【10】苦戦


 阿武隈一子はまともに育てられていれば、何らかの競技スポーツにおいて、ひとかどの存在となれていたであろう。

 実際、彼女の双子の姉はアスリートとして、かなり優秀な成績を修めていた。

 しかし、一子の実の両親は、どういう訳か姉ばかりを可愛がり、彼女を理不尽に虐げた。

 阿武隈礼子が一子を連れ去ったあとも、一週間経ってようやく捜索願を警察に提出したほどだった。

 ともあれ、兄の二男とは違い、一子は引っ込み思案な性格で、大好きなママの力になれるとしても外の世界に出たいとは思っていなかった。

 しかし、ママがいつも褒めてくれたので、一子は身体を鍛える事は怠らなかった。お陰で彼女は三兄弟で随一ずいいちの身体能力を手に入れるに至る。

 その努力の成果はママから与えられた“仕事”をこなすときに発揮された。

 その仕事というのは、ときおりママが外から連れてくる人間を始末する事だった。

 これは彼女が大人になってから知った話だが、その人間たちはどうしようもない負債を抱えた者や、裏社会の人間と揉め事を起こした者ばかりであった。

 彼らは金によって買われ、呪術の素材となるために連れてこられたらしい。

 そうした者たちを、なるべく苦痛と恐怖を与えて、素手でなぶり殺すのが一子の勤めであった。

 ママによれば、憎悪や恐怖といった負の感情を抱いて死んだ者の方が呪術の素材として上質なのだという。

 その感情が強ければ強いほど、素材の価値があがるとも……。

 ママは、その“仕事”の様子を肴に晩酌を楽しむのが大好きで、特に彼女が好んだのが、一子と連れてきた者たちを素手で殴り合わせる事だった。

 恵まれた天性の素質と鍛えぬかれた身体能力を持つ彼女にとって、その“仕事”は猫が鼠をいたぶるようなものであった。

 次第に彼女は弱者をなぶり殺す事に快感を覚え始める。

 因みに一子が処した犠牲者たちは、ママの指示のもと、一男と二男によって適切に解体されていた。

 そんな“仕事”の経験は、現在も阿武隈礼子の遺産を狙ってやってくる侵入者と対峙するときにいかされている。



 暗闇から飛び出して思い切り右足を踏み込んだ。その瞬間、床の水溜まりが王冠のような飛沫しぶきをあげた。

 阿武隈一子は右拳を打ち下ろす。

 その一撃は小さな少女の右頬を完全に捉えたかのように思われた。

 しかし、少女はとても周囲に注意を払っていたとは思えないようなぼんやりとした表情のまま、高速で飛来する砲弾のような拳をわずかに仰け反ってかわす。

 そして、一子の手首が彼女の鼻先を通過した瞬間だった。

 小柄な少女は束ねた後ろ髪をなびかせ、伸びきった一子の右腕を抱え込みながらひるがえり背を見せた。

 それとほとんど同時といっていいタイミングで、床と一子の足を繋いでいた重力が唐突に遮断され、凄まじい勢いで彼女の巨体が浮かびあがる。そのまま、前方へと投げ捨てられた。

 背中を襲う衝撃と激痛。

 しかし、そのお陰で我に返る事ができた。

 顔をしかめたあと、見開いた一子の瞳が捉えたのは、容赦なく顔面を踏み潰そうと上空から迫る少女の右足であった。

 一子はとっさに身体を横に回転させて逃げると、すぐさま起きあがって距離を取る。

 刹那のタイミングで床を踏み鳴らす少女の右足。

 たあん、と、空気が爆発したかのような音が響き渡る。

 一子は早々に悟る。

 彼女は、これまでなぶり殺してきた弱者とはまったく異なる存在であると。

 こんな相手は初めてだった。

 その少女は拳を構えると、一子を見据えたまま言う。

「……循、こいつはあたしにやらせて」

 そして、彼女の寝起きのようだった顔つきが一変する。

 猛獣のような笑顔。

 まるで、この状況を心の底から楽しんでいるかのような……。

 そして、いつの間にか特殊警棒らしき武器を右手に構えていた黒髪の少女が、後退りをしながら言った。

「解ったわ。気をつけて、梨沙さん」

 何のつもりかは解らなかったが、一子にとっては正直ありがたかった。これから、この小柄な少女の相手だけで手一杯になるであろうからだ。

 大声をあげて兄たちに助けを求めようかと一子は迷ったが、すぐにその考えを打ち消す。

 相手側にこちらの人数を知られるのは不味い。敵が複数人いる事を悟った彼女たちは撤退するかもしれない。蔵の中に通じる梯子の部屋はすぐ近くだ。兄たちが応援に駆けつける前に、逃げに徹した彼女たちを取り逃してしまう可能性が高い。

