【12】問答無用


 吉成鈴は慌てて手に持っていたイラストボードの束を棚に戻して、再び久保の方に向き直った。

「どうしたの?」 

「う、うん。ちょっと、忘れ物をして」

「そうなんだ」

 久保が張りついたような笑顔を浮かべたまま、美術準備室の戸口から鈴の方へにじり寄る。

「……忘れ物はあった?」

「う、うん」

 鈴が頷くと、久保が再び一歩にじり寄る。一瞬、怯んでしまったが、思い切って彼の横を通り抜ける。

「……も、もう帰るから」

 しかし、そのまま戸口の外に出ようとしたところで、後ろから右手首を掴まれる。

「いや……」

 手汗にまみれた生温い肌触りに悪寒が走る。そのまま振り向くと、久保が醜悪な笑みを浮かべていた。

「……じゃ、じゃあさ、いっ、一緒に帰ろうよ」

「いや……放して」

 しかし、久保は聞き入れない。

「こ、この前は大変だったみたいだね。か、茅野の事……」

 彼の手首を握る力がよりいっそう強くなる。

「やめて……」

 鈴は右腕を引っ張られ、つんのめりそうになった。

「あの野郎、本当に酷いよね」

 そこで、ようやく鈴は理解した。

「ちが……」

 どうやって、彼が茅野薫の真似をしていたのかは解らない。

「僕が守ってあげるよ。だから、僕と……」

 しかし、その目的は、恐らく茅野薫の評判を下げる事だ。

「ねえ、鈴ちゃん……」

 そして、傷ついた自分に取り入ろうと目論んでいたのだ。鈴の中で怒りの感情が、嫌悪感や恐怖を駆逐してゆく。

「やめて!!」

 大声をあげて、どうにか掴まれていた右手首を振りほどいた。

「あなたでしょ!? 茅野くんの振りをして私を騙していたのは」

 すると、久保は呆気に取られた表情で凍りついたあと、ぼろぼろと涙をこぼし始める。

「……どうして、そういう事を言うの?」

 鈴はぞっとして、強く握られていた右手首を擦りながら、一歩だけ後退りした。

 その直後、唐突にパラパラパラパラというヘリコプターの飛行音のようなノイズが聞こえ始める。すると、久保が己の肩掛け鞄のチャックを開け、その中からスピリットボックスを取り出した。

「もしもし……」

 久保が涙を流したままの真顔でスピリットボックスに向かって語りかける。すると、その声が鳴り響く。

『その女は偽者よ。私が好きなのはあなただけ。私が好きなのはあなただけよ』

 鈴は息を飲み、口元を手で覆った。スピリット・・・・・ボックス・・・・から・・聞こえた声が・・・・・・自分とそっくり・・・・・・・だったからだ・・・・・・

「そうだよね。そうだよね……」

 久保はにこやかな表情で頷く。そして、彼の左手のスピリットボックスがささやいた。

『その偽者は、あの君が大嫌いなクソ野郎の手下だよ。影で君を笑い者にしているの』

「そうだよね、そうだよね……」 

 久保が右手を肩掛け鞄の中に突っ込んだ。

『悪いのは、あのクソ野郎だよ。だから……』

「殺してもいいよねえ……」

 そう言って久保が取り出したのは、カッターナイフだった。チキチキと虫の鳴き声のような音がして、刃がせり出る。

『そうよ。その偽物を殺せば、あなたの願いは叶う』

 今度こそ鈴は完全に理解した。

 願いが叶えられ・・・・・・・ようとしていたのは・・・・・・・・・自分ではない・・・・・・彼の方だったのだ・・・・・・・・

「ああ……あ……」

 悲鳴を上げようとしたが、まるでそのやり方を忘れてしまったかのように声が掠れた。身体が硬直して動かない。久保がカッターナイフを振り上げる。

 その瞬間だった。

「やめろ!」

 教卓の影に隠れていた茅野薫が立ち上がって声をあげた。

「てめぇ……」

 久保が教卓の方に向き直る。

「薫くん、どうして……?」

「お昼に姉さんから、久保の事を見張っているように連絡があったんだ」

 そう言って、薫は右手に持っていたスマホを掲げた。

 すると、久保の顔が怨嗟えんさの色に染まる。

「やっぱり、てめぇ、僕を笑い者にするつもりだったんだな! クソがッ!」

 そう吐き捨てて、薫の方に向かおうとした。鈴は咄嗟に近くの椅子を持ち上げて振りかぶり、久保の背中に叩きつけた。

 ぐぎゃ……と、蛙のような声をあげてつんのめり、膝を折る久保。次の瞬間、薫が叫ぶ。

「逃げるよ!」

 鈴は力強く頷き、薫の後を追って美術室から飛び出した。



「待て!」

 薫の背後から久保の声が響き渡る。後ろを振り向くと吉成鈴が追い付いたところだった。その背後の美術室の入り口から久保が飛び出してくる。彼の表情は憤怒に彩られ、その右手にはカッターナイフが握られていた。

