【11】深淵を覗く者


 荒井陽希子が榊原瑞江を覗いていたように、榊原瑞江もまた荒井陽希子の事を覗いていた。

 二〇二〇年四月五日の二十三時頃、日課となっていた旦那への罵倒を自室で吐き出していると、隣の荒井某がこちらを覗いているのを目にする。

 荒井某は目が合いそうになると、すっと窓の奥へと姿を消した。

 瑞江は歯噛みして悪態を吐く。

「何だっていうの!? 社会不適合者の癖に!」

 あの荒井某が、ずっと左向かいの部屋にいる事は知っていた。近所ではある程度、よく知られた話だったからだ。

 引きこもり。

 人生の落伍者。

 今はまだ子供だからいい。大人になったらどうするつもりなのか。親がいなくなったら、どうやって生きて行くつもりなのか。

 引きこもりで社会経験も学歴もない非力な女一人がまともな人生を歩める訳がない。

 部屋に閉じ籠っていては、養ってもらう結婚相手を見つける事も難しい。

 男ならネットで見つける事はできるが、けっきょく部屋を出て直接顔を合わせなくてはならない。

 よしんばそれができたとしても、男の興味を上手く惹く事ができるのか。

 自分をよく見せるためのファッションはどうだろう。メイクの仕方は知っているのだろうか。まともな会話はできるのだろうか。

 部屋に籠ってばかりいては解らない事など沢山ある。

 きっと、あの荒井某は何もできない。甘ったれて、ぬるま湯を張った湯船のような部屋の中にいるしかない。

 あの少女は自分より・・・・・・・・・も下だ・・・

 結婚を焦って、ろくでもない男に嫁いでしまった自分よりも惨めな人間だ。

 榊原瑞江もまた、荒井陽希子を見下していた。

 しかし、この日、榊原瑞枝は向こうも自分を覗き見ていた事を初めて意識した。

 自分もまた見下されていたのだ。あんな人生の落伍者に。引きこもりに。甘ったれた糞餓鬼に……。

 このとき、瑞江の中で渦巻いていた怒りは頂点に達した。

 それも、これも、あの男のせいだ。こんな惨めな思いをしなければならなくなったのもATMの分際で偉そうにしているあの男のせいだ。

 このときの彼女は完全に冷静さを失っていた。

 瑞江はリビングに向かうとソファーに腰を埋め、赤ワインのグラスを片手に、蓄音機から流れるモンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』に耳を傾ける秀二の姿があった。

 目を閉じて恍惚こうこつとした顔をしており、瑞枝には気がついていない。

 瑞江はいったんキッチンへと向かうと、ミートハンマーを握り締め、秀二の後ろに立った。

 しばらく、そのまま、禿げあがった頭頂部を見下ろしていると、そのとき流れていた詩篇が終わりに近づく。

 秀二が赤ワインのグラスを口に含み、桃花心木マホガニーの応接卓にグラスを置いた。すると、そこで、彼はようやく背後で佇む妻の存在に気がついたらしい。

 驚いた様子で腰を捻り背後を振り向こうとした。

「何だ、お前」

 その“え”の音と同時だった。瑞江はミートハンマーを秀二の側頭部に目掛けて力一杯振り抜いた。

 この一撃で、彼女を苦しめていた暴君はあっさりと息絶えた。




 しばらくは達成感と高揚感に包まれていた瑞枝であったが、次第にとんでもない事をしてしまったという後悔の念が込みあげてくる。

 取り敢えず、目の前に転がった夫の死体をどうにかしなければ……。

 しかし、例え夫の死体を原型が解らなくなるぐらい細切れにできたとしても、そのあとはどうするというのか。

 資産家の旦那が失踪した場合、最も疑われるのはその妻だ。

 瑞江が金目当てだと看破していた秀二の友人知人。そして、玉の輿に乗った事を嫉妬していた瑞枝の友人知人。

 敵はたくさんいる。それらすべてから疑惑の目を向けられる。

 では事故に見せかけるか。それも同じ事だ。何にせよ疑われる。そして、その疑惑は真実なのだ。いずれは露見する。

 そうなってしまえば、人生の成功者から金目当てに旦那を殺した毒婦に転落してしまう。

 では、どこか遠くへ逃げるか。

 しかし、そこで瑞江の脳裏に過ったのは、幼き日の祖母の記憶である。

 ここで、また薔薇の世話をできなくなって枯らせたら、もっと悪い事が起こるかもしれない。せめて、できるだけ多くの薔薇をドライフラワーにして持っていきたい。しかし、そんな悠長な事をしている余裕はないのだ。

「あああああ……」

 瑞江は頭を抱えながら意味のない叫び声を吐き散らし、檻の中の動物のようにリビングを彷徨き回る。

 やがて蓄音機にセットされていたレコードが終わりに近づいた頃だった。

 彼女の脳裏にとうていまともとは言えない悪魔の天啓が訪れる。

 薔薇の世話もできて、身を隠す事のできる場所ならすぐ近くにあるではないか。

 元々はこんな事になったのは、彼女が切っ掛けなのだ。ならば、良いのではないか。

 榊原瑞江は荒井陽希子を殺す事にした。




 瑞江はまずスマホを部屋着のポケットに入れて、裏口の納戸に収納されていたビニールロープを適当な長さに切り分けた。そして、外に出ると物置小屋から梯子とマイナスドライバーを取り出し、ガレージの屋根に登った。

 ガレージの屋根をつたえば、陽希子の部屋の窓まで簡単に手が届く。

 瑞江の自室からは、荒井家の二階への階段と裏手を横切る廊下の端がわずかに見える。それゆえに陽希子が部屋の外に出てトイレや入浴へと向かうところを目にした事があった。その隙をついて部屋に侵入する。

 チャンスを待つ間は、“こじ破り”の実演動画を繰り返し見て、やり方を確認する。

 “こじ破り”とは空き巣が使う窓硝子を割る方法の一つである。

 ドライバーなどで窓硝子を突いてひびをいくつか入れて、手が入る程度の穴を空ける。意外と大きな音が出ずに、短時間で簡単にできる事から空き巣の侵入方法としては、かなりポピュラーなものだったりする。

 とうぜんながら、表の路地を誰かが通り掛かれば、ガレージの屋根で動画を観賞している彼女の事を不審に思う事だろう。

 しかし、時刻は既に二十四時を回っており、辺りは静まり返っている。

 そして、幸運な事に、あるいは不幸な事に、ガレージの屋根でうずくまる彼女の姿を誰も目撃する事はなく、そのときはやって来る。

 微かに室内から聞こえた扉の開閉音のあと、瑞江は立ちあがり、窓枠のクレセント錠の近くにマイナスドライバーを突き立てた。一撃でひびが走り、もう一回、別な場所にマイナスドライバーを突き立てる。

 ガシガシと音は鳴るが、それほど大きなものではない。しかし、瑞江の心臓は早鐘を打つかのようなリズムで鼓動し始める。やがて、頑強に見えた窓硝子から二等辺三角形に近い形の硝子片が室内の方にポロリと落ちた。

 その穴に手を突っ込み、窓を開ける。室内に侵入すると、ビニールロープを手に握り、扉の陰に隠れた。

 すると、その直後に扉が開いて、荒井陽希子が帰還する。

 この数分後、部屋の主は、別人へと入れ替わる事となった。

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