【10】九尾とピラコ


 その日の夜だった。

 『洋食、喫茶うさぎの家』の店内では、ディナーのピークが過ぎ去り客足が落ち着きつつあった。

 そんな中、桜井梨沙はレジでの応対を終えると、カウンターで食後の珈琲を楽しみながら読書にいそしむ茅野循の元へと向かった。

「……で、けっきょく薫くんの相談って、何だったの?」

 茅野は桜井に、薫や鈴から聞いた話を簡潔にまとめて聞かせる。すると、桜井は両腕を組み合わせて難しい顔で言った。

「……それにしても、その何とかボックスから聞こえてきた男の声? それが謎だね」

「ええ。あの家で私たちが見たのは老婆の霊だったわ。……となると、もう一体、別な霊があの家にはいる事になるけど」

「九尾センセの見解は?」

「いつも通り、画像だけ送ってリアクション待ちだけれど、反応はなしね」

「という事は、忙しいのかなあ……」

 と、桜井がどこか寂しげな顔で言った直後であった。カウベルの音が鳴り響き、入り口の扉の向こうから、九尾天全が姿を現した。

 背中が丸まり目蓋が重そうで、いかにも疲労困憊ひろうこんぱいといった様子の顔をしている。

「やあ、センセだ」

「あら、これぞ、まさに“噂をすれば影がさす”ね」

 桜井と茅野が呑気な調子で言う。すると、九尾はまるでそこそこ新鮮なゾンビのような足取りで二人の方にやって来ると茅野の隣に腰をおろした。

 そして、カウンターの中の桜井に向かって右手の人差し指を立てて注文をする。

「……ナポリタンセットお願い」

「はいよ」

 と、答えて厨房へと消えて行く桜井の背中を見送ってから、九尾は茅野に向かって眉を釣りあげながら言った。

「循ちゃん、何なの? あの画像。また変なところに行ったでしょ?」

「……と、言う事は、あの廃屋は心霊スポットという事で間違いはないのね? あの二人の写真はどう? 何かに取り憑かれていたりするのかしら?」

 その言葉に九尾は首を横に振る。

「あの二人は、特に変なものに取り憑かれている訳ではないわ」

 そこで、茅野は少しだけ意外そうな顔をした後で、次の質問を発した。

「では、あの廃屋に住まうものは何なのかしら?」

「特に危険な霊ではないわね。たぶん、あの家の昔の住人じゃないかしら?」

「特に危険な霊ではない?」

 茅野が眉をひそめ、更に質問を重ねた。

「……その昔の住人の霊というのは、お婆さんかしら?」

「そうね」

「そのお婆さんだけ……?」

「そうよ。何か心残りがあるみたいだけれど、特に生者へと害を及ぼすような事はしないと思うわ。もっとも、その廃屋をむやみに荒らしたりすれば解らないけど。でも、それにしたって、姿を現して脅かす程度の事しかできないと思う。そこまで力の強い霊ではないから」

 思案顔で黙り込む茅野。九尾はきょとんとした表情で問うた。

「どうしたの?」

「実は先生に送った写真に写っていた女の子は弟の同級生で、例の廃屋に三人の友だちと行ったらしいのだけれど……」

 そう前置きをすると、茅野は吉成鈴が例の廃屋で体験した事と、その後の偽薫騒動について九尾に語って聞かせた。




 茅野が話をしている間、九尾の注文したナポリタンセットを持って、桜井がやってきた。

 九尾はナポリタンや付け合わせのミニサラダを食べながら、茅野の話に耳を傾ける。桜井は配膳が終わると、レジの応対や空いたテーブルの後片付けなどをテキパキとこなす。そうこうするうちに店内に残った客は茅野と九尾だけになっていた。

 そして、九尾がナポリタンを食べ終わり、桜井がセットメニューの珈琲とカップケーキを持ってやって来た頃合いだった。茅野が一連の経緯を語り終える。

「なるほど……『願いを叶えよう』ね」

 と、いつになく真面目な顔で九尾は珈琲をすすった。

「その何とかボックスから聞こえた声も、そのお婆さんの仕業?」

 桜井の質問に九尾は首を振った。

「違うと思うわ。そもそも、その声の主が何かの形で彼女の願いを聞き入れたのだとしたら、彼女に何らかの霊的な痕跡が表れるはずよ。循ちゃんからもらった写真の彼女には、そうした兆候が見られなかったわ」

