど“This man”を思い出すわ」

「でぃす……まん?」

 桜井が首を傾げると、茅野は自らのスマホを取り出し、素早く指を這わせると、画面を桜井に見せる。

 そこには、奇妙な男の似顔絵が表示されていた。

 生え際の後退した額と、左右が繋がりそうなくらい濃く太い眉毛が特徴的で、大きな黒目の三白眼と唇が薄く横に長い口元は、どこか爬虫類じみていた。

「あっ、これ、どっかで見た事あるかも」

 桜井がはっとした様子で言うと、茅野はスマホをしまってから話を続けた。

「二〇〇八年『Ever Dreamed This Man』……日本語で“この男の夢を見る?”という名前のサイトが初出ね。そのサイトの説明によると、始まりは二〇〇六年一月の事だったらしいわ」

「二〇〇六……十四年前か」

 その桜井の言葉に茅野は「そうね」と相づちを返すと、話の続きを口にした。

「それで、そのサイトによると、あるニューヨークの有名な精神科医が、奇妙な男の夢を見続けていると訴える女性患者を診察したらしいの。因みにさっきの絵は、その際に患者の証言を元に描いたものだというわ」

「ふうん……」

 桜井がぼんやりとした返事をした。二人はグラウンド脇を通り抜け、正面玄関前に差し掛かる。駐輪場の小屋はすぐそこだった。茅野の話は更に続く。

「数日後に、今度は別な男性患者がその絵を見て、自分も夢で、この男を見たことがあると語った。そして、最初の女性患者も男性患者も、現実ではその男に会った記憶がないと言ったらしいわ」

「……まあ、会ったら絶対に覚えているよね。あんな濃厚な顔の人」

 二人は自転車の鍵を外した。小屋から自転車を引っぱり出す。

「……その後、ニューヨークの精神科医が四人の同業者に、あの絵を送ったところ、彼らの患者たちの中にも、その男性を夢で見たことがあると証言した人がいたそうよ。夢の具体的な内容自体は悪夢から性的なものまで様々だったらしいわ」

「……で、けっきょく、あの濃い顔のおっさんは何なの?」

 桜井がサドルに跨りながら質問を発した。茅野もサドルに跨って質問に答える。

「……“政府や企業による何らかの心理的な実験の結果、同じ男の夢を見た”とか“この男は神で、人類の夢に現れて、何らかのメッセージを残している”だとか“人々の集合的無意識を何らかの方法で行き来する存在”だとか、様々な説が飛び交ったのだけれど」

「我は普遍的無意識に住まう影の人格!」

 きりっ、とした顔つきで、桜井は最強の悪霊だった箜芒甕子の下手くそな物真似をした。茅野はくすりと笑う。

「だったら面白かったのだけれど……二〇一〇年に、イタリア人のアンドレア・ナッテラという人物が、This manは虚偽であった事を認めたらしいわ。何らかのゲリラマーケティングの一環だったみたいね」

「……何だ。普遍的無意識に住まう影の人格なんて、やっぱり存在しなかったんだね」

 桜井はしょんぼりとした顔で、握り締めた右拳を見つめた。すると、茅野が励ますように言う。

「……でも、あのブログの絵に描かれた場所は現実に存在しているわ」

「それも、そだね」

 と、桜井も切り替えた様子で答える。

 二人はペダルを漕ぎ出して校門を抜け、くだんの家が所在する国道沿いの住宅地を目指したのだった。




 桜井と茅野は藤見女子高校から十分ほどで藤見市郊外の田園地帯を横切る国道に着いた。排気ガスを巻き上げながら行き交う大型のトラックやトレーラーを横目に、しばらく歩道を自転車で走る。歩道橋の脇を通り抜け、その先の右手に、田んぼを割って伸びる脇道が見えてきた。

