【03】初カレ


『もし、鈴?』

 茅野薫の声で呼ばれた自分の名前を耳にした吉成鈴は、途端にその表情をほころばせた。

「もう! 遅い。遅刻! 薫くん。二時の約束でしょ?」

 すると、笑いながら反駁はんばくする薫の声が返ってくる。

『遅刻って、一分しか過ぎてないじゃん』

「一分でも、遅刻は遅刻! 私は薫くんと、早くお話したかったのに……」

 鈴はごろりと身体を横に回転させて仰向けになると、両足をパタパタさせながら頬を膨らませた。すると、受話口の向こうから薫の真剣な声がした。

『ごめん、鈴。傷つけたのなら謝るよ』

 すると、鈴は途端に慌てて早口でまくし立てる。

「ごめん、今のは冗談だから! 私は、こうして今日も薫くんの声が聞けるだけでも、とっても嬉しいから……だから、そんなに真剣に謝らないで」

『うん。そっか。でも、明日からは、一分……一秒でも、遅れないようにするよ。僕だって、早くこうして鈴の声が聞きたかったからさ』

「薫くん……」

『鈴』

 そこで、緩やかな優しい沈黙が舞い降りる。

 鈴はしばらくの間、この幸せを無言で噛み締めてから話を切り出した。

「ねえ、薫くん?」

『何? 鈴』

「やっぱり、私、学校でも薫くんと、一緒にいたいよ。こうやって、お話もしたい……」

『鈴……』

「今のままの関係だと、ちょっと切ないよ……」

『鈴の気持ちは解るし、俺も同じだ。もっと、鈴と一緒にいたいし、言葉も交わしたい』

「だったら……!」

 鈴の表情が期待に満ち溢れる。しかし、受話口の向こうから聞こえてきた返事は無情なものであった。

『でも、駄目だ』

「薫くん」

『僕と鈴が一緒にいるところを他の女子が見たら、きっと、良いようには思わない。もしも、それで鈴が孤立したり、虐めを受けるような事になったりしたら……』

 茅野薫はサッカー部のエースで、藤見第一中学の女子の憧れでもある。彼に想いを寄せる者の中には、権力を持ったスクールカースト上位の女子もいるのだという。

 対する吉成鈴といえば、スクールカースト最下位の冴えない存在でしかない。

『僕は、鈴を……お前を守りたいんだ』

「薫くん……」

 やっぱり、私の彼氏はすごく優しい。

 吉成鈴が髪型を変えたのも、今まで着たこともないような服を買って貰ったのも、すべて大好きな彼の好みに合わせての事であった。




 吉成鈴は大人しい性格で、見た目も地味だった。

 彼女の事を可愛いなどと言ってくれるのは姉の愛美ぐらいなもので、成績の方も中の下ぐらいと目立たない存在であった。

 そんな彼女の学校での居場所は美術室だった。 

 美術部に所属している鈴は、いつも放課後になるとグラウンドに面した窓際にイーゼルを立てて筆を走らせる。

 もちろん、お目当ては、グラウンドで日夜練習に励むサッカー部の茅野薫だ。

 彼女も多くの女子と同じように、薫に対して年相応の淡い恋心を懐いていた。しかしながら、自分が前述の通りの人間である事を深く自覚していた鈴は、その想いを胸の奥にしまい込み、彼の姿を目で追う事しかできなかった。

 自分などが恐れ多い。

 こうして、窓際で遠く離れた場所に存在する彼の姿を横目に、空想で満たされない想いを慰めていられるだけで充分だ。

 そう考えて、無理やり自分を納得させていたが、時おり、いつか必ず訪れる別れの瞬間が頭を過り、彼女をさいなんでいた。

 それは、このまま中学を卒業し、唯一無二の彼との繋がりであった“同級生”という属性すら失ってしまう事や、彼が別な女のものになってしまう事であった。その瞬間を想像するだけで胸が張り裂けそうになった。

 そうした暗い未来の予兆と甘い空想の間で己を行き来させる彼女であったが、その不安定ながらも平坦な日々は唐突に終わりを告げる事となる。




 事の発端は、二〇二〇年の九月二十三日水曜日の放課後であった。

 その日、吉成鈴は美術室へと向かう。

 彼女は三年生で受験生であったが、時おりデッサンや簡単なスケッチを行い、勉強の気分転換を図っていた。この日も同じ部の友人と、美術室で待ち合わせて一緒にデッサンをする予定になっていた。

 鈴が美術室に入ると、中央の席の周辺に三人の部員が集まっているのが目に映った。

 彼らは三人とも同学年で美術部の中でも、イラストや漫画を描いているアニメ好きのグループであった。その手の事にうとい鈴とはあまり接点のない者たちばかりである。

 いつもは挨拶もそこそこといった感じなのだが、この日は教室後方の入り口から中に足を踏み入れたと同時に、その中の一人が興奮した様子で話し掛けてきた。

「あっ。吉成さん、ちょっと、これ見てよ!」

 そう言って手招きをするのは、ぽっちゃりした体型に腰まで伸びた長い黒髪の女子だった。

 名前を伊勢島萌乃いせじまもえのという。鈴は良く知らないのだが、どうやら腐女子でBLをたしなんでいるらしい。

 そんな彼女の言葉に、どこか小馬鹿にしたような声をあげたのは、岩石のような顔面の体格の良い男子であった。

「……別に凄くねーだろ。こんなの、インチキだろ」

 彼の名前は武隈陽史たけくまようじ

 『ガンダム』だとか『エヴァンゲリオン』みたいなロボットアニメを好んでいる。しかし、以前『エヴァンゲリオン』をロボットアニメ扱いした事に軽くキレられた事があり、それ以来、鈴は彼の事が苦手であった。

 その彼の言葉に伊勢島が唇を尖らせる。

「でも、さっき、本当に人の声みたいなのが聞こえたでしょ? 武隈くんもびっくりしてたじゃん」

「だから、あれは……」

 と、武隈が何かを言い掛けたところで鈴は三人の元に近づく。

「いったい、何なの?」

 すると、小柄で丸々と膨らんだ蟇蛙ヒキガエルのような男子が近づいて来る鈴に向かって、自分の右手にあった奇妙な装置を掲げて見せた。

「これ、面白そうだったから、親に頼んで買ってもらったんだ」

 それは、鈴の使っているスマホよりも一回りくらい小さな長方形で、上部には銀色の正方形の枠があり、その中にオレンジ色の横に長いディスプレイがあった。

 そこには何らかの単位と思われるアルファベットと、数字が幾つか並んでいて、ディスプレイの下部には小さなボタンがあった。

 ボタンは全部で八個。四つずつ横に二列。

 更にその下部には丸いスピーカーと思われる部分がある。

 そして、装置の右上には折り畳まれた銀色のアンテナがついており、いっけんすると古いガラケータイプの携帯電話にも見えなくはなかった。

「それ、何?」

 鈴が尋ねると、蟇蛙のような彼――久保多喜男くぼたきおは、ニヤリと唇を意味深に歪めて言った。

「これは、スピリットボックスっていう幽霊の声が聞ける機械さ」

 彼はいつもオリジナルの美少女キャラのイラストばかり描いているがデッサンが苦手らしく、その作品には常に不安定な歪みがあった。

 そんな彼の手の中にある装置を見つめながら、鈴は言葉を発した。

「幽霊……?」

「そう。幽霊」

 久保は、その言葉を繰り返した。

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