【06】帰還不能


 桜井梨沙が小面に飛び蹴りをかましたときに感じたのは、案外硬いという事だった。少なくとも、人間を蹴ったときの感触ではない。しかし、効いているか否かは別として、こちらの攻撃は当たる。

 桜井は、さっと、立ち上がると拳を構える。

「物理は通じるタイプか」

 その言葉の直後だった。小面が立ちあがり、へたり込んだままだったボブヘアの女が逃げ出す。

 茅野が「待って! 無闇に動かないで!」と叫んだ。

 ほぼ同時に桜井が動いた。獰猛な笑みと共に地面を蹴る。素早く距離を詰める。

 小面は右手の鉈を無造作に振り、一直線に突っ込んできた桜井の首を刎ねようとしたが、その斬擊はあっさりと屈んでかわされる。

「うりゃあー」

 桜井は凶刃の一閃を潜り抜けると、気の抜けた雄叫びをあげながら右手で小面に喉輪を食らわす。

 やはり、人間の感触ではない。

 確信を抱いた桜井は、そこから流れるように“大外刈”を食らわす。背中を打ち付ける小面。

 その無表情な仮面を見下ろし、桜井は楽しげな声で言った。

「人間じゃないならいいよね?」

 小さく飛びあがり、右足に全体重をかけて小面のめんの上に乗っかる。手加減抜きの踏みつけであった。その瞬間だった。

 ぱきっ……と乾いた破壊音が鳴り面が割れた。そこで桜井は大きく目を見開き驚愕する。

「あれ? これ……」

 小面の下から現れたのは、木目の浮いたのっぺらぼうであった。良く見ると腕なども精巧な木製であった。各関節の継ぎ目には可動部が見える。

 桜井はその顔面から右足を退けると、爪先で慎重に人形を突くが、再び動き出すような事はなかった。

「循、これって……」

 茅野の方を見ると、彼女は思案顔で「まだ、何とも言えない」と言った。

 桜井は「そか」と言って、注意深く周りを見渡した。

「お面の人形を倒したのに、元に戻ってないねえ……」

 茅野が鹿爪らしい顔で言う。

「……とりあえず、あの五人を探しましょう。九段さんの著書によれば“もし山で別の者と出会い七人になってしまったら、必ず七人で山を降りなければならない”とあったわ」

「ああ。つまり、この不思議空間から帰るには、あの五人がいないと駄目なんだ?」

 桜井の言葉に茅野は首肯しゅこうを返した。

「ええ。できる限り早く、あの五人と合流しましょう。誰か一人でも欠けたら帰る事ができなくなるかもしれない」

 こうして、桜井と茅野はつるべ井戸のあった四つ辻を離れ、五人の捜索へと向かった。




 坂澤が、その破れた障子戸を開けると、広々とした土間がそこにはあった。奥に長く、右側に古いかまどや調理台、割れたかめや木桶、棚、勝手口の障子戸があった。

 玄関とは反対側にも障子戸の裏口がある。左側には長い上がりかまちがあり、その向こうには囲炉裏のある座敷があった。よく時代劇で見るような農家といった雰囲気だったが、荒廃しており、人の気配はない。