 何よりも危惧すべきは、この場所を外に知られてしまう事である。二人を逃がすという結果は、何としてでも防がなければならない。

 それよりも、自分が少女たちを引きつけている間に、物音を聞きつけた兄たちがやって来て、彼女らに奇襲をかけてくれる事を期待するしかない。

「……どうしたの? こないの?」

 小柄な少女が不敵に笑う。

 一子は何も答えない。

 すると……。

「……ならば、こっちから遊びに行くよ」

 そう言い終わったと同時に少女が床を蹴りつけて突っ込んでくる。

 侵入者の少女VS阿武隈一子の第二ラウンドが始まった――。



 阿武隈一子は突っ込んできた桜井梨沙を迎え打つ。

 間合いが詰まったと同時に打ちおろしの右を合わせた。

 しかし、桜井は素早いヘッドスリップと踏み込みで攻撃を潜り抜ける。そして一子の右腕が伸びきったのと同時に、腰を大きく回転させ、渾身こんしんの左フックを放った。

「うりゃー」

 その緊張感に欠ける一声と共に一子の脇腹をえぐるのは、スポット探索において幾多の獲物をしとめてきた必殺の拳。

 手応えも充分であった。

 しかし、一子は一瞬顔をしかめるも、すぐに口角をあげた。

 それを見た茅野は驚愕きょうがくあらわにする。

「腹パンが……効かない……?」

 その言葉が終わらないうちに、一子が丸太のような左の上段蹴りを放った。

 桜井はこれを咄嗟に右腕でガードしながら左へ跳んで受け流し、距離を取る。

 再び拳を構えて見合う両者。

 そこで、茅野が声をあげる。

「そうか……体重差……」

 格闘技において、どんなに技術を研いても、どんなに身体能力を鍛えても、体重差のくびきからは逃れられない。

 体重が重ければ重いほど打撃の威力は増し、体重差において勝れば相手の打撃は吸収され、防御面においても利を得る事ができる。

 ほとんどの格闘技において、ウェイト別に階級が分けられているという事実は、そのアドバンテージがいかに大きなものであるかを物語っていた。

 ある程度は技術や身体能力の差でカバーは可能である。しかし、それらが同レベルに近づくほど、その影響は如実に現れてくる。

「……梨沙さんが、あまりにも化け物じみているから、この世の物理法則を忘れていたわ」

 勘違いされがちであるが、桜井梨沙とて身長一メートル半ちょっとしかない普通の女子高生なのだ。

「対する相手はそれより三十センチ近く上背のある巨体……しかも、筋肉のつき具合も悪くなく、身のこなしも素早い。そして、何よりも大きく隆起した拳ダコ……暴力に慣れている!」

 思わずバトル漫画の解説役のようになってしまう茅野であった。

 そうこうするうちに、一子が仕掛ける。

 我流ながらも素早いコンビネーションで、拳の雨を降らせた。

 桜井は軽快なフットワークを見せながら、これを両手で次々と弾き、防ぎ切る。

「これは、ボクシングの基本的なディフェンス技術の一つ“パリング”」

 解説役ごっこを続ける茅野。なんやかんやで桜井の勝利を信じており余裕である。

 さておき、桜井は間隙かんげきを縫って、置き土産に強烈な腹パンをかまし、アウトサイドへと逃げる。

 しかし、やはり一子には効いた様子は見られない。

 そのまま、バックステップで再び距離を取る桜井。

 一子はというと、この攻防で確信を抱く。

 パワーでは圧倒的に自分が有利。

 あの出会いがしらで食らったような投げ技を警戒すれば、この小柄な少女にこちらを倒す方法はない。

 けっきょく、こいつも今まで殺した相手と変わりはしない。単なる玩具だ。

 勝利を確信した一子は、嗜虐的しぎゃくてきな笑みを浮かべた。

 すると、桜井が唐突に構えた拳をだらりと落として、おかしな事を言い始めた。

「……まさか、人間相手に・・・・・、この技を使う事になろうとは」

「ニンゲンアイテ……とは?」

 意味がさっぱり解らず、一子は首を傾げた。

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