【09】大仕事


 一九六八年十二月十日の朝の空気は、昨日から降り続いていた雨により、ひんやりとしていた。

 そんな中、東京都の国分寺通りから枝分かれした小道の途中にあるくぬぎ林から、ヤマハ・スポーツ350R1に股がった是枝充が姿を現す。

 彼の格好はまるで白バイ警官のようで、バイクの方もぱっと見では白バイそのものであった。よく観察すれば、そうではない事が知れてしまうであろうが、この薄暗い悪天候下では、すぐに偽物と見破る事は困難であると思われた。

 ともあれ、彼はその人気のない道を南下し、府中刑務所裏を横切る通称“学園通り”を目指した。

 その途中で自らのバイクがシートカバーを引きずっている事に気がく。少し慌てたが、今からバイクを停めてシートの引っ掛かりを外している時間的な余裕は恐らくもうない。是枝は腹をくくり、そのまま走り続ける事にする。

 やがて、彼の乗ったバイクは学園通りに出ると右折した。

 まず左側の沿道に連なる刑務所の高い塀が目に入り、そこから歩道を挟んで白いガードレールが帯をなしている。そして、車道を挟んで対面の沿道にもガードレールがあり、その奥には民家がぽつりぽつりと建ち並んでいた。

 是枝が道なりに進むと、やがて前方を走る黒のセドリックが見えてきた。

 間に合ったと心の中で安堵あんどすると、彼は赤色灯に偽装したストップライトを点灯させた。

 スピードを更にあげ、是枝のバイクはセドリックを追い抜く。その瞬間、雨に濡れたサイドウィンドウ越しに怪訝そうな顔をした男の顔がうかがえた。車中には全部で四人。事前に数寄屋から聞いていた通りだった。

 ここまでは何も問題は起こっていない。きっと上手く行くはずだ。是枝は左手を水平にしながらセドリックの前に出るとブレーキを踏んでバイクを停めた。セドリックも停車する。

 是枝はバイクから降りるとセドリックに駆け寄った。すると、運転席の窓が少しだけ開く。

「あの、どうしたんですか?」

 と、運転手に問われたので、是枝は事前に何度も練習して頭に叩き込んだ台詞を吐き出した。

「小金井署の者ですが、巣鴨警察署からの緊急連絡で、貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破されました。この車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので、車の中を調べてください」

 すると運転手は眉間のしわを深めて「昨日の点検では、そんなものは見つからなかったが」と言った。

 後部座席に乗っていた二人の男が慌てた様子で車内を見渡し、是枝の方を見て首を振る。

 そこで是枝は、少しだけ考え込むような間を置いて次の台詞を発した。

「車の下にあるかもしれない。申し訳ありませんが、いったん全員、降りてもらえませんか」

 車中の四人はお互いに顔を見合せた後に、そそくさと車を降りた。

 直後に是枝が横目で運転席を窺うと、エンジンキーがぶら下がったままとなっていた。そのキーストッカーには他にもいくつかの鍵がついている。

 本来ならトランクを確認したいとか何とか理由をつけて、鍵束ごと借りる予定だったが手間が省けた。是枝は内心でほくそ笑む。

 その鍵を抜き取ると車の前方に周り、ボンネットを開けてエンジン周りを点検する振りをした。

 是枝は少し離れた位置で見守る四人の男の視線を受けながらボンネットを閉めて、車の下周りを確認する振りをした。そして、四人の死角で懐に隠し持っていた発煙筒を取り出し声をあげる。

「あったぞ! ダイナマイトだ! 爆発するぞ! 早く逃げろ!」

 同時に発煙筒を素早く点火し、車の真下に投げ入れる。もくもくと煙が吹き出し、発煙筒の炎がまたたく。四人は驚き、更に車から距離を取った。

 彼らのうち三人は刑務所側とは反対の沿道に待避すると、民家や垣根の影に身を伏せる。

 四人のうちの一人はセドリックの後方へと駆けていって、路上の真ん中で大きく両手を振り、後続車のトラックを停めていた。反対車線からやって来た陸上自衛隊車両が停車し、中から消火器を持った自衛官が姿を現した。

 一気に場の空気が騒然そうぜんとし出す。

 そんな中、是枝は急いでセドリックの運転席に飛び乗ると、鍵を差してエンジンをかける。扉を乱暴に閉めて、車を急発進させた。アクセルを踏み込み、現場に立ち込めた発煙筒の煙を置き去りにする。