「つまり、薫と親しくなりたいという吉成さんの妹の願望が形だけでも叶った事に、霊的な因果関係はないという事なのかしら?」

 茅野の言葉に、九尾は「そういう事ね」と言って、ミニカップケーキの上に載ったシロップ漬けの苺を摘まもうとした。

 しかし……。

「あれ?」

 苺がない。いつの間にか消えていた。

「どしたの?」

 桜井が尋ねると九尾は首を傾げて答える。

「カップケーキの苺が……」

「えっ、なかった? そんなはずないんだけどなあ……」

 桜井も首を捻る。九尾はカウンターや床を見回すが、苺はどこにも見当たらない。

「もしかして、持って来るときに、どっかに転がって落としたのかな? 別なの持って来るよ」

 そう言って厨房の方に戻りかけた桜井を九尾は「いや、大丈夫」と言って引き留め、店内奥の四人掛けのテーブルにちょこんと腰をおろした白い和服姿の少女をめつけた。

 その少女の姿は桜井も茅野も見えていない。この店に住まう座敷わらしのチョウピラコであった。

 チョウピラコは、まるで九尾を煽り立てるように、ぺろりと舌を出して口元を舐め回した。明らかに苺消失の犯人はこいつであった。

 チョウピラコの存在は、この店に入ったときから気がついてはいた。これほど霊格の高い座敷わらしにお目に掛かるのは初めてでかなり驚いたが、桜井と茅野に気づかれればきっと面倒臭い事になると考えて、ずっと気がつかない振りをしていたのだ。もっとも、二人はチョウピラコが店に居着いている事は知っているのだが。

 それは兎も角として、なぜかチョウピラコの方からやたらと九尾に絡んでくる。来店のたびに何か一つは他愛のない悪戯を仕掛けてくるのだ。

 ……もしかして、チョウピラコに舐められているのかもしれない。

「どったの? センセ」

 桜井が心配そうに九尾の顔を覗き込む。九尾は「いや、別に……」と首を横に振る。

 そこで、思案顔の茅野が声をあげた。

「兎も角、九尾先生の見解を加味すると、例のスピリットボックスから聞こえた声は心霊ではない可能性もあるわね」

 桜井が小首を傾げる。

「そもそも、スピリットボックスってどういう仕組みなの? 本当に霊の声が聞こえるの?」

「あれは、実はラジオと変わらないものよ」

「ラジオ?」

 桜井の言葉に茅野は頷く。

「あれは、特定の範囲で受信周波数をザッピングしながら周辺の電波を拾っているだけよ。時おり一瞬だけ同調した電波の音声が繋がって何か意味のある言葉のように聞こえるだけね」

「うーん……」

 と、桜井は少しだけ考え込むと再び口を開く。

「つまり、テレビで例えると、チャンネルを一定のテンポで変え続けているだけって感じ……?」

「だいたい、そんな感じね」

 と、茅野が言うと九尾が補足を加える。

「まあ、循ちゃんの言う通りで間違いはないけど、心霊スポットで使った場合、まれに霊の声を拾える事はあるわ。ただ、それも霊の方から干渉しようという意思がある場合ね」

「つまり、スピリットボックス自体の仕組みはいっさい関係ないっていう事かしら?」

「そうね。あくまでも“相性”と向こうの意思次第ね」

 その九尾の答えを聞いて、桜井が眉間にしわを寄せながら声をあげた。

「じゃあ、吉成さんの妹ちゃんたちが聞いた『願いを叶えよう』という声は、スピリットボックスが偶々拾った周囲の電波に載った音声が繋がって、そういう風に聞こえたって事? それで偽物のカオルくんの件は完全に別件?」

「今のところは、そうとしか思えないけど」

 と、茅野は慎重な口調で言った。

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