【11】真腹パン
ちょうど、阿武隈一子と桜井梨沙が拳を交え始めた頃だった。
蔵の床にあった蓋を開けて梯子を下った篠原結羽は、地下室の床に転がった革エプロン姿の男を発見した。
急いで梯子から飛び降り、男の元へと駆け寄る。その後に九尾が続いた。
篠原は男の元で屈むと、声をかける。
「大丈夫ですか?」
男は結束バンドで両手を後ろで縛られていた。顔を横向きにしてうつぶせとなり、湿った床に寝そべったまま目を閉じていた。その表情は苦しそうだった。
よく見れば、何者かに殴られたらしく、鼻が赤く腫れており、口の上に鼻血の痕がわずかにこびりついていた。
「う、う、ん……」
男がゆっくりと目蓋を押し開き、ぎょろりと眼球だけを動かして篠原を見あげる。
「あなたは、ここの住人?」
男はゆっくりと顎を引いて首肯した。
「……いったい、何があったの?」
と、篠原が尋ねると、男は弱々しい声をあげる。
「へんな……二人組が……急にやってきて……腹を……蹴られて……首を……」
「その二人組って、高校生くらいの女の子? 一人は背が高くて黒髪で、もう一人は小柄で髪を後ろで縛った……」
その問いかけに、男は静かに頷く。
すると、篠原は途端にすっと立ちあがり、肩を震わせる。
「篠原さん……?」
背後から九尾が怪訝そうに声をかけると、篠原は勢いよく振り向いた。
その表情は、これ以上にないほどの歓喜に満ち溢れていた。
「先生! これは強盗事件よね!」
「はあ……いや、その」
と、答えを濁していると篠原は、更に捲し立てる。
「……住人が突然現れた侵入者に暴力を振るわれて拘束された!」
「ま、まあ……」
篠原の考えている事が解らず、九尾は困惑しつつ、質問を続けた。
「だから、何でそんなに嬉しそうなんですか……」
「
「は?」
思わず目が点になる九尾。
篠原は狂気をにじませた笑みを浮かべながら、朗々と言葉を続けた。
「……いやー、誰だろうなあ! 高校生くらいの二人組の女の子! 心当たりはぜんぜんないけど、探し出して逮捕しなきゃ!」
と、まるで宝くじの高額当選を果たしたときのような顔で言う。
それを見た九尾は、だいぶストレス溜まってたんだな……と、思った。そして、咳払いをする。
「冗談はさておき……」
「冗談ではありませんが」と、真顔の篠原を無視して、九尾は近くに落ちていた片刃の斧に目線を移しながら言った。
「……この男が本当の事を言っているか解りませんし、まずは彼女たちにも話を聞いてみないと。それに、ここはそもそも、震災以降、住人がいないはずですよ」
意外にも冷静な九尾の言動を目の当たりにして、ようやく我に返る篠原。
「そ、そうですね」
そして、懐から警察手帳を取り出して男に見せた。
「警察です」
すると、男の表情が明らかに変わる。それは、何か後ろめたい事を隠しているときの、犯罪者の顔つきであった。流石に篠原もこの表情の変化は見逃さなかった。
「……私たちは、ここへ十六年前に逗子から持ち去られたあるものを探しにやってきたんだけど」
この問いに男は記憶を探るような顔をしたあと、はっとした様子で口を真一文字に結んだ。
誰がどう見ても何かを隠しているようだった。
それを目の当たりにした九尾は、不安げな眼差しを奥へと続く扉に向けて言う。
「……何か嫌な予感が猛烈にします。先を急ぎましょう」
二人は拘束された男をそのままにして、梯子のある地下室をあとにしたのだった。
その頃、桜井梨沙と阿武隈一子の戦いは最終局面を迎えようとしていた。
一子は不敵な笑みをたたえながら、意味不明な事を言い始めた桜井を見据えたまま考える。
まさか、この局面を打破する何らかの奥の手が……。
しかし、すぐにそれはないと考え直す。
相手はまるで子供のように小柄だ。
もしも、出会い頭のような投げ技を狙っているのであれば、今度はしがみついて押し潰してしまえばよい。あると解っていれば、対処のしようはある。
そう判断した一子は、一気に距離を詰めて慎重にジャブを二発突いた。続けざまに右ストレート、左フックのコンビネーションを見せた。
桜井は風に吹かれた柳の木のようにゆらり、ゆらりと前後左右に揺らめきながら、これらをすべてかわし、ぬるっと一子の懐へと潜り込んだ。
投げ技が来るか……と、思いきや、桜井が放ったのは中段突きであった。
しかも、これまでの攻撃とは違い、キレが感じられない。
それは、まるで一子の腹部へと己の拳を差し出すかのような、そんな動きであった。
ふざけているのかと、一子は思った。
こんな攻撃なら大したダメージにはならない。あえて受けて、カウンターで右を打ち下ろす。一子は勝利を確信した。
その瞬間であった。
桜井の拳が一子の鍛え抜かれた腹部に衝突する。
ぱあん、という何かが破裂したかのような打撃音。
「うご……」
これまでの腹パンとは比べものにならないほど重い衝撃。
それは、彼女の鍛え抜かれた腹筋を容易に貫き、体内に重いダメージを残した。
胃袋から胃酸が駆けあがる。下半身の力が抜けて膝を折った。
同時に下降した一子の顎を桜井の上段膝蹴りが迎え打つ。
頭蓋の中で脳が揺さぶられ、白眼をむく一子。
その遠退く意識の中で、最後に耳にしたのは……。
「……君は強かった」
一子は思い出す。
“ママ”以外の人に褒められたのは、これが初めてだ……その思考を最後に彼女の意識は途切れた。
「梨沙さん、まさか、貴女がここまでの水準だったなんて……」
倒れたまま動かない阿武隈一子を結束バンドで拘束しながら茅野が言った。
「この技は、いずれ何らかの怪異にぶち込むつもりだった」
桜井が、きりっとした顔つきで言う。
彼女が放った無造作に見える中段突き。
一見すると超常的なパワーを用いたように思える。それこそ、バトル漫画であるような“気”などという未知のエネルギーを……。
しかし、その正体は、特殊な身体操作と重心移動により、己の体重を効率的に拳へと乗せた一撃であった。中国拳法や琉球空手などに似たような技法が存在する。
拳で殴りつけるというより、拳に乗せた重さを一気に相手へと押し込むといった方が近い打撃である。
この技法により、通常のパンチとは比べ物にならないほどの威力を実現する事ができるのだ。
ただ、この技を成立させるための条件やタイミングはかなり難しく、おいそれと実戦では連発できない。
ともあれ、桜井は一子を真剣な表情で見おろしながら言う。
「……彼女が、もっと、ちゃんと何かの格闘技を学んでいたら危険だったかもしれない」
「……貴女がそこまで言うなんて余程ね」
茅野はそう言って、床に寝そべったまま動かない一子を見おろしながら楽しそうに笑う。
すると、次の瞬間だった。
「あなたたち!」
桜井と茅野は同時に、その声のした方を見た。
梯子のある部屋から延びた通路の入り口に、篠原と九尾の姿があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます