【09】隠された部屋


 緊急事態宣言下の四月十二日の事だった。

 水原瑠美みずはらるみの自宅の電話に、姪の友人であるという女から連絡があった。

 どうやら、姪の瑞江とは学生時代の友だちらしい。彼女いわく、瑞枝と一週間ほど連絡が取れないのだという。

 メッセージを送っても反応はなく、電話をかけてみても出ないらしい。思い切って自宅を訪ねてみるも人の気配はなく、留守のようだったのだという。

 何か心当たりはないかとの事であったが、水原にとっては寝耳に水であった。

 取り敢えず、自分の方からも瑞江に連絡を取ってみる事と、何か事情が解り次第、折り返し連絡する事を約束し受話器を置いた。

 すぐに姪のスマホに電話をかけるが、話にあった通りで留守電に繋がってしまう。本人が出る気配はない。

 そこで、水原は思い出す。姪がそもそもあまり電話に出ようとせずに、用件は何でもメールで済ませようとする事に。

 水原は受話器を置いて、友だちが心配していた事と、必ず連絡を返すようにと書いたメールを送った。

 すると、その日の夜、姪から折り返しのメールがあった。

 それによると瑞江は現在、旦那と一緒に長野の山間の別荘に滞在しているのだという。

 コロナウィルスの感染対策に、しばらくは人気ひとけのない場所で過ごすようだ。

 くだんの別荘は電波の繋がりが悪く、このメールも町に買い物にきたついでに送ったのだという。

 何と人騒がせな事か。

 水原は呆れつつ、返信のメールに『友人や知人にはしっかりと連絡しておくように』と書き記した。

 そして、ふと榊原邸にあった温室の事を思い出す。

 瑞江の保護者であった水原は、とうぜんながら彼女が薔薇の花に並々ならぬ拘りを抱いている事を良く知っていた。

 メールに『薔薇の世話は大丈夫? 何なら私が様子を見に行ってあげようか』としたためて送信した。

 すると、すぐに姪から以下のような返信がくる。

 『必要ないよ。薔薇はけっこう丈夫だから。それに温室の管理は他の人に頼んである』

 そう言われては納得する以外になかった。

 そのあと水原は『なら良いけど、横着しないで電話してきなさい』と返信を送った。

 しかし、それ以降、姪からの返事がくる事はなかった。


 


 リビングは仕切り棚の向こうにあった。

 天井には数十万はしそうなクリスタルのシャンデリア。中央には桃花心木マホガニー製のフレンチ風応接セットが鎮座していた。

 その他にもサイドボードや蓄音機などのアンティーク調の家具が並び、壁には前衛的な抽象画の額縁がいくつか掛けられていた。床には値段を想像するだけでうんざりしそうな絨毯じゅうたんが敷かれている。

 しかし、そんな事よりも目についたのは、キッチンから向かって左手の壁際にある棚だった。

 どこかの事務所にあるような何の変哲もない組立て式のスチール製のもので、高さは二メートル近くあった。この豪奢ごうしゃな部屋には、明らかに似つかわしくない。

 そんな事よりも奇妙だったのは、棚のすべての段に干からびたピンク色の薔薇が大量に納められていた事だった。そして、そこから少し離れた位置に、辞書やハードカバーの書籍、ビジネス書などの平積みの山がいくつかあった。