 久保よりも運動部である薫の方が体力はある。しかし、それでもカッターナイフの存在は大きなネックであった。ただの十代の学生なのに凶器を持った相手に嬉々として突っ込んでいけるのは、自分をヒーローと勘違いしている馬鹿か桜井梨沙のいずれかであろう。

 ともあれ、彼は人気ひとけのある場所まで逃げる事にした。

「早く!」

 鈴の手を引いて廊下を駆ける。しかし、不運な事に周囲には誰もいない。

 そして、廊下の端の階段前に差し掛かったところで、手の中のスマホが鳴った。姉からの電話であった。

 薫は下り階段の方へ鈴を先に行かせて、自らも階段を駆け降りながら、通話ボタンを押してスマホを耳に当てる。

「姉さん!」

『あら、薫。今、貴方の学校の近くよ。ずいぶんと切羽詰まっているみたいだけれど』

 呑気な姉の第一声に薫は苛立ちつつも簡潔に状況を説明する。

「今、久保に追われてる! カッターを持ってる。吉成さんも一緒!」

『今、どこかしら?』

「特別教室棟、二階に降りたところ」

『なら非常口から外に出て、裏門に向かって。梨沙さんを先に向かわせるわ』

「解った!」

 そう答えて電話を切ると、薫は少し前を行く鈴に向かって叫んだ。

「吉成さん! 非常口から裏門へ出て!」

 鈴はちょっとだけ階段を降りる速度を緩めると薫の方を見あげて、怪訝そうな顔で頷く。そして、頭上から聞こえてきた「クソども、待て!」という声に弾かれて、再び階段を駆け降り始めた。

 二人は一階に到着すると、階段のすぐ近くにあった非常口から屋外に飛び出した。




 そのまま鈴と薫は特別教室棟を周り込み裏門を目指した。

 そして、先を行く鈴がもう少しで裏門の外へと出ようとしたところだった。しかし……。

「ああっ」

 足がもつれて転んでしまう。

「待て! クソどもが!」

 迫る久保。

「吉成さん!」

 薫は覚悟を決めて、転んだ鈴の前に立ちはだかり、久保へと向き直る。

「格好をつけるなッ!」

 久保はそのまま、カッターを振り上げながら飛び掛かってきた。

 薫は彼の手首を両手で掴んで、その一撃をどうにか受け止める。

 すると、その直後だった。

 裏門の外から爆走して来た自転車が、薫たちの右横でドリフトをかましながら止まった。そのサドルに股がるのは桜井梨沙であった。

「やってんねえ」

 そのままの格好で唖然とする久保。鈴も呆気に取られた様子で瞬きを繰り返す。

 桜井は自転車を乗り捨てると、敵意の感じられない笑みを浮かべながら、二人の元に歩み寄る。

「何だ! お前! 何笑ってやがるッ!」

 久保が桜井の方を向いて怒声をあげた。

 次の瞬間、久保の腹部に問答無用の拳がぶち込まれる。

「うぐっ」

 久保は膝を折りカッターを地面に落として、両手で腹を抑える。桜井の腹パンはずいぶんと手加減されたものであったが、それでもまったくの素人には耐え難い威力であった。

 桜井はそのまま久保の背後に周り込んで屈む。

「はい、ごめんよ」と言いながら、彼の首に右腕を回した。毎度お馴染みの裸絞めである。あっさりと久保は意識を失った。

 桜井が薫に向かって微笑む。

「お疲れ様、カオルくん。格好良かったよ」

「う、うん……」

 薫は照れ臭そうに微笑んだ。

 すると、裏門の方からのんびりとペダルをこぎながら、茅野循が姿を表す。

「終わったようね」

 と、言って、自転車を止めると久保のバッグを漁り始める。

「……昨日、九尾先生の話を聞いた時点で気がつくべきだったわ。あの廃屋には老婆の霊以外におらず、薫たちにも霊は取り憑いていない。ならば・・・おかしいのは・・・・・・男の声が・・・・聞こえてきた・・・・・・スピリット・・・・・ボックス・・・・そのもの・・・・

 そう言って、茅野はスピリットボックスを取り出した。そのスピーカーから薫の声が漏れる。

『そいつは偽者だ! 僕の方が本物だ! クソ野郎! この売女! 死ね! 死ね!』

「薫はそんな事言わない」

 そう言って、茅野はスピリットボックスの電源を落とした。 

 この数分後、久保は意識を取り戻すと、泣きながら薫と吉成鈴に土下座した。

 薫も、鈴も、今回の件を大事にするつもりはなかった。すべては彼が悪霊に取り憑かれてやった所業という事で納得する。

 そのあと、久保は鈴にずっと好きだった事を告白したが、とうぜんながら彼女は、その想いを受け入れなかった。彼は泣き喚きながら、その場を去った。

 一方、鈴は薫に自らの想いを改めて口にはしなかった。

 しかし、このとき彼女はある決意をした。

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