【09】優しさ


「……流石ね。梨沙さん」

 そう言って、茅野循はリュックから取り出した結束バンドで、気絶した斧男を拘束した。

「それにしても、いったい、何者かしら?」

「さあ……」と、桜井は首を傾げたあと、言葉を続ける。

「ただ、なかなか、侮れない相手ではあった」

「そうかしら? 楽勝に見えたけれど」

 茅野は立ちあがると、顔を左側に向けて床に寝転がる斧男を見下ろした。

 すると、桜井が、きりっとした戦闘者の顔つきで言う。

「斧を振る動作に、躊躇ちゅうちょや恐れの感情がまったく感じられなかった。たぶん、この人、人を襲うのはこれが初めてじゃないと思う。あと、かなり、素早かった」

 それは、女子高生ながら、数々の実戦を潜り抜けてきた桜井にしか解らない領域の事柄なのであろう。

 茅野は真剣な表情で彼女の言葉に耳を傾ける。

 そして、桜井は最後にこう断言した。

「いずれにせよ、この人、そこら辺の心霊スポットによくいる頭のおかしい人じゃあないね」

 そこで、茅野が、ある事に気がつく。

「この人、鼻を怪我してるわね。これって……」

「ああ、うん。最初からだね。さっき、この人が膝を折ったあと、ちょうどいい高さだったから、顔面に膝蹴り入れようとしたけど、鼻の怪我に気がついたから、裸絞めにしてあげたんだ」

「優しいのね」

「いや、それほどでも」

 と、そこで顔を見合わせて笑う二人。

「兎も角、用心して進みましょう」

「らじゃー」

 二人は扉を開けて梯子のあった部屋をあとにしたのだった。



 傷だらけの巨大な書斎机。

 アンティークのランプシェードの支柱には、添え木が当てられている。床に敷かれているのは、ところどころ擦れた跡が残る絨毯じゅうたんであった。

 壁一面を覆う書架を見れば、様々な言語で書かれた古文書や魔術書の背表紙が並んでいる。

 その部屋の唯一の扉が開き、姿を現したのは阿武隈一男であった。

 テーブルの上に懐中電灯を置くと、変わりにマッチ箱を手に取る。そして、銀製の燭台しょくだい蝋燭ろうそくに火を灯し始めた。それから、ソファーに寝そべり目を閉じる。

 この部屋はかつて母屋にあった、阿武隈礼子の私室を再現したものだった。例の地震により、すべてが土砂に呑まれてしまったが、調度類を一つ一つ掘り起こし、修理して、この地下空間へと運んだ。一男は、この部屋で寝泊まりしている。

 はっきり言ってしまえば、地震でインフラが止まった今となっては、この地下空間で暮らすのは不便でしかない。

 偽の戸籍を持つ一男は、二男や一子と違って、自分で住居を借りて外で暮らす事ができる。この暗闇と湿り気しかない地下空間よりも、家賃が数万程度のワンルームアパートの方がずっと快適に過ごせるであろう。

 しかし、一男はこの場所から出ようとしなかった。

 幼い頃からずっと暮らしてきたこの場所が、彼にとって何よりも落ち着く空間であったからだった。

 それは、まるで阿武隈礼子ママの胎内に包まれているかのような……。

 静寂に耳を済まし、蝋燭の明かりのみの薄暗闇を見つめているだけで、微睡まどろみが忍び寄ってくる。

 こんなとき、目蓋の内側に映るのは“ママ”の姿だった。

 生き地獄から救い出してくれた天使のような人。

 彼女がいなければ、自分はこの歳まで生きる事ができなかっただろう。

 人間らしさと人並みの幸せを教えてくれた最愛の人。

 だから、今度は自分の番だ。

 反魂の術を完成させ“ママ”を必ず復活させる。今度は自分が彼女に命を与えるのだ。

 もちろん、人を蘇らせるなど、生半可にできる事ではない。そもそも、術のやり方は阿武隈礼子が残した魔術や呪術の書物を参考にしてはいるが、すべて一男の独学によるものであった。そんな術が本当にこの世に存在するかどうかも解らない。

 しかし、彼は絶対にやりとげるつもりでいた。

 もしも、彼女が復活したとしたら、きっと優しい言葉でたくさん褒めてくれるに違いない。

 そのときの事を想像しながら、一男は目蓋を閉じたまま、ほくそ笑む。

 そのまま彼は眠りに落ちた。



 梯子のあった部屋から出ると、細長い廊下が延びていた。

 桜井を先頭に慎重な足取りで奥へと進む。

「……どうやら、単なる地下倉庫という訳ではないらしいわね」

 茅野が丹念に周囲を見渡しながら言う。

 通路の天井には等間隔で照明の笠が並んでおり、廊下の左の壁には配管が這っていた。

 配管は錆びついており、所々断裂していた。その切れ目からは濁った水滴がしたたっていて、床に水溜まりを作っていた。

 やがて、二人の目の前に円形の空間が現れる。

 直径は六メートル程度で、かなり高い位置にあるドーム型の天井には割れた窓があった。その向こうは雑草で覆われ、うっすらと光が射し込んでいる。

 どうやら、地上に通じているらしい。

 床には硝子片や小石、木の枝などが散乱しており、割れた天窓の下には大きな水溜まりが広がっていた。  

 そして、左右正面の三方向へと狭い通路が延びている。

「さて、どちらへ行こうか」

 桜井が、その円形の空間に歩みを進める。彼女の背後で茅野が声をあげる。

「悪魔の右手、神の左手……つまり、右ね」

「なるほど」

 なぜか桜井が納得した次の瞬間だった。

 その右手の通路の暗がりから大柄な影が飛び出してきて、桜井梨沙に襲い掛かってきた――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る