「やったぜ! 畜生ちくしょう!」

 気分は爽快だった。

 この車のトランクには、いくつかのジュラルミンケースに入れられた二億九千四百三十万七千五百円もの大金が積まれているはずなのだから……。

 そんな、普通ならば一生お目にかかる事のない大金を華麗に奪取だっしゅしたのだ。すべての計画は数寄屋が立てたものだった。

 是枝は臆病者であったが、他人の計画や命令をなぞるのは誰よりも得意だった。

「あははは! サイコーの気分だ!」

 自分を出来損ないだと見くびっていた両親や同級生たち。悩める自分に見向きもしなかった社会。それらに痛烈な一撃を与えた感覚。

 是枝は生まれてこの方味わった事のないほどのハイな気分で、学園通りと府中街道の交わる交差点を右折した。しかし、その瞬間、信号が赤であった事に気がつく。

「やべ!」

 大型ダンプカーと衝突寸前になるも、何とか事なきを経て、是枝充はそのまま事前に予定されていた逃走経路を辿った。

 それから、セドリックを捨てて、二台の逃走車を乗り継ぎ、いったん都内某所にある数寄屋のアジトを目指す。そこは住宅街から少し外れた場所にある雑木林に囲まれた一軒家だった。

 この頃の東京都内には、まだこうした人気ひとけのない場所が少なからず残っており、ここもそんな場所だった。

 その一軒家のガレージでお金をすべてポリ袋に移し変える。それから空のジュラルミンケースをトランクに乗せて、再び車で走り出す。小金井へと向かい、団地の駐車場で車を降りてシートを被せた。

 そして、再び用意されていた別の車に乗り換えてアジトへと戻る。

 そこでは数寄屋と瀬川穂波が出迎えてくれた。二人はすべてを計画通りにこなし、最高の成果をあげた是枝を称賛し労ってくれたが、ここでずっと高揚感により麻痺していた精神的疲労がどっと押し寄せる。

 そのまま、奥の六畳間に敷かれた布団の上で翌日の朝まで泥のように眠り続けた。




 次の日。

 香ばしい香が鼻腔びこうくすぐり、是枝は目を覚ました。

 のろのろと身を起こし、襖を一つ隔てた居間の座卓にはトーストやオムレツといった朝食が並んでいた。

 そこではすでに数寄屋がつけ合わせのポテトサラダをフォークで口の中に詰め込んでいた。

「……起きたか」

 数寄屋が顔をあげた。

「あ、おはようございます」

 と、言うと数寄屋はコップの中の牛乳を飲んでから言葉を発した。

「飯の後で良いから、ちょっと一仕事頼みたいんだが……」

 そう言って、数寄屋は「おい」と声を張りあげた。

 すると、台所に通じた磨り硝子の戸が開き、その向こうからエプロン姿の瀬川が現れる。彼女は手に持った高島屋本店の紙袋を是枝に手渡す。

 中には五百円札の束が入っていた。

「これは……?」

 是枝が二人の顔を交互に見渡した。すると、数寄屋が鼻を鳴らして笑う。

「昨日、記者会見で、なぜか警察が盗まれた五百円紙幣の番号だけを公表した」

「何で、そんな事を……」

「さあな。舐めてんだろ」

 数寄屋の言う通り、当初は現場に遺された遺留品の多さから、捜査関係者の間では楽観ムードが漂っていた。

 盗まれた紙幣の中で唯一記録されていた五百円札の番号を公開するという愚行も、そうした気の緩みが原因だったと言われている。

「兎も角、そこに入っているXF227001A・・・・・・・・・から・・XF229000A・・・・・・・・・の五百円札二千枚を全部、処分しろ」

 当然、こうなる。

 これには是枝も苦笑いであった。

「警察って、馬鹿なんですかね?」

「まったく、俺たちを捕まえる気があんのかっつー話だよなあ……」

 げらげらと笑う数寄屋。瀬川も口元に手を当てて、クスクスと笑っている。是枝も笑った。最高の気分だった。

 しかし、是枝は数寄屋の命令に従わなかった。彼が火にくべた紙幣の枚数は千九百九十九枚であった。

 是枝が一枚だけ五百円札を残した理由は、ただの自己満足であった。

 もちろん、自分が府中三億円事件の実行犯である事を誰かに話すつもりはなかった。墓場まで持っていくつもりだった。

 しかし、一方で、この大仕事を成し遂げて世間を騒がしたのが自分自身であると、声高らかに叫びたい気持ちもあった。

 そんな満たされない承認欲求をなぐさめるために、自分がこの事件の犯人であるという優越感に浸るための記念品を手元に置いておきたかったのだ。

 そして、この五百円札の事は、数寄屋ですら知らない。世界でただ一人自分だけが知る秘密であるというのも彼の心を震わせた。

 是枝はその五百円札をポケットにねじ込んだとき、世界の頂点に立ったような気分になった。

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