【02】婚活女の末路

 

 榊原瑞江さかきばらみずえが夫の秀二しゅうじと出会ったのは、彼女が二十八歳のときで、婚活アプリが切っ掛けであった。

 秀二は十八も歳上で、バツ二というのが気になったが、元商社勤めの投資家で年収も安定していた。

 彼の両親はすでにどちらも他界しており、前妻との間に子供はいない。親戚縁者も県外の遠方に住んでおり、ほとんど付き合いはなく、本人いわく気楽な独り身らしい。

 そもそも瑞江が婚活アプリに手を出した理由は周囲の友人たちがことごとく結婚していって、焦りを覚えたからという理由と、さしたるキャリアもスキルも持ち合わせていない自分の将来に不安を覚えたからだった。

 ゆえに彼女にとって、結婚相手など経済的に安定しているならだれでも良かった。まさに、秀二は彼女にとって理想のATMであった。

 こうして瑞江は秀二と交際三ヶ月で婚約し、その半年後には結婚する事となった。同時に、これまで働いていた県内企業の総務を辞めた。これが二年前の二〇一八年の事である。

 付き合っていた頃の彼は優しく、頼めば何でも好きなものを買ってくれた。自宅の庭にある温室も結婚前に新居を建てるに当たって、瑞江がリクエストしたものだった。

 彼との結婚に関して、周囲の反応はまちまちだった。

 育ての親であった叔母は良縁だと喜んでくれたが、同性の友人知人たちは一様に嫉妬した。彼の友人知人からは金目当てではないかと陰口を叩かれているのを人づてに聞いた。面と向かって嫌味のような事を言われたりもした。

 それは事実であるのだが、そうした嫉妬や疑念の声すら、結婚前の瑞江には耳障りの良い負け犬の遠吠えに聞こえていた。

 自分は人生の勝ち組であり、成功者にしてヒロイン。だから、嫉妬されるのだと。

 周囲からの目線が彼女を更に有頂天にさせていたが、それが勘違いであると気がついたのは、結婚してしばらく経ってからの事であった。

 実は、秀二は猜疑心さいぎしんが強いうえに、釣った魚には餌をやらないタイプであった。更に昭和の男の悪いところを集めたかのような、典型的な亭主関白でもあった。

 瑞江には一切の自由を与えず、彼女は経済的にはもちろん、外出すら制限された。スマホの履歴やキャッシュカードの明細などは常にチェックされ、ささいな事で散々なじられた。

 掃除や洗濯、炊事についても、本人はいっさいやらないわりに、事細かに口を出してきた。

 その癖、外面が気持ち悪いほど良い事も腹立たしかった。

 救いだったのは、秀二本人が出歩くタイプであまり家にいつかなかった事だった。

 彼は瑞江を家庭に縛りつける癖に、連日遅くまで飲み歩き、朝から晩までゴルフで家を空ける事も多かった。

 何度も離婚を考えたが、その後の身の振り方を思うと、とても気力がわかなかった。

 喜んでくれた叔母や、友人知人たちの目線も大きなネックとなった。

 焦って結婚した男が、とんでもないモラハラ野郎であったなどと知れたら、周囲の者たちは自分の事をどう思うだろうか。

 憐れむに違いない。あざけるに違いない。見下すに違いない。そんな転落劇はごめんだった。

 それに、夫が家にいる時間を耐えしのげば、そこまで悪い生活とも言えない事に彼女は気がついた。

 瑞江は元々はインドア派で出歩く方ではなかったし、夫は薔薇の世話に関してだけはあまり口を出して来なかった事も大きい。

 知識不足ゆえに、見当違いの事を言って恥を欠きたくなかったのだろう。そして、外面だけは異様に良い夫にとっても、庭の温室で咲きほこる薔薇は、他者に自らの成功をアピールする大切なステータスとなっていた。

 ゆえに夫が家にいるときは温室に籠っていれば、どうにか彼の横暴をやり過ごす事ができた。

 そんな訳で榊原瑞江は外面のよい夫に倣って、家の外では幸せな振りをし続ける事にした。

 実際に夫との関係以外はすべて幸せだった。

 しかし、コロナ禍になってから、すべてが一変する。

 以前は家に居着かなかった旦那が出歩けなくなり、四六時中顔を付き合わせていなければならなくなった。しかも、彼は自粛生活からくるストレスを瑞江に当たり散らすようになっていた。

 以前がぬるま湯のように思えるほど酷くなじられ、口答えしようものなら「誰が養ってやってると思っているんだ」とか「お前は俺なしでは生きていけないんだから逆らうな」などと怒鳴り声をあげられた。物を投げつけられた事もあった。

 いちばん酷かったのは、ある日の深夜の事だった。

 晩酌中の秀二に呼びつけられてリビングに 行ってみると、どこどこのワインを持ってこいなどと言い始めた。

 逆らっても無意味なので、地下のワインセラーへと向かうと、秀二の指定した銘柄のワインがなかなか見つからない。

 ようやく見つけてリビングに戻ってみると「遅い!」と、怒鳴られてピザを皿ごと投げつけられた。怪我はなかったが、お陰でリビングにあった十万もするベルギー製の高級絨毯に染みができた。

 クリーニングに出せば染みは抜けるが、秀二はそれを許そうとしなかった。

「もたついたお前のせいなんだから、お前が責任を取れ」と命令され、染み抜きをやらされた。

 もちろん、瑞江はクリーニングの専門家ではない。動画を見ながら見よう見まねで、どうにか良く観察しないと解らないレベルまで染みを落とす事ができたが、完全に元通りという訳にはいかなかった。

 ここまで酷くはないが、連日似たような事が続いた。

 それでも瑞江は病禍さえ終われば、また元のような平穏な毎日が戻ってくるはずだと堪え続けたが、コロナウィルスの猛威はとどまるところを知らない。

 メディアの有識者たちが、世界が元通りになるには年単位の時間が必要であるなどと、鹿爪らしく宣っているのを見て、彼女はますます絶望を深める。

 しまいに瑞江の心は崩壊寸前にまで追い込まれてしまう。

 気がつけば無意識に旦那への罵倒が口から漏れてしまう事もしばしばであった。言った後で本人に聞かれやしないかと冷や汗を掻くと同時に、彼の事を恐れている自分自身にも腹が立った。

 そんな鬱憤うっぷんを晴らすために、彼女は二階の自室で旦那への文句を吐き出す事にした。

 檻の中の動物のように部屋を彷徨うろつきながら、旦那の悪口を吐き出すと胸の奥がすっと軽くなって、ほんの少しだけ気分がましになった。

 それは旦那が自らの部屋に引っ込んで寝静まった後に毎日行われる彼女の日課となっていた。

 荒井陽希子が自室から目撃したのは、このときの瑞江である。

 そんな風に、どうにかぎりぎりのところで精神の安定を図っていた榊原瑞江であったが、不意な偶然が重なり転機・・が訪れる事となった。




 ここはどこだ……。


 榊原瑞江は目を醒ますと、一瞬だけパニックに陥る。

 すると、自分がベッドの上に横たわっていた事を思い出し、ほっと胸を撫でおろした。枕が合わないのか寝違えて首が痛い。

 上半身を起こし、首を左手で揉みながらベッドの縁に腰を下ろして何気なく窓の方を見た。

 すると、青白い顔の少女がこちらをのぞいているではないか。

 あの隣の家の少女だ。

 榊原瑞江は恐怖のあまり絶叫した。

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