【03】消された土地


 坂澤の運転するワンボックスカーは、県外へと伸びた連絡道路をしばらく行くと脇道へと降りて山間部へと続く道を進み、四棚しだなという農村に辿り着いた。

 そこから更に奥へ向かうと、ぽつぽつ見られた人家は次第に消え失せて、木々が生い茂るばかりとなる。

 やがてワンボックスカーは、いくつかの短いトンネルを潜り抜け、古くて細い橋を渡り、渓谷沿いの細い道を進んで、未舗装の駐車場に辿り着く。

 車から外に出ると、そこには日常から切り離された世界があった。近くを流れる清流の音が耳をつき、周囲には澄んだ空気が満ちている。天気は良く、青空には綿菓子のような雲が呑気に浮かんでいた。

 柏崎は両手を思い切り突き上げて背骨を伸ばした。

 駐車場には他にも四台の自動車が停めてある。やはり、昨今はアウトドアブームなのだと再認識させられた。

 坂澤がトランクを開き、尾畑が各人の荷物を下ろそうとする。

 柏崎は自分のリュックを受け取って背負った。すると、何気なく駐車場の隅に停めてあった銀色の軽自動車が目に入る。

 フロントに丸いライトが四つ付いたレトロ調の車体で、ナンバーは県内のものだった。その視線に気づいた坂澤が言った。

「僕たちの他にも、けっこう人がいるみたいだね」

「ええ……」

 柏崎は軽自動車を見ながら相づちを打った。すると、朽木が近寄ってきて耳打ちをする。

「……水本くんの事は残念だったけど、もしかしたら、新しい出会いがあるかもしれないじゃん」

「あはは……」

 柏崎は、別にそういうのは求めていないと反論しても良かったが、強がっていると取られるのも馬鹿馬鹿しいので止めた。すると、坂澤は全員の顔を見渡して言う。

「よし。じゃあ、準備はいいかな?」

 それぞれが彼の呼び掛けに返事をする。

 こうして、五人は南度山の登山口へと向かったのだった。



 十五年前の夏の日の事だった。

 それは四棚村の外れ。その歴史ある日本家屋の裏手にあった蔵の鍵を開けたのは、半袖の開襟シャツにブラウンのスラックスを穿いた七十近い年齢の小柄なおきなであった。吉儀祐吾よしぎゆうごという。

「……どうぞ」

 その吉儀の言葉に頷くのは、三十代半ばの男であった。トレッカー風の格好をしていたが、青白い肌とボサボサの髪、痩せた細い肩や神経質そうな銀縁眼鏡が、いかにもインドアな学者然としていた。名前を佐田翔真さだしょうまと言う。

 彼は県内の大学で民俗学の研究をしており、論文執筆のためにこの辺境の地へと足を運んでいた。

 佐田は「じゃあ、失礼します……」と、小声で言って、吉儀翁の後に続いて蔵の中へと入る。

 蔵は奥に長く、両側の壁際には、古い木箱やほこりを被った葛篭つづらがたくさん積み重なっていた。薄暗く湿っており、中に入ったとたんに、ついさっきまで鼓膜を震わせていた蝉の鳴き声が、ふっと、遠ざかる。

 吉儀はずんずんと蔵の奥へと進む。佐田はその丸まった背中を追った。

 そして、吉儀は最奥に辿り着くと、そこに山積みとなっていた細長い木箱の蓋を開けて、中から丸まった巻物を取り出した。

「……これが、そうだ」

「どうも」

 佐田は手袋をはめたあと、慎重な手つきで巻物を吉儀から受け取った。そして、中身を改める。

 それは、どうやら明治時代の地図であった。その中にあった“山神座やまかみざ”という地名に目をつける。山間にぽっかりと空いた馬の目のような盆地に広がる集落であった。

 佐田は記憶の中にあった現代の地図と、手元の古い地図を比べる。しかし、この馬の目のような盆地と一致する地形は思い当たらなかった。

「この山神座というのは……」

 その佐田の問いに、吉儀は鹿爪らしい表情で答える。

「今は、ない」

「ない……とは?」

 佐田は恐る恐る吉儀に尋ねた。すると、翁は表情を変えぬまま言葉を紡いだ。

「だから、存在しない。この盆地ごとな。山に飲み込まれてしもうた……」

「山に飲み込まれた……? 土砂崩れか何かの災害でという事ですか?」

 吉儀は無言で首を振るばかりで、その原因については答えなかった。

「今は同じ呼び名の沢があるだけじゃな」

「……その沢にはどうやって……」

 佐田の問いに吉儀は視線を上に向けて記憶を反芻はんすうした後に、答えを口にした。

「南度山の南口の途中に、地図には載っていない、二股に別れた道がある。その道の古い鳥居がある方を行け……」

「鳥居のある方……」

 佐田はすぐにメモ帳にその事を書き記した。すると吉儀が神妙な調子で言った。

「……この山神座の事は、今では知る者がいなくなってしもうた。この村でも、わしら吉儀の本家の者しか誰も覚えておらん。なぜか解るか?」

 佐田は手に持ったメモから視線をあげて首を横に振る。すると、吉儀が自ら放った質問の答えを口にした。

「あそこが忌み地だからじゃ。みんな忘れてなかった事にしたがっている」

「忌み……地……」

 佐田はその禍々しい言葉を繰り返した。


 それから数日後の事だった。

 佐田翔真は自らのゼミ生六人と共に、伊三山に向かったきり、消息を絶ってしまった。




 柏崎らが登山を開始して三十分程が経った頃に問題が起こった。

「……これ、どっちだ?」

 そう言って、二つに別れた登山道へと交互に視線を這わせたのは先頭の尾畑だった。

 彼は最後尾の坂澤に向かって声をあげる。

「ねえ。坂澤さん、どっち、これ?」

 坂澤はスマホの画面に指を這わせながら眉間にしわを寄せている。その様子を早瀬、柏崎、朽木の三人が不安げに見つめている。

 しばらくして、坂澤が「あー……」と、苛立ちの混ざった様子で声を上げた。

「だめだ。電波が悪い。地図が見れない」

「だめだって……」

 尾畑が呆れた様子で苦笑する。早瀬と朽木が不安げに視線を合わせた。柏崎は二つに別れた道へと視線を向ける。

 右は赤土の斜面を横切る細い道で、左は生い茂る木立の向こうに続いた平坦な道であった。

 赤土の道の方は、険しいとまでは言えなかったが進むのは少し億劫おっくうそうだった。

 坂澤もそう感じたらしく、尾畑に向かって叫ぶ。

「左だ! 左!」

「左!? 本当に?」

 尾畑が確認する。

 すると、少しだけムキになった様子で坂澤が答える。

「ネットじゃ、険しい場所はないって話だった! だったら、左だろ」

「じゃあ、この右の道は何?」

 尾畑の問いに坂澤が答えた。

「たぶん、地図にも乗ってないって事は、林業の人とかが使う専用の道なんじゃないの? きっと、そうだって」

「流石、坂澤さん、頼りになるぅ」

 朽木が黄色い声をあげるか、他の三人はいぶかしげであった。

 それでも、さして険しくないらしいこの山で遭難する事などないだろうという油断もあって、五人は特に深く考えずに左の道を行く事にした。

 そして、その入り口には、おびただしい蔦に侵食された古い石の鳥居があったのだが、誰一人として気がつく者はいなかった。

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