 二人は、その棚へと近づいて行く。

「この本、もともと、この棚に置かれていたものかしら? 本を除けて、代わりに薔薇を置いた……?」

 茅野が平積みの本を見て言った。すると桜井が難しげな表情で腕を組み合わせる。

「……本当に、お金持ちの考える事は良く解らないね」

「そうね」と、桜井の言葉に返事をすると、薔薇の花を一輪だけ摘まんで鼻先に近づける。

「ロサ・ケンテフォリア……一季咲きのオールドローズね。温室にもあったわ」

 そう言って、再び薔薇を戻し、今度は棚とその周囲を観察し始めた。桜井はスマホで棚の写真を何枚か撮ったあとは、邪魔にならないように少し下がったところで茅野を見守る。

 すると、早々に茅野が棚の前方を指差して声をあげた。

「梨沙さん、これを見て頂戴ちょうだい

「どれ」

 桜井が茅野の指の先を覗いた。

 しかし、彼女には特に変わったものは発見できなかった。

「何なの?」

 と、聞き返すと、茅野が床から目を離さずに口を開いた。

「ここ、何か飛び散ったあとがあるわ」

「そう言われてみれば、うっすらと」

 桜井は目を細めて、その部分を凝視ぎょうしした。

 すると、茅野が応接セットの方を指差して言う。

「たぶん、ちょうど、あっちから何かが飛んできて、ここで落下した」

「あー」

 桜井が得心した様子で頷く。茅野は更に話を続ける。

「それで、ほら……」

 再びうっすらと染みの残った絨毯の上を指差した。

「その飛沫しぶきが、棚の下敷きになって途切れている」

「……つまり、どゆこと?」

「まだ解らない。でも、取り敢えず、この棚は本来、ここにあるべきものではなかったという事よ」

「あー、なるほど。じゃあどかしてみよう」

 桜井はそう言うと棚の縁を持って、壁際から引きずるようにして移動させた。

 すると、棚の裏側から扉が現れたではないか。

「うおっ。隠し通路だ!」

 桜井が瞳を輝かせる。そして茅野は満足げに頷いた。

 扉は壁から数十センチほど奥まった位置にあり、その前に棚を置くと、すっぽりと隠れてしまう。

「……謎の答えは、この扉の向こうにありそうね」

 そう言って、茅野は扉の鍵を開けに掛かる。すぐ開いた。説明の必要がないほどあっさりと。

 桜井が茅野と場所を代わり、ドアノブを捻って押し開ける。

 すると、その向こう側には地下へと降りる階段があった。

 二人はヘッドバンドライトを装着すると、慎重な足取りで階段を降りて行った。




 階段の下にも鍵の掛かった扉があったが、茅野によって開かれる。その瞬間、籠っていた腐敗臭が室内から漏れ出した。

 二人は眉間にしわを寄せつつ、扉口の向こうへと足を踏み入れる。

 そこは奥に長い部屋であった。左側の壁際には木製の棚が置かれており、ワインボトルがいくつか並んでいる。どうやらワインセラーらしい。

 そして最奥の壁際の床には、二体の死体が並べてあった。頭を入り口側に向けており、ヘッドバンドライトの明かりで照らすと、無数の蝿たちが渦を巻くように騒ぎ出す。

「でしょうね」

「まあ、そんな気はしていたから、新鮮な驚きはないわね」

 桜井と茅野はそれぞれ感想を漏らして、悠然とした足取りで死体に近づく。

 一人は大柄な男で、もう一人は小柄な女性だった。

 どちらもグズグズに腐っており、蛆虫がいたるところに蠢いていた。周囲の床には黒い染みが広がっており、その中にミートハンマーが一つだけ転がっている。

 男は左の側頭部が不自然に凹んでおり、女の首元には痛々しい索状痕がはっきりと見て取れた。

 性別が解ったのは、身に着けているものからだった。男の方はバスローブのようなものを羽織っており、はだけた下腹部が男性用の下着に包まれていた。女性の方は寝間着姿で上着のボタンの隙間からブラジャーがわずかに覗いていた。

 男は身長が一八〇センチ近くあり、女の方は多めに見積もっても一五〇センチくらいしかない。まるで、昼寝をするゾンビの親子のようであった。

「失踪した夫婦で間違いない? でも、どうしてこんな事に……」

 桜井が神妙な顔で言うと、茅野はあの台詞を口にする。

「梨沙さん」

「何?」

「この家で何が起こったのか、だいたい・・・・解ったわ・・・・

 桜井梨沙は知っていた。

 茅野循の口から、この言葉が出るとき。それは、彼女が本当にだいたいの事を解ったのだという事を。

「取り敢えず、一旦出ましょう」

「警察に連絡は?」

 その桜井の質問に茅野が答える。

「後で良いわ。それより、犯人・・を捕まえる方が先よ」

「おっ。よし!」

 桜井が左の掌を右拳で打ちつけ、小気味のよい音を鳴らす。

 そのまま二人は榊原邸を後にした。

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