【10】薔薇の意味
外へ出ると、遠くの空がほんのりと黄昏色に染まっていた。電線に止まった鴉が一声鳴き、腐乱死体の眠る空き家の表門から何食わぬ顔で外に出ようとしている桜井と茅野を見下ろしていた。
二人は門を出てガレージの前で立ち止まり、荒井陽希子の部屋の窓を見上げた。
「……見て、梨沙さん。あの窓際に吊るされているのは、薔薇の花冠よ。古来から薔薇には邪悪なモノを退ける力があると云われているわ」
「ふうん」
桜井が二階の窓を見あげたまま、気のない返事をした。茅野は構わず話を続ける。
「カトリック教会の神父が持っているロザリオってあるでしょう?」
「あー、あの十字架のついたペンダントみたいなやつ?」
桜井の言葉に首肯を返す茅野。
「ええ。そのロザリオの語源はラテン語で“ロザリウム” 薔薇の花冠という意味よ」
「あー、じゃあ、あれのせいで」
桜井が得心した様子で頷く。
「そうよ。恐らく、榊原邸で死んでいた二人が荒井家に怨みを向ける事しかできなかったのは、あの薔薇の花冠のお陰なのではないかしら?」
「あー、薔薇もけっこう香りが強いしね。対心霊の効果が高いのかも」
桜井と茅野は、これまでのスポット探索で、香りの強いものはだいたい心霊に強い事を理解していた。
「そして、あの棚の薔薇も恐らく地下室の二人を封じ込める意味があったのではないかしら?」
「なるほど」
「犯人の動きは恐らく、こうよ」
そう言って茅野は再び歩き出して荒井家の玄関前に向かう。
「最初は榊原邸のどこかにあった本棚で、あの地下室の入り口を隠そうとした。あの棚は大きいけれど組み立て式だから、いったん分解してしまえば一人でも作業はできるわ」
「うん、そだね」
二人は荒井家の表門を通り抜ける。
「……しかし、何かの切っ掛けがあり、犯人はあの地下室の二人が自分の元にやって来る事を極度に恐れた。だから、棚に収まっていた本を除けて、代わりに温室から摘んだ薔薇をあの棚に置き、防御壁を作りあげた」
「なるほど」
と、桜井が相づちを打った。
二人はアプローチを渡り、風除室の扉を開ける。
「恐らく、犯人に心霊的な知識があったというより、経験から薔薇の花が
茅野はそう言うと、扉の横の呼び鈴を押した。
すると、数日前と同じように荒井富子の足音が聞こえて扉が開かれた。
陽希子の母親である富子は、高阪がいない事を不思議がったが、茅野が真剣な顔で「陽希子さんに大事な話がある」というと、快く二人を家にあげてくれた。
一階で待っているようにと富子に頼んで、桜井と茅野は二階へと続く階段を登った。そして、陽希子の部屋の前に立つと、茅野は何の
後ろに控えていた桜井の顔を見て、茅野は一つ頷くとドアノブをそっと捻った。一気に開けると、茅野は扉の陰に隠れ、桜井が部屋の中に踏み込んだ。
すると、室内には榊原邸の地下とは対極にあるような、薔薇の香りが充満していた。それもそのはずで、天井付近には何本かの洗濯紐が張られ、そこには無数の薔薇の花が逆さに吊るしてあった。ドライフラワーを作っているらしい。
他にも箪笥や床、机の上など、いたるところに薔薇のドライフラワーが咲き乱れていた。
あまりの異様な光景に桜井と茅野は息を飲む。
すると、部屋の左隅のデスクトップに向き合って背を向けていた部屋着姿の人物がヘッドセットを頭から外して椅子から立ちあがり、振り向いた。
ずいぶんと背が高い。茅野と同じか、それ以上はありそうだった。
どうやら、鍵が掛かっていたはずの扉を開けて、とつぜん室内に姿を現した桜井に戸惑っているらしい。
口を半開きにしながら瞬きを繰り返している。
その彼女の顔を見て、桜井は首を傾げた。
「陽希子さん……じゃないよね?」
桜井は荒井陽希子の顔を知らなかった。しかし、それが彼女ではない事は一目で解った。
桜井の背後で茅野が声をあげる。
「
「彼女こそ、お隣の榊原さんよ」
その声を聞いたとき、榊原瑞江はすべてを悟った。ぜんぶバレてしまったのだと。
このまま、ずっと、この部屋で引きこもり生活を続けられるなど、そんな虫のいい話などあり得ない事は理解していた。
しかし、どうしても、次への行動を起こす事ができなかった。
徒労と絶望。
それを乗り越えたところで、安全な未来の保証など欠片もないのだ。ならば、このままでいいのではないか。
そうやって問題を先送りにし続けるうちに数ヵ月も経っていた。
そして、ついに動かざるを得ないときがやってきてしまったのだ。
どうするべきか考えあぐね、凍りついていると目の前の小柄な少女が首を後ろに向けて、部屋の外にいる誰かに向かって声を発した。
「でも、なら、陽希子さんはどこに行ったのさ?」
「あの地下室の死体の方が陽希子さんよ」
その言葉が終わらぬうちに、榊原瑞江は小柄な少女に向かって、両腕を伸ばしながら突進していた。
大丈夫。まだ何とかなる。挽回できる。
この小柄で非力そうな少女を制圧して人質に取り、どこか遠くへ逃亡する。
金ならある。死んだ旦那の金が。どこか海外の誰も知らない場所へ逃げる。
薔薇の花は、諦めるしかない。ただ、あの窓際に吊るしていた薔薇冠だけは持っていく。ずっと大切にしていたものだからだ。
逃げて、逃げて、その先でまた新しく薔薇を育てるしかない。そうすれば、きっと、幸せになれる……。
少女はまだ後ろを向いている。
瑞江は少女へと両腕を伸ばした。その首を掴もうとした。しかし、彼女の両手の指先は、虚空を引っ掻くのみだった。
「えっ」
次の瞬間、脳を揺らす衝撃。
死角から超高速で飛んできたバックハンドブローが、榊原瑞江の顎先を的確に打ち抜いた。
彼女は意識を失い、膝から崩れ落ちた。
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