【05】霧の中から


 自分の爪先すら霞むほど濃くなった霧は、ゆっくりとしたペースで次第に薄れていった。

 柏崎操はすぐ右隣にいた坂澤の横顔が見えてきたとき、いつの間にか沢のせせらぎが聞こえない事に気がついた。足元にも妙な違和感を覚える。

「ねえ……周りの地面を見て……」

 後ろにいた朽木が発したその言葉で、柏崎は違和感の正体に気がつく。薄れゆく霧の下から現れた地面は、白い石が敷き詰められた河原ではなく、黄土色の硬い土の地面へと変わっていた。

 更に周囲を取り囲む霧の向こう側から、建物の影が姿を見せる。

「何これ!? ちょっと!」

「何なの! 何! 何なの!」

 朽木と早瀬が叫び散らす。二人に向かって坂澤が怒鳴り声をあげた。

「おい! 落ち着け! 静かにするんだ! おい!」

 そんな彼の両肩を掴んで尾畑が叫んだ。

「お前こそ落ち着けって」

 全員がパニックにおちいっていた。

 柏崎はというと妙に冷めていたが、冷静かというとそうではなかった。それこそ、夢でも見ているような現実感のなさ。まるで他人事のような……。

 ふわふわと地に足がつかないまま、彼女は辺りを見渡した。

 どうやら、どこかの農村のようだ。周囲の建物は、すべて茅葺かやぶき家屋の平屋で、軒下には大八車や物干し台、木製の樽などが置かれていた。

 それに加えて、どの家も玄関戸が外れていたり、障子が破れていたりしてみすぼらしく古びている。倒壊している家も多く、人の気配はまったく感じられなかった。

 そんな古い時代の農村の四つ辻に、いつの間にか自分たちが立たされている事を柏崎は知った。

 そして、数メートル離れた場所に細い丸太で組まれたつるべ井戸があり、その向こう側に二人の少女の姿があった。河原の倒木に座っていた二人組だ。

 背が高い長い黒髪の少女と、栗色の髪をポニーテールに結った背の低い少女。

 二人はカメラとスマホで、周囲を撮影しまくっていた。

「もう、起こっちゃったものは仕方がないし、楽しまないと」

「まあねえ」

 それは、どこかのテーマパークか観光地にでもいるような、呑気な声音であった。

 状況の異常さを理解できていないのか、それとも恐怖でおかしくなってしまったのか。

 いずれにせよ、二人の常軌を逸した言動は、柏崎の心に新たな恐怖をもたらした。

「な、何なの、あいつら……」

 そこで脳裏に、霧が立ち込める前に少女の片割れが叫んでいた言葉が甦る。


 『こっちは危険よ! 引き返して!』


 つまり、この二人はこうなる事を知っていたのではないか。だから、こんなに落ち着いていられるのではないか。

 柏崎は二人の少女に向かって声を掛けようとした。その次の瞬間だった。未だにうっすらと漂う霧の奥から、足音が聞こえてきた。それは、尾畑と言い争う坂澤の背後であった。

 その通りの向こうから、奇妙な人影が近づいてくる。

 それは、襟と帯が白の赤い襦袢じゅばんをまとい、ぼさぼさの黒髪が腰まで伸びていた。背を丸めているが、恐らく身長はかなり高い。細く長い首を、かくり……かくり……と前後左右に振りながら、ゆっくりと近づいてくる。 

 顔は小面こおもてと呼ばれる能面に覆われており、その表情は解らなかった。しかし、かくり……かくり……と首が振られる度に角度が変化し、無機質な能面が笑っているようにも、怒っているようにも、悲しんでいるようにも感じられた。

 しかし、そんな事よりも、その場にいた七人の目を奪ったのは、垂れ下がった長い右手に握られたものだった。

「お、おい、あれ……」

 尾畑が唇を戦慄わななかせた。

 それは重々しい刃だった。どす黒い汚れがこびりついている。その小面を被った何かは、大振りの鉈を握っていた。

「ちょっと、嘘でしょ……」

 早瀬が青ざめた顔で言った。朽木は肩を震わせながら、悲鳴を堪えるかのように、口元に手を当てていた。

「何なんだよ、これ……何なんだよ!」

 坂澤が叫んだ。

 すると、小面はかくり……と、首を右にかしげたのち鉈を振りあげて駆け出す。長髪をなびかせて七人のいる方へと向かってきた。

「ちょっと、落ち着いて!」

 黒髪の少女が叫んだ。

 その声と坂澤の野太い絶叫と、早瀬の甲高い悲鳴が重なる。朽木と尾畑が逃げ出す。坂澤、早瀬が続いた。柏崎も後に続こうとするが……。

「あああぁ……」

 腰が抜けてへたり込んでしまう。立ち上がろうとしたが、力が入らない。そのまま周囲を見渡すと、すでに見知った顔は一人も見当たらない。

 見捨てられた。

 柏崎の心が絶望にかげる。

 鉈を振りあげた小面は、逃げ遅れた柏崎に狙いを定めたようだ。無機質がゆえに如何様いかようにも感情を見いだせる仮面が迫る。

 柏崎は無駄だと知りつつも叫んだ。

「誰か! 助けて!」

 すると、眼前に迫っていた小面の右から何かが飛んできた。それは、あのポニーテールの少女であった。

「ていやっ!」

 可愛らしい掛け声をあげる彼女の飛び蹴りが小面を左側に吹き飛ばした。

 小面はまるで自動車に跳ねられたかのように地面を転がる。少女は柏崎の目の前で見事な着地を決めると、すぐに立ちあがり、拳を構えて、きりっとした顔つきで言う。

「物理は通じるタイプか」

 小面が糸で釣られた人形のように、ふらりと立ち上がった。

 かくり、かくり……と、首を左右に振った。その直後であった。

 一拍遅れて柏崎は、慌てて腰を浮かせる。今度は上手く立ち上がる事ができた。

「待って! 無闇に動かないで!」

 黒髪の少女が叫ぶ。しかし、柏崎は無視して、小面がやってきた通りとは反対方向へと全力で駆け出した。

 しばらく闇雲に走って、体力の限界が訪れたので、家と家の間の狭い路地に入って身を隠す。そのまま壁を背に座り込んで荒い息を吐く。

「な、何なの……本当に……」

 鉈を振りあげて襲い掛かってくる小面。そして、その恐るべき存在に立ち向かわんとする二人の少女。なにもかもがおかしい。

 柏崎は込み上げる怖気おぞけに顔をしかめた。 

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