 そちらへ舵を切ると左右に竹林が見えてきて、そこを通り抜けると十字路に差し掛かる。右奥の角に地域の掲示板があり、イベントや尋ね人などの張り紙があった。そのまま、二人が直進すると、田んぼを埋め立てた住宅街が見えてくる。

 碁盤目状に区切られた宅地に並ぶ家々は、それなりに古びていた。くだんの家は、その住宅街の南西の端っこにあり周囲の家からは孤立した立地となっていた。

 敷地の裏手と右側が田園地帯に面していて、左側は良く手入れのされた菜園になっており、家の敷地との境には檜葉の生け垣が連なっていた。前を横切る道を挟んで向かい側には、背の高い雑草に被われた空地があった。

 二人は門の前に着くと、サドルから腰を浮かせ、足をペダルから路面に下ろす。

 門柱の間の短いステップや玄関前まで続くアプローチ、その右隣にそそり立つ冬青そよごは、間違いなくあの家だった。

 庭先の様子はずいぶんと変わっており、プランターやフラワースタンドの他には物干し台があった。

 門のすぐ右隣にある屋根付きのカーポートに自転車はあったが車はない。奥の右隅にスチール棚があり、そこにはジョウロやスコップ、草刈り鎌などの園芸用品が収納されている。

 耳を澄ますと微かに屋内から掃除機の音が聞こえた。どうやら、住人が在宅しているようだ。玄関の上の表札には“橋本”とある。その表札を指差して茅野が言った。

「見て。梨沙さん」

「何?」

「さっき、十字路に地域の掲示板があったでしょう?」

「ああ、うん」

「そこに、たずね人の張り紙があったのだけれど」

「そなんだ」

「その尋ね人の名前が“橋本スガ子”だったわ」

「え、それじゃあ……」

 桜井の言葉に茅野は頷く。

「ええ。恐らくこの家の住人なのかも。ずいぶんと高齢者だったらしいから、認知症による徘徊で家を出て行方不明になったのかもしれないわね」

「じゃあ、そのおばあちゃんが、家を出て、事件か事故に巻き込まれたのを、あのブログは予言していた……?」

「まだ何とも言えない」

 そう茅野が言うと、まるで珈琲コーヒーショップに対してそうするかのような気安さで、桜井が玄関の方を親指で差した。

「それはそれとして、ちょっと行っとく?」

 茅野が肩をすくめて笑う。

「まずは、我らが心霊探知器九尾天全の出番よ」

「よしきた」

 桜井はネックストラップのスマホで、その家の写真を撮影した。すぐさま九尾に送る。

 それから二人はカーポートの隣を横切る砂利道から裏手の農道へと向かった。

 道の右側には広大な田園地帯。左側には竹垣が連なっている。その竹垣の向こうが橋本家の敷地だった。

 母屋裏手の左側が張り出しており、そこに風呂やトイレ、キッチンなどの水回りが集まっているようだ。その張り出した部分とは対称の位置に物置小屋があった。二畳程度の狭さで、入り口の扉には錆び付いた南京錠がぶら下がっていた。

 他に目につくものといえば、錆びついた物干し台、使われていない花壇などで、それらが長く伸びた雑草の中に埋もれかけている。その奥に見える掃き出し窓や二階の窓は、すべて分厚いカーテンで閉ざされていた。

「梨沙さん、あれを見て」

 茅野が掃き出し窓の右隅の上を指差す。その硝子の内側には御札が貼られている。赤い晴明桔梗せいめいききょうの上に、黒字で悪霊退散とあった。

「何であんなところに……」

 桜井が眉をひそめる。茅野の表情も訝しげだった。

「普通、ああいう御札は玄関や鬼門の方角に貼るものだけれど……この裏庭の方向は鬼門ではないわね」

「怪しいね」

 桜井が裏庭の様子を撮影する。再び九尾に送りつける。

「とりあえず、九尾先生の返信待ちね。今日のところは帰りましょう」

 その茅野の言葉に桜井が頷く。

「そだね」

 二人は再び自転車を漕ぎ帰路に就いた。

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