【10】ずっと忘れていた事
是枝は、まず与し易そうな小柄な少女を標的に選んだ。目つきがぼんやりとしており、いかにも動きが鈍そうに思えたからだ。
しかし、少女はぼんやりとした表情のまま右足を引いて半身になり、あっさりとかわす。そして、ナイフの切っ先が胸元の前を通り抜けた瞬間、その手首を左手で掴んで捻りあげる。
是枝はたまらずナイフを床に落とし苦痛に顔を歪ませた。同時に、その鼻っ柱へと少女の右拳がめり込む。
仰け反る是枝。続いて訪れる腹部への衝撃。少女の拳が
同時に右手首を放され、是枝は
「意識を奪わない程度に加減はしたよ」
小柄な少女がもう一人の背の高い少女に向かって言った。すると彼女は頷いて悪魔のように笑う。
「この二人……」
是枝にも人並み以上に荒事の経験があった。それゆえに、たった今、小柄な少女が見せた動きがいかに優れているのかが良く解った。
最小限の動きで、攻撃の軌道から己の身体を外す。刃物を持った相手の手首を掴んで追撃を防ぐ。そして、すかさず反撃。
ナイフによる攻撃への対応としては完璧であった。それを顔色一つ変えずにやってのけたのだ。とても十代の少女ができる事ではない。
転生の術。
この二人の少女も自分と同じなのだ。
是枝は腹を
もちろん、彼はいろいろと勘違いしていた。
「……お前らも、あの術を」
「は?」
小柄な少女が眉間にしわを寄せる。当然である。もう一人の少女も困惑気味であった。
しかし、そんな二人のリアクションに気がついた様子も見せず、是枝は質問を発した。
「お前らの目的は何だ? 是枝充を探してどうするつもりだ?」
「……私たちは、ただ是枝に聞いてみたいだけよ」
「何をだ?」
「阿武隈礼子と共に両面宿儺を作って何をするつもりだったのか」
「ああ……やはり、そこまで知っているのか」
「やはり?」
背の高い少女が首を傾げる。それを見た是枝は堂々と言い放つ。
「この世に真の平等をもたらす」
「は?」
小柄な少女が困惑したままの様子で声をあげる。しかし、是枝は取り合わず話を続けた。
「そのためには宿儺の持つ力が必要だったのだ。呪いの力ですべてを平らに均す……それこそが、あの方から引き継いだ大いなる悲願だ!」
「まるで、自分の事のように語るのね」
と、背の高い少女が呆れた様子で言った。そして、小柄な少女が続けて質問を発する。
「やっぱ、三億円事件の犯人も是枝なの?」
「そうだ」
と、是枝は頷く。
このとき、彼の心に魔が差した。
目の前にいる二人の少女は是枝充が、あの府中三億円事件の犯人である事を知る数少ない人間である。
にも関わらず、この二人は是枝充が目の前にいる事に気がついていない。それがもどかしかった。
あの世紀の大犯罪を成し遂げたのが自分であると、声高らかに叫びたい欲求が久々に鎌首をもたげる。
そして、この二人も転生の術を用いて肉体を乗り換えた事があるならば、遅かれ早かれ目の前にいる男も同じであると気がつくのではないかと考えた。そこまでいけば、現在の是枝充に行きつくのは容易いと思われた。
ならば、構わないのではないか。
是枝充は不敵に口角を歪めて言葉を発した。
「……お前らの言う通り、あの府中三億円事件の犯人は是枝充で間違いない。そして是枝充は……」
そこで右手の親指で自らの胸元を差す。
「この俺だ」
二人の顔色に
それを目にした是枝は優越感に背筋を震わせるが……。
「えっ」
彼は見てしまった。
小柄の少女の右肩に乗った青白い右腕を。
それは瞬きをした瞬間には既に消えていた。
そこで彼は思い出す。
ずっと思い出せなかった事を――
それは、二〇〇四年。
都内某所のファミレスで、小林美不音の息子と思われていた男児から転生の術の話を持ちかけられたときの事だ。
術を受ける事を了承した後で男児は言った。
「確かに転生の術を使えば、宿儺の呪いから逃れられる。だが、ただ一つだけ注意しなければならない事がある」
是枝は男児に向かって聞き返す。
「注意しなければならない事?」
彼は
「転生したあとに、元の名前を名乗らない方がいい」
「なぜだ?」
「
「ああああ……」
マスクとサングラスに隠された是枝の顔から一気に血の気が失せる。
二人の少女は怪訝そうに顔を見合わせる。
「急にどしたの?」
「何かの発作かしら?」
背の高い少女が框を降りた。
その瞬間、是枝は「ひっ」と短い悲鳴をあげ、尻餅を搗いたまま後退りした。
がしゃん、と音がして背中に玄関の扉板が当たる。
「本当に、何か具合が悪いなら、救急車を呼ぶけれど」
その言葉の直後だった。
左肩の後ろから伸びた真っ白い右手が是枝の喉を握った。背中はぴたりと扉板についており、背後にスペースはまったくない。
「ああああ……助けてぇえ」
是枝の
ほんの不用意な一言ですべてが無駄になった。つまらない承認欲求で台無しにしてしまった。
その徒労と悔恨は日蝕のように彼の心を絶望に染めあげた。
「あああ……やめてくれぇええ……」
喉仏を白い右手が撫で回す。
つるつるとしていて冷たく湿った不気味な肌触りに、是枝は全身の毛が逆立つような生理的嫌悪感を覚えた。
「ゆっ、許してくだ……」
次の瞬間、硬い何かがへし折れる音が鳴り響いた。
玄関扉に背をもたれて腰をおろした男が項垂れている。その首の角度は明らかに異常だった。男のかけていたサングラスが落下して、
「びっくりしたあ……」
彼女や茅野の目には、とつぜん脅え始めた男の首が勝手にへし折れたかのように映っていた。
「……とりあえず、調べてみましょう」
茅野は框から降りると慎重な足取りで、ぴくりとも動かない男に近づく。
そして、ビニールの手袋をつけながら男の前でしゃがむと、彼の口元を覆っていたマスクを外した。
そして、その頭を持ちあげた瞬間、茅野は大きく目を見開く。
「……この人」
そのあと、桜井と茅野は篠原へと素直に連絡した。
篠原結羽は玄関の扉を開けるなり、
「だから、この件にもう関わるなって言ったでしょう!?」
「これは別件よ」と、茅野は涼しい顔で言ってのける。
「別件んんん?」
篠原が半眼で聞き返す。すると桜井が頷いて口を開く。
「そう、別件。三億円事件の犯人を追っていたらこうなった」
あながち間違いでもない嘘を吐くが、とうぜん篠原は納得しない。
「は? 三億円事件って何なのよ?」
「府中三億円事件よ」
さらりと放たれた茅野の言葉に、篠原はくだらないジョークを聞いたときの調子で鼻を鳴らした。
「何を馬鹿な事を……嘘を吐くならもう少しマシな嘘を吐きなさいよ」
「だから、循はすぐバレるような嘘は吐かないんだって」
桜井が苦笑する。
そこで茅野は例の五百円札を篠原に手渡した。それを
「これは、いったい何なのよ?」
「その紙幣の番号を見て
「何よ、本当に……」
と、ぼやきながらも言われた通り、篠原は番号に目を通した。
すると、彼女は思わず、ぎゃふんと言いそうになるぐらい驚いた。
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