【08】濡れ衣


 いったんリビングを後にした茅野循を待つ間、吉成鈴は、あまりの緊張と不安で遠退きかける意識を繋ぎ止めるのに必死だった。

 更に茅野姉弟の会話にあった“梨沙”という名前。その名前が出たとたん薫は顔を真っ赤にして動揺していた。


 ……梨沙って誰なんだろう。


 薫に訊いてみればいい。しかし、その質問を発した瞬間、自分の中で決定的な何かが終わってしまうような気がして、鈴は黙るしかなかった。

 そこで突然、薫がソファーから腰を浮かせる。

「……ちょっと、珈琲でも入れるよ。姉さんの分も。吉成さんは、砂糖とミルクは?」

「あ……えっと、お願いします」

 鈴は背筋を震わせながら視線をあげた。

「砂糖は一つでいい?」

「うん」

 と、頷くと薫は「ちょっと、待ってて」と言って、キッチンの方へ姿を消した。




 茅野循がリビングへと戻ると、ちょうど珈琲を煎れ終えた薫がキッチンから姿を現したところだった。彼女はそのまま吉成鈴の正面に腰をおろし、手に持っていたスマホをローテーブルの上に置いた。薫はお盆のカップを配った後で再びソファーに腰をおろす。

 それから、三つの角砂糖を投入した珈琲カップをスプーンでかき混ぜながら、茅野が話を切り出す。

「……で、どういう事なのかしら?」

 すると、吉成鈴が「……ちょっと、どこから話せば良いのか解らないのですが」という、良く耳にする前置きを挟んで、九月二十四日の放課後に鉄砲坂の家で体験した出来事と、その夜に薫から告白を受けた事を語る。

「……それで、あのスピリットボックスから聞こえてきた声が、私の願いを叶えてくれたんだって……」

 そこで茅野は特に茶化すような事はせずに真剣な表情で、自らの弟に問うた。

「……で、薫。彼女の今の話は本当なの?」

 薫は首を勢いよく左右に振った。

「違うよ。そもそも、彼女の事は今日の今日まで名前も知らなかったし」

「そうなんです! 今日、茅野くんに確認してもらったんですけど……」

 メッセージアプリのアドレスや電話番号は茅野薫のものとまったく別だったらしい。

「でも、電話での声は、どう考えても薫くん本人でした」

 茅野は思案顔で口元に指を当てる。

 そこで、鈴は気まずそうに薫の表情をうかがったあと、覚悟を決めた様子で口を開いた。

「それで一昨日の夜、私、茅野くんをデートに誘ったんです。ちょうど、茅野くんが見たいって言っていた映画があったから」

「どんな映画を観に行くつもりだったのかしら?」

「え? 『君の瞳が問いかけてる』っていう……」

 茅野がスマホを手に取り素早く検索する。

「恋愛映画ね。因みに薫はこういうのより、マーベルとかの方が好きよ」

「姉さん、今はそんな事はどうでもいいんだよ」

 その弟の突っ込みに対して特に取り合わず、茅野は鈴に話を促す。

「それで、デートの待ち合わせに現れたのは誰だったのかしら?」

「それが、ずっと待っていたんですけど、茅野くん、来なくって……」

 この藤見市には映画館はないので、中学生が映画を観るとなると、電車で県庁所在地まで行かなければならない。そのため、待ち合わせ場所は藤見駅だった。十四時の上映回で鑑賞する予定だったので、移動時間を考えると十三時前の電車に乗らなければならない。

 しかし、薫は予定の電車時刻に来なかったのだという。そして、とうとう映画の公開時間になり、そのあとも鈴は待ち続けたのだという。何度も連絡を取ろうとしたが音沙汰はなかった。

 そのまま、五時間ほどが経過しても状況は変わらず、彼女はとうとう泣き出してしまったのだという。

 すると、そこに偶然通り掛かったらしい、文野良根に声をかけられたのだという。

「良根は同じ美術部の親友で……彼女に泣いている理由を尋ねられたので、彼女に薫くんと内緒で付き合っている事や、初めてのデートをすっぽかされた事を洗いざらい話しました」

「そう。それで?」

 茅野は冷静な表情で言い、珈琲カップを持ちあげる。すると、今度は薫が口を開いた。

「それで、今日の朝なんだけど……文野さんが僕のところにやって来て、問い詰められたんだ」

 そう言って彼は、今朝の出来事を語り始めた。




 その日も茅野薫は学校に登校すると、先に教室に着いていたサッカー部の喜多の机を囲んで、同じくサッカー部の南を交えて雑談に興じていた。

 話の内容は実にくだらないもので、年頃の男子が日常的に交わす冗談の類いであった。

 そうこうする内に早朝の閑散とした教室内は、登校してきた生徒たちの姿が増えて行き、ざわめきに満たされていった。

 そんな中だった。喜多がいつものように馬鹿な事を言っておどけ、南が冷静に突っ込んだ瞬間だった。

 薫は肩を掴まれて、無理やり振り返らせられた。直後、響き渡る怒気を強く含んだ声。

「ちょっと! どういうつもりなの!?」

 文野良根である。その彼女の後ろには泣きそうな顔の吉成鈴が立っていた。

「いったい何なの? 突然」

 と、薫が尋ねると、文野は右手を振りかぶり、平手打ちをしようとした。その手首を咄嗟に掴んだのが喜多である。

「……いくら女子でも、相手の話をろくに聞きもしないで暴力ってのはなしだろ」

「五月蝿い! あんたには関係ないでしょ! この子の気持ちをもてあそんだこいつが悪い!」

 文野が喚き散らす。

「あんたから、告白してきたんでしょ!? それなのに、学校では秘密にしていようとか、この子と付き合っている事を周りに知られるのが、そんなに恥ずかしいの? 昨日のデートだってすっぽかして、何時間も彼女を待たせて!」

「は? ちょっと、本気で何の事か解らないんだけど……」

 焦る薫。すると、そこで南が冷静な口調で教室内を見渡して言った。

「……取り敢えず場所を変えない? 何かセンシティブな話題っぽいし」

 気がつけば教室にいる全員の目線が薫たちに集まっていた。しかし文野は引き下がらない。

「……そうやって、都合が悪いからって誤魔化そうとして」

 そこで鈴が涙混じりの声をあげた。

「良根ちゃん、お願い……」

 これで、ようやく冷静に返った文野は場所を変えて話し合う事を了承する。五人は人気ひとけのない家庭科準備室へと向かった。

 

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