 畳や板張りの上は埃が積もっており、戸が倒されて奥の部屋まで見通せた。その奥の部屋は天井が崩落しており、落下して斜めになったはりが見えた。

 坂澤はよろめきながら、荒い息を吐いて上がり框に腰をおろした。その彼の後からやってきた尾畑が慌てて障子戸を閉めた。すると、背中越しに坂澤の声がした。

「おい、女の子たちは?」

 尾畑は振り向くと沈痛な面持ちで首を横に振った。

 すると、坂澤は天井を仰ぎ見て「くそっ」と吐き捨てる。そこで尾畑が苛立ち混じりの声をあげた。

「坂澤さんっ! あれ、何なんすか!」 

「知らねえよ……俺に聞くなよ……」

 坂澤が頭を抱えて俯いた。尾畑はその肩に手を置いて揺さぶる。

「あんたが、そもそも、この山に来ようっていったんだろ! あんたのせいだ! そうだろうが!?」

 坂澤は顔をあげ尾畑の両腕を振り払い、立ち上がった。そして、彼の胸を左手で突いた。

「知らねえよ! ここどこだよ! 俺だって、こんな事になるだなんて、解らなかったんだよ!」

「何だと、お前……」

 尾畑は鋭い目付きで坂澤を睨む。すると、坂澤は何かを思い出した様子で「そうだ……あの二人だ」と言った。尾畑は何の事か解っていないらしく首を傾げる。

 坂澤は興奮した様子で捲し立てる。

「河原にいた二人の女の子……あれと出会ってから、おかしな事になった。あの二人、何か様子がおかしかったし、あいつらのせいだ! そうだよ……」

「そんな、馬鹿な……」

 尾畑は呆れた様子で笑った。すると、今度は坂澤が鋭い目付きで睨み返す。

「……もしかして、お前があのとき、あの二人に声を掛けなければこんな事にはならなかったのかもしれない」

「てめぇ、それ、本気で言ってんのかよ!」

 今度は尾畑が坂澤の胸ぐらを掴んだ。

「何すんだよ、お前!」

 激昂した坂澤が尾畑の左頬を殴りつけた。尾畑はよろめき、二歩後退したあと憤怒の籠った視線を坂澤に向けた。

「てめぇええ!」

 飛び掛かってきた尾畑を迎え討つ坂澤。二人の醜い争いはしばらく続いた。




「おい……尾畑?」

 激昂した坂澤は尾畑に馬乗りとなって、彼の前髪を掴みながら、右拳を振り下ろしていた。

 粘ついた赤い血が糸を引き、不自然に陥没した尾畑の鼻と坂澤の拳を繋いでいる。

 我に返った坂澤は「ひぃ……」と、情けない悲鳴をあげて尾畑の上から尻を退けた。その間も彼はまったく動かなかった。まるで倒れたマネキン人形のように力なく土間の硬い地面の上に横たわっている。

「尾畑?」

 坂澤は恐る恐る動かない尾畑に右手を伸ばし、脈を取る。何も感じない。

「くそっ、くそっ……」

 次に尾畑のつぶれた鼻と口元に手をかざした。やはり、何も感じない。尾畑は息をしていない。

「畜生……畜生……何で……何でだよっ! どうしてこんな事に……」

 坂澤は土間の地面に踞り、むせび泣く。

 彼も三十一歳になり、そろそろ身を固めようと結婚を真剣に考えるようになっていた。

 付け焼き刃の浅い知識で、女子の前で良い格好をするために、自分以外の男はアウトドア経験のない者たちを誘った。まさか、そのうちの一人を醜い争いの果てに殴り殺してしまうだなんて……。

「ごめんよ……ごめんよ……尾畑……」

 こんな事なら、家で筋トレでもしていた方がマシだった。坂澤は心の底から後悔してむせび泣く。

 そうして、しばらく経った頃だった。とつぜん裏口の障子戸がガラリと開いた。

 坂澤が顔をあげて、そちらの方を見た。すると、そこに立っていたのは、鉈を持った小面であった。

「うわあああああ……」

 坂澤は慌てて立ち上がると、玄関の障子戸を開けて外に出た。すると、それは家の前を横切る通りの左側だった。

 人影が一人……二人……三人。

 草刈り鎌を手に持つ者、熊手を手に持つ者、金づちを手に持つ者。

 それらが、カクカクと首を動かしながら、こちらへと向かって来る。その全員の顔は小面のめんに覆われていた。

「……一匹だけじゃなかった……のかよ」

 その光景を見て、坂澤は絶望的な笑みを浮かべた。

 がたり、と音がして、ついさっき坂澤が出てきた家の玄関戸が開いた。その向こうから裏口にいた小面が顔をのぞかせる。

 坂澤は悲鳴をあげて、全力で駆け出